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書店には、版元が苦しまぎれにやっつけで作った紙の無駄でしかないような新刊が、注文してもいないのに毎日大量に搬入されてくるんですよ。返本するしかないだろ。
とりあえず新刊を取次に送り込めばいったん売上が立つので(売れなければいずれ大量返本されて詰むので、完全にその場しのぎではある)とくに苦しくなってきた出版社は粗製濫造に走りがち。私が去年の春まで在籍していた版元も年々その傾向が強まってきていたうえに、営業への異動で書店に直にそういうしょうもない新刊を売り込まなきゃいけなくなったのが決定的に無理で、10年以上勤めた会社を辞めたんだよ…

書店員が気に入らない本を勝手に返本するなんて営業妨害だ、キャンセルカルチャーだ、という意図を含んだ引用もついてほんとうにげんなりした。
宝塚歌劇団でも某短歌結社でも、加害側の人間は告発されてもなお組織に残り、被害側・被害を告発した側は去っている。危険を感じるほど「キャンセルカルチャー」が機能してる場所なんかないよ。

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おそらくは書店員が独自に注意喚起オビをつけた『トランスジェンダーになりたい少女たち』、投稿されていたオビの写真を見て、私はこの現場の書店員さんはすごい、えらいな、と思った。科学的根拠が疑われている等、コンパクトだけどきちんと調べてある内容だったし、文言も冷静だった。職務を果たしつつ、自分ができる範囲内でやるべきことをしているかただと感じた。

1冊棚差しだったとのことで、黙ってしれっと返品してしまうこともできただろうに(私なら多分そうする)わざわざ手間をかけて注意書きをつけて店頭に並べるの、むしろ「検閲」や「焚書」と真逆の行為だと思う(差別的な内容の本の出版停止を要求するのは「検閲」や「焚書」ではもちろんない)。

…という投稿を旧ツイッターにしたら急に不穏な感じの引用がつきはじめ、ブロックでは対応しきれない危険を感じてアカウントに鍵をかけた。14年運営しているメインアカウントを非公開にするのは初めてです。
旧ツイッター、もう終わりだな…と100回ぐらい感じたし投稿もしたと思うけど、いま過去最高に「終わり」を感じている。

性的なシーンにおいて能動(加害)側の俳優さんが自らインティマシーコーディネーターの参加を希望するケースがある、ということにびっくりしてしまった(びっくりしなくて済むようになってほしい)。
高嶋政伸さん、誠実かつめちゃめちゃプロだな…

高嶋さんが「僕に娘がいたら、とても演じられない」と感じてしまったと吐露していて、そうだよな、暴力を振るわれる役の俳優だけではなく、暴力を振るう役の俳優にも暴力的な場面を演じることへの苦痛はあるし、配慮されるべきだな、と今さらながらに思った。
shinchosha.co.jp/nami/tachiyom

『成功したオタク』を観ました。「推し」がやらかした(犯罪をした)ときにファンはどうしたら…という、現在の日本でも直面している人が多いであろうテーマなんだけど、「加害した推しのファンを続けることはありえない」というラインはかなりきっぱりしていて、日本との差を感じた。
もちろん思い出もあるし、そう簡単に割り切れない、という辛さは語られていたものの、とにかく「犯罪者は推せない」というのが大前提。「ファンでいることは二次加害」というような言葉も出てきた。

オ・セヨン監督がかつての自分の日記を読み返し、推しを告発した記事の記者を名指しで責める記述を見つけて記者本人に謝罪メールを送り、会ってからの展開がすごい。記者は「罪を犯したアイドルを擁護しつづけるファン」を「パク・クネの支持者のようなもの」と言い、監督はパク・クネの支持者たちの集会に足を運ぶんだけど、ここはほんとうにすごかった。
宝塚歌劇団や松本人志を擁護したいあまりに週刊文春を非難し、「サヨクと活動家の陰謀」と言い出し、「ネット右翼」と合流していく旧ツイッターのアカウント群を思い出さずにはいられなかった。
neol.jp/movie-2/127371/

年度の始まりとエイプリル・フールが重なるの、ちょっと面倒だな、といつも思う。

罪のない、他愛ない嘘であっても、完全に騙されすっかり信じこんで(疑う理由がないので)「へええ〜そうなんだ!」と真剣に驚いた瞬間に「嘘です」と種明かしされるときの気持ちは、正直よいものではなかったな。
親がこの手のちょっとしたいたずらが好きで、子どものころさんざん「騙された」のでたまたま私はこうなった、というだけで、罪のない嘘に騙されることを楽しめるひともいるのかもしれないが…

私は嘘つきなところもある人間ですが、理由のない・ちょっとした嘘はつけなくて、嘘をつくときですら真面目です。

「真面目・堅物・融通が効かない」みたいなことを徹底的に茶化されてたのが90年代だったという印象があって、まあ私もそういう茶化しを内面化してもいるんだけど、それでも茶化しのほうが無効化してきたことで最近はかなり楽になった。なので『不適切にもほどがある!』のようにそこをひっくり返されるのはしんどい…(話が逸れてきた)

「政治を持ちこむな」みたいな話をされるとき、現政権与党側とかいわゆる「右」の政治性は透明化されるよな、ファンアートに添える意匠としてはプライドフラッグより日の丸のほうがよっぽど「政治」じゃん…と思って、アッ私が刀剣乱舞の二次創作に感じていた危うさはこれだわ、というところに着地してしまった。
政治的であるということを意識すらせず、ただ「なんかかっこいいから」というだけの理由でキャラクターに日の丸を添えるようなことを私自身もやっていた。日の丸に誇りを感じる人ならそういう表現になっても筋は通っていると思うんだけど、私はむしろ忌避感があるほうで、そういうことはあんまりしたくないし、気づいた以上もうできないなと思って離れたのでした。清光や長谷部や鶴丸のことはずっと好き。

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差別など一般的にアウトとされる表現でなければ、という留保は当然つくが、基本的には政治的なメッセージを前面に出したファンアートを発表することはぜんぜんやっていい。そもそも誰かに「やっていい」とか言われる筋合いのことでもないし、作者だろうが侵害できない。あらゆる表現には政治性がついてまわる、ということももちろんその通りだ。

そのうえで、作者が「自分のキャラクターにプライドフラッグを持たせてほしくない」という感じを漂わせているなら、この作者はプライドフラッグにポジティブな感情がないんだな、と私は邪推してしまいますね。

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キャラクターにフラッグを持たせたりシンボルカラーをまとわせたりする、メッセージ性を前面に打ち出したファンアートの話題。まず、作者が不快感を持っており、かつそれを表明したとして、それには(ファンに対する圧力にはなっても)そうしたファンアートを禁ずる力はないはずだ。
受け手に渡った作品について作者ができることはほとんどない、と私は考えており、ファンアートへの干渉も基本的にはできないという考え。

そのうえで、キャラクターに政治的な主張をまとわせるファンアートを作者としてどう思うか?と問われたとき、私は「全面的にOK、好きにやってほしい」とは正直なところ思えない。
プライドフラッグなら拙作の登場人物にどんどん持たせてほしいが、日の丸や旭日旗を持たせられたらちょっとゾッとする。そういうファンアートをやるなとは言えないが、目にしてしまったら穏やかではいられないと思う。

作品を受け取ったひとがどう思い、それに対して何を表現するかは私の干渉や侵害の及ばないところにある、と再三前置きしたうえで、私は、私と同じ方向性の政治的な主張であればファンアートで表現してもらえることはとてもうれしいし、対立する思想、たとえば現政権与党を応援する台詞などを拙作のキャラクターに言わせられたら、もうめちゃくちゃに不愉快になってしまう。

私もその本を読まねばならない…シルマリルリオンで煽られたいです!!!!

どんなに客観的に事態が整理されても感情がおさまらないということはあって、私はかつての友だちと別れたことを引きずりつづけてそろそろ12年目になる。これはほんとうに不思議なんだけど、年々自分のなかでこのことを人に話しづらくなっていく。何もかも話したい、聞いてもらいたい、という気持ちはずっとあるのに。

たぶん、「思い出して話す」ということはそれだけでエネルギーを使うことなのだと思う。20代ぐらいまではそんなこと考えてみもしなかったけど。

昨日、6年ぐらい言えずに黙っていたことを勢いで口に出し、ささいなことではあるけど自分のなかではわりと大きなことだったので、ああ言ってしまったな〜と思っている。

別れにまつわるもろもろの感情はおそらくこのまま死ぬまで引きずりつづけるしかなく、そのことには絶望的な気持ちになるが、それでも人に話すことで幾らか軽くなる気がする。

「自分はツーブロだろうがメンズ着ようが女だ、ノンバイナリー概念を押しつけてくるな」みたいな投稿が流れてきたけど、ノンバイナリーの存在は「どのような服装や振る舞いをしていても自分は女だ」ということをまったく否定しない。

ノンバイナリー(あるいは「男」や「女」、あらゆるジェンダー)は特定の服装や振る舞いによって定義されない。「何を着ていてもどんな髪型でも自分はノンバイナリーだ」という人がノンバイナリーだと思うし、「自分はノンバイナリーではない」と感じる人はたぶんそうではない。

オクラホマでノンバイナリーの高校生が殺されたというニュースもあった。
huffingtonpost.jp/entry/nex-be
ノンバイナリーの存在は「ジェンダーステレオタイプには馴染めないが自分がノンバイナリーであるとは思えない」という自認の人の存在を脅かさないので、ノンバイナリーを脅かさないでほしい。

…ということを旧ツイッターで投稿したらすごい勢いで拡散され、100RTされるまでのスピードが段違いになったと感じた。差別言説も、それに対抗する言説も「インプレッションを稼げるネタ」なんだな…と実感して、しみじみ怖い場になったと思う。

【ラファに手を出すな!全国連帯デモ】新宿南口に滑り込みで参加してきました。告知されていた終了時間を過ぎていたけど、新宿駅(ルミネ)側にもバスタ新宿側にもたくさんの人がいた。

住民たちを一箇所に押しこめておいてそこを攻撃することに、いったいどんな正当な理由があるのでしょうか。今朝のワイドショーで、助けを求めている幼い子どもや救急車をイスラエル軍が殺害したことが取り上げられていましたが、どのような理屈をつければそれが「防衛」になり得るのでしょうか。
イスラエルは虐殺と侵略を今すぐ、そして恒久的にやめるべき。








instagram.com/p/C3VHwjNS-9n/?i

会社への行き帰りにGLAYの「SPEED POP」と「灰とダイヤモンド」を聴いていたんだけど、どっちも名盤でびっくりしちゃったな…曲がどれもめっちゃいい。インディーズ〜メジャー1stの段階でこのクオリティはやっぱりすごくて、そりゃあれだけのメガバンドになるよな。

「彼女の"Modern…"」が両方に収録されていることもすっかり忘れていた。久しぶりにセルフアレンジのほうを聴いて、これはこれで微笑ましいんだけど、完成度はもうぜんぜん土屋昌己がプロデュースしたヴァージョンのほうが上なので、プロデューサーってほんとうにすごい。
LUNA SEAが「プロデューサーはつけない、アレンジもすべて自分たちでやる」とかやってた頃で、そういう姿勢がすごくカッコよく見えていたけど、GLAYは土屋さんなり佐久間さんなりがプロデュースすると格段によくなるのが素人の耳でもわかっちゃう。サクマジックなどと呼んでいた…

そしてこの2枚のアルバムの収録曲の展開や歌詞をほぼ完全に覚えていて、どれだけ必死で聴きまくったんだ…と我ながら震えてしまった。10代の集中力よ…
いつまでも10代のとき好きだった音楽ばかり好きなことが、どこか恥ずかしいような気がしてたけど、もう仕方ないよな…こんなに体に染み込んでいるんだもんな…

ゆうべとても感傷的な気分で寝落ちしたんだけど、『テラヤマキャバレー』の感想を読んで寺山修司のことを考えたからだ。私の10代ってヴィジュアル系バンドとやおい二次創作で本はあんまり読まなかったんだけど、寺山修司は貪るように読んでいた。あの文章に10代で出会えたことは幸いだったと思う(新書館のフォア・レディースを大事に持っていた母に感謝するしかない)。今はもう、寺山の文章もあの頃のようには読めない寂しさがある。

寺山がいまこの時代に生きていたら何と言うだろう?というのは私もわりとよく考える。「言葉がない」とは言わない気もする。旧ツイッターなんかノリノリで使いこなしたんじゃないか。
私は老いることなく死んでしまった寺山修司に夢を見すぎかな?ほんとうに彼の書く言葉の全部が好きだった頃があるので、すみません。涙が出てきたのでそろそろやめる。
bsky.app/profile/okadaic.bsky.

私も同じ体感だなと思う。
主に男性ジェンダーとされる人たち(の一部)は、「『女は恋愛ものが好き』であってほしい」のだろうな、と最近は感じている。より正確には「女は『男と恋愛する物語が好き』であってほしい」、つまり「女は男を求めている」という幻想を強く必要としているのでは?
実際には「男女の恋愛もの」を求めているのは男性ジェンダー側なのに、「女は恋愛ものが好きだから」と言い訳して男性ジェンダーに都合のいい恋愛描写を入れているな、と感じる作品もけっこうある。

あと思春期の子どもへの、周囲の大人からの「恋愛する年頃だ」という期待?押しつけ?もしんどかったな。とくに学校ではことあるごとにそういうことを言われた思い出…
今は私が10代だった頃ほどではないと思いたいですが。
fedibird.com/@2d3m13/111900639 [参照]

いずれまた切羽詰まって「小説 書き方」で検索するであろう私にお伝えしておくと、私の場合は実際に書き出すまでの助走がかなり必要っぽい。頭の中だけであれやこれや思い浮かべ、登場人物の名前になりそうな漢字やキーワードを思いつくままそのへんの裏紙に走り書きし、なんとなく固めていく。
脳が暇なときに極力そのことを考えるようにしていると、突然「場面」らしきものが現れるんですよね。核になる台詞とかも急にわいてきて、運がよければタイトルも決まる。そうこうするうちに登場人物の名簿が出来て、1行目を書けるかな、という感じになってくる。

この「1行目を書く」までの過程のほとんどを脳内でやるので、毎回失念してしまうんだな…この段階だとメモもほんとにゴミみたいな紙切れの集積だし…
作業として最初にやるのはたぶん「登場人物の名簿を作ること」なので、そこを目標にすればいいのではないかと思う。覚えておいてね私!

これは一般化できるかどうかわからない私の話だけど、「腐」そして「喪」に関しては「それ以外に使える名乗りがなかった」から執着していた、というのもかなりあると思う。
今なら手放せる、と思えるようになったことは「A-spec」「クエスチョニング」「フィクトセクシュアル」などの語を手に入れたことと無関係ではない気がしている。こんなツイートもしていた。

"正直に言うと私は「腐」とか「喪」なら名乗れるというか、姥皮みたいに着ていられるとすごく長いあいだ思っていて、その語を手放すのは怖かった。今でも全く怖くないわけではないけど、さすがにもう色々無理だなと感じるので使わない(使えない)"

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"ある作品に対して、明確に描かれてない恋愛(性愛)関係を「やおい妄想」することを「頭が腐る」と言っていました"

"「腐女子」という語が発生する前から「うちらほんとアタマ腐ってんな」などと友人たちと言い合う十代を過ごしたけど、いまや「BLが好き」と言えるかどうかもあやしい感じになってきてしまったし…ちなみに当時は「物語に公式に描かれていない関係性を妄想してしまう」行いを「腐る」と称していました"

過去のツイートから引っ張ってきた。だいたい中学〜高校生ぐらいのころ、ということは90年代、30年くらい前の話。
「腐女子」という語が出てきたのは私の体感だと2000年以降なんだよな。それ以前に「やおい」概念とセットで「腐る」というジャーゴンを使っていたわけですが、それをどこで身につけたのか、というのは記憶にない。インターネットもまだ一般的ではなかったはずなので、やはり友だちが持ち込んだやおい同人誌か…?

「腐女子」は「女子」の部分に抵抗があって自称したことはないものの、「腐」を自称することには私も謎の執着(愛着?)があったのですが、この数年で完全に「もう使えない語」という感覚になりました。

麻布台ヒルズへ行く機会があった。
ほんとうにびっくりするほど休憩するスペースがなく、店に入らないでいようとすると歩きつづけるしかない空間でものすごく疲弊した。ベンチなどの座るところはもちろん、ちょっと立ち止まっていられる場所すらない。あちこちに警備員がいて、こちらが引いてしまうほど腰が低く丁寧に接されるのでコンシェルジュ的な意味合いの存在なのかもしれないんだけど、「監視されている」という印象は拭えない。

座って休みたいと思ったら飲食店に入るしかない。あるいは外にはベンチがあるのが見えた。でもこの寒いのに外で座っていられるか…?

そしてかなり意識してこじゃれた空間を作ろうとしているのに、入っている書店の棚がこれまたびっくりするほどおしゃれじゃなくて、エッこれでいいの?…と戸惑ってしまった。
てっきりコレド室町の誠品書店みたいな感じかと思いきや、そのへんの街中のジュンク堂のほうがよっぽど気の利いた棚作りをしている。選書のコンセプトとかないのか…?
一万円ちかくするマーク・マンダースの作品集とか、オッと思う本もあったんだけど、とにかく棚が…もうちょっとどうにかならなかったのかな…

1月28日までのグローバルストライキ期間が終わったので、SNSの更新は通常どおりに戻しています。
とはいえ、ここはもともとそれほど投稿の頻度が高くなく、とくにパレスチナについて発信することもできずじまいで、もう少しやりようがあった…という気持ちです。
最近はとくに、時事的なことや社会問題について、脊椎反射で何かを言うことを避けたい、考えてから発言したい、という「慎重な姿勢」を怠惰の言い訳にしているなと感じるところがあり…難しいところですが…

イスラエル軍による虐殺と占領が止まるまで、できることを続けていきたいと思います。

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こちらの署名もまだ受け付けているようです。
change.org/p/伊藤忠はイスラエルの-死の商人-エ

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