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三宅 芳夫 さんがブースト

都知事選で石丸候補が出たときにも、今回、東京24区に国民民主党の候補が出ることで有田氏の選挙区での当選が阻まれた(有田氏は比例で復活当選)のと似たような役割があったのだと思っています。

石丸、蓮舫の両候補の得票数を足すと、小池氏の得票数をやや上回るんですよね。

石丸氏が出馬しなければ蓮舫氏が勝ったのかどうかまではわかりません。

でも、蓮舫氏に入る票を削るために石丸氏が出て、
石丸氏側が豊富な資金を使ってしっかりした体制をつくって宣伝も十分すぎるほどに力をいれてやったことと、蓮舫氏側の選挙の体制が整っていなかったことがあいまって、ああいう結果になったのだと私は考えています。

(石丸氏陣営のモチベーションとして、石丸氏を二位にすることで、野党共闘支持者に無力感を植え付けたくてがんばったということがあるのでは、ともちょっと思います)。

 日本社会には極秘で行われた原爆調査団には当時東大医学部副手であった加藤周一さん(血液学博士)も参加している。
 ちなみに広島・長崎の原爆被害の情報は米占領中は報道禁止だった。占領終結後、1952年の新藤兼人監督、乙羽信子主演の『原爆の子』ではじめて全国に知られたと言われる。

 草野さんは理論物理学者の川崎昭一郎さん(1932生)等とともに、戦後の原水爆禁止運動の中心となる。川崎さんは、ビキニ環礁で被爆した第五福竜丸保存運動の責任者だった。

 川崎さんは千葉大理学部物理学科教授でもあり、つい最近まで千葉大の理学部がリベラル左派多数だったのも、それと無縁ではない。

今年のノーベル平和賞は被団協が受賞したが、2017年は市民団体核兵器廃絶国際キャンペーンが受賞。この市民団体の日本事務局長が川崎昭一郎さんの息子、川崎哲さん(ピースボート共同代表、1968生)である。

川崎さんは私立武蔵ー東大法学部ー平和運動家という、今や「絶滅危惧種」のエリートで、私もお名前は知り合いを通じて四半世紀前から存じ上げていたが、直接お会いしたのは、今年の4月の「地平社」立ち上げレセプションが初めてである。

 父の昭一郎さんが2年前に亡くなった際、メディアに「父は家では運動のことは語らなかった」と語っていたのは含蓄が深い。

 1930年に千葉医専卒業、亀有をはじめとする無産診療所の医師を務めるが、治安維持法違反で検束後、盲腸炎を患い、同愛記念病院に入院。ところが、治癒していないのに強制的に退院、1932年に27歳で死去した中島辰猪という人がいるらしい。

 千葉医専門というと、今の千葉大医学部だが、えらい変わりようだなー

 ま、これは千葉大に限ったことではなく、戦前にはいわゆる「セツルメント」運動の一環として「無産者診療」、「無医村診療」運動に東大医学部や千葉医専の学生達がかなり参加し、結果として治安維持法違反で逮捕された。

 戦後長野県に有名な佐久病院を開設した若槻俊一氏(1910生)もその一人。自身医者でもあった加藤周一さんも佐久病院にお世話になっていた。
 加藤さんの親友の福永武彦(池澤夏樹の父)が癌出術の後、脳溢血で亡くなったのも佐久病院だったと思う。また東大仏文科渡辺一夫門下で、「背教者ユリアヌス」などで知られる辻邦生が心不全で急逝したの同じ軽井沢。ともに加藤さんがその場に居合わせて対応したと記憶している。

 戦後原水爆禁止運動の中心の一人となった病理学者草野信男さん(1910生)も「セツルメント」に参加、虐殺された小林多喜二の遺体の周囲にいた。草野さんは45年8月末の広島に原爆調査に入る。(続く)。

 なにやら「秋の叙勲」という行事があるらしい。

 全く興味がなかったのだが、ふと新聞に「漫画家のつげ義春さん(87歳)が旭日中綬章」という見出しをみつけてちょっと驚いた。

 たぶん、審査関係者のなかにファンがいたのだろう。

 私もつげ義春さんの漫画は白土三平と並んで子供の頃からよく読んでいたし、別につげさん個人の選択には何か言うつもりは全くない。
 ただ「あの」つげ義春と「旭日」という組み合わせに、ある意味「つくづく時代は変わった」と感じる。

 つまり、かつて「サブカルチャー」とされたジャンルが完全に体制に公認された、ということ。仄聞する所では、『ガロ』を出版していた青林堂も今はすっかり右派系出版社になったと云ふ。

 ところで、大江健三郎は文化勲章を断ったけれども、渡辺ー大江的な知識人を断罪しながら、東大文学部全共闘(というかセクト)で暴れた挙句、後韜晦的に自分達を「サラリーマン」と自嘲しながら、定年まで東大教授を続けた人達、これには感心しない(ついでに言うと、この自称「サラリーマン」を反復している東大教授がいる)。
 どうも、そのうちの一人は、「秋の受勲」どころか文化功労者になっているらしい。「文化功労者」と言えば、終身年350万の年金が出る。もし、事実だとしたら、ちょっと呆れる話である。

三宅 芳夫 さんがブースト

アルブレヒトデューラーのメランコリアにある魔法陣、最初に知った時に凄まじく驚愕しました。縦横四隅、斜め、全て34に。神と人間の数。政策年も。コンピューターの演算でもこの数を選ぶのは不可能と聴いたので、数学者としてのあまりに奥が深くて仰天したとこがあります。
QT: fedibird.com/@yoshiomiyake/113
[参照]

三宅 芳夫  
 モンテーニュ、ラブレーなどの「超大物」を擁しながらも、ヨーロッパ研究者に「フランスにもルネサンスがあったのですか?」と何度も聞かれて渡辺一夫が慨嘆したことは投稿しました。  ところで、ルネサンス以来の「油彩」の技法を元来発達させたのは、「北方ルネサンス」とも呼ばれる15-16世紀のネーデルラ...

 モンテーニュ、ラブレーなどの「超大物」を擁しながらも、ヨーロッパ研究者に「フランスにもルネサンスがあったのですか?」と何度も聞かれて渡辺一夫が慨嘆したことは投稿しました。

 ところで、ルネサンス以来の「油彩」の技法を元来発達させたのは、「北方ルネサンス」とも呼ばれる15-16世紀のネーデルランド。
 日本では、ヴァン・エイク兄弟、ブリューゲル、ボスなどの名が知られる。

またデューラーは北方とイタリアを繋ぐ巨人。サルトルの『嘔吐』の初版表紙はデューラーの「メランコリア」。

美術史では北方ルネサンスは「古代復興(ヒューマニズム)を欠く」ともされるが、これは正確ではない。エラスムス、フッテンなどの人文主義の巨人がいる。

 またライデン大学はリプシウスを代表とする後期人文主義の拠点となる。ボダンの同時代人、リプシウスはキケロを批判し、セネカを擁護する新ストア主義の国家哲学を展開。
 この新ストア主義、マウリッツの軍事革命を起点として近世・近代の「規律=権力」の基礎となる。
 この後期人文主義、視覚芸術ではレンブラント、フェルメールの時代。

フーコーはリプシウスに言及しないが、『監獄の誕生』は事実上「リプシウスの長い影」を追跡した書物とも言える。
左)メランコリア
右)「死の勝利」(ブリューゲル)
 

  さて、現在日本で猛威を振るっている「自己責任論」、長期的に見ると、少なくとも近世18世紀から連続している面があります。

 この傾向を歴史家の安丸良夫さんが、大原幽学や二宮尊徳を例にとって「通俗道徳」と命名。一時「通俗道徳」は欧米由来の近代個人主義を緩和する「村落共同体」のモラル、と解釈されましたが、これは間違い。

 実は日本の「ムラ」は朝鮮や中国(村の実態はない)と比較しても、「相互扶助」の伝統は薄い社会。従って近世東アジアといっても色々。

 この通俗道徳が明治以降「立身出世主義」に接続。これを支えたのが「学歴主義」。

 学生発布以来100年、「親より学籍が上がれば、所得と社会的地位も上がる」という前提=宗教で日本社会は回転して来た。これは15年戦争時でさえそう。

 戦後は大企業に入れば安定した人生がほぼ保障された。逆に「不適応」者は「自己責任」。しかし、この「お約束」の社会的前提が崩れてきたのが、ここ20年。

 今や日本の支配層は安定した雇用は人口の数パーセント=産業下士官にしか保証するつもりがない。

 となると、大学進学率だけ挙げても何の解決にもならない。これは200年単位の「移行期危機」。

 自己責任論から普遍的な社会保障へ、これは極めて重要な、しかし「重い」課題です。

 

 国民民主の玉木が選挙前に「自己決定」に基づく「尊厳死」の法制化に向けた取り組みを得意げに発表したことは何度も批判しました。

 ところが、「僕ってもともと有名な人なんです」と名乗る国民民主の候補者が、玉木のこの方針を「姥捨て山」ではなく、「子供たちに迷惑をかけたくないから死にたいという方々に選択肢を与えると」説明していたらしい。

 これは驚くべき発言である。「子供たちに迷惑をかけたくない」から「自分で死を選ぶ」、これこそ「姥捨て山」そのものである。こんなことを堂々と発信するのが弁護士というのだがら、開いた口が塞がらないとはこのことだ。

 しかも、この国民民主候補、なんと萩生田の出ている東京24区であえて立憲有田芳生とは別に出馬。2万5千票取っている。有田と萩生田の票差は7千票だから、結果としては萩生田を当選させるために出たようなものだ。

 近世日本から根強いとされる「自己責任論」、この国民民主の候補に凝縮されている。

 自分は競争の勝者のつもりであるから、「天地が逆になっても」再配分には反対。「俺の手取りだけ増やせ」。

 医療・年金・学校など福祉システムで「辛うじて」勝ち組という自己像にしがみつけているのに、それが理解できない。「・・となんとか」は死ななきゃ治らない、というところか。

「人権宣言論争について」

 G.イェリネックは、ある時期まで日本でもよく知られていた20世紀前半独のイツの公法学者。美濃部達吉の所謂「天皇機関説」は、イェリネックの公法理論を下敷きにしたものです。

イェリネックはウェーバーと同世代で、共にプロイセン的権威主義に対する「リベラル・ナショナリスト」の立ち位置から理論を展開。

この際、米国を参照枠とする共通性もあります。ウェーバーの有名な「プロ倫」も米国のカルヴィニズムを参照している。

イェリネックは、1789年の人権宣言の起源をルソー『社会契約論』ではなく、米独立革命の際の各州、とりわけヴァージニアの「権利の章典」にあるとする。
 それに対して仏のブトミーは猛烈に反発、さらにイェリネックが再反論する、という過程を辿る。

現在からは人権宣言はあくまで「リベラル」であって、反「リベラル」であるルソーに思想的起源を求めるブトミーの主張に無理があるようにも見える。

 とは言え、奴隷制を自明の前提とした米国「権利の章典」と人権宣言を直接繋げるのは難がある。むしろ89-91ー93の仏大革命の展開を追うことが重要。
 ただしイェリネックにもウェーバーにも、そして仏本国でも93年を肯定することは問題外だった。

 いずれにせよ、みすずの翻訳、一読の価値ありです。

三宅 芳夫 さんがブースト

選挙、いろいろ考えて投票先を決めても、
これでよかったのか、と毎回のように思っています。

どういう社会であるべきか、その実現のためにどう投票したらいいのか。

私たちひとりひとりが考え、意見の共有や議論をしながら、試行錯誤を続けていく。

その試行錯誤をみんなで積み重ねていくプロセスのなかに、
「市民社会」があらわれるのだと思います。

なにかの「信者」になって対象をひたすら肯定したり全面否定したりするのではなく、
一歩一歩地道に考えて、必要なときには対象への支持を表明したり批判したりしていく。

「投票」自体は一瞬で終わる行動です。
ですが、その一瞬のなかにこういう膨大に積み重ねられた軌跡がある。

すごく大変なことだし、そのぶん投票という行動自体を怖いと考えてしまうひとがいるのも理解できます。

でもしんどくてもちょっとずつでもよい社会をつくる方向へ、
投票を通じてみんなで進んでいけると信じたいです。

おやおや、公的年金基金(GPIF)79月にかけて約10兆円の赤字とは・・・

 国内株式、海外株式、外国債券、それぞれ3兆円以上の赤字、これは「えらいこっちゃ」。

 元来、年金のようなセイフティーネットを「投機ギャンブル」に依存させる、という設定に無理がある。

 昨日は千円以上東証が下がったばかり。しかも、『地平』で京大の諸富先生と議論したように、やや下がったとは言え、そもそも東証株価3万8千は明らかに「バブル」。

 このバブルに、年金基金もつぎ込んでいるのだから、将来不安は高まるばかりである。

 かといって、石破・野田双方の元来の主張、消費税15%への引き上げは「可能でもなければ望ましくもない」。

 財政破綻を回避するためには、もはや大企業と富裕層への負担増は「一刻の猶予もない」と私などは考えるがどうだろうか?

 しかも今なら、まだ日本の大企業と富裕層は十二分に負担に耐えられる。5年後には「無い袖は振れない」となるかもしれない。

 この案件も1年後の参院選までの政治の変動次第、ということになるのだろう。

 国立大学の「独法化」について、蓮實重彦がの「抵抗」の役割を評価している「おめでたい」東大の先生がいる。

 その上で、「蓮實重彦が、国家官僚としての最後の東大総長であったことは、近代日本文化史上、色々考えるに値する事実であると思う」などという絵に描いたような東京帝大権威主義を曝け出すのだから目も当てられない。

 スパルタカス君の目には、数年に渡って全国で展開された「法人化」反対運動はまるで存在していない。この時、法人化の大義名分は小泉の掲げた「公務員」の数合わせに過ぎなかったので、運動と交渉で阻止できる可能性はそれなりにあった。

 ただ東大はいつものように、押し切られた時の「保険」もちゃんとかけておく「政治性」があり、結果として「京大はやっぱりお公家さんだから」などと自嘲する結果にはなった。

 ところで、蓮実のこの時の「抵抗」を評価するならば、68年の時、入試中止を決定しながら、文科省の直接介入は阻止した当時の加藤執行部に関しては一層「認識」を改めるべきではないのか?

 なにしろ、ここで「大学の自治」が守られたために、70年代半ばまでは「左派」のヘゲモニーが大学と文化業界において続いたわけだから。

これが崩れるのが、70年代後半から80年代の消費社会化。新左翼のカリスマだった吉本隆明を見よ。

この投稿、補足します。

これは、「天才バガボン」を批判しているのではありません。

痴愚神礼賛祭りにいそいそと出かけている「あほ」な研究者を批判しているのです。

では何故、「天才バガボン」なのか?これは、当の研究者かその周りの人でないとわからないかもしれません。ですので、最後のこの行は、ちょっと「内輪」のニュアンスになったかも、です。 [参照]

さて、今回の総選挙の特徴は、予想されたように投票率の低さ。

低投票率は自民に有利になる筈だが、今回自民は比例得票率14.1%。公明の5.7%と合わせても2割に届かない。

 3年前の岸田の時と比べて5%、約500万票減らしている。実は自民の得票数自体は21世紀に入って減り続けており、2012年に政権を奪回した時も、09年に民主党に敗北して下野した時よりも得票数は低い。

 つまり、2009年の敗北は08年の「年越し派遣村」でメディア化された「格差と貧困」の是正の期待が民主党への投票に繋がった結果。その後の消費税引き上げなどの政策に失望し、多くの人が「政治」から撤退した結果が安倍の復活。

 要するにこの時も「安倍・自民が勝った」というよりも新自由主義政党である民主党が内部抗争と米国の圧力の下に自壊したのである。

 この際の最高責任者である野田を顔にして今回立憲が多少増やしたからといって、何か積極的なものが期待できる筈もない。
 国民民主の玉木は何が勘違いして舞い上がっているが、物価高、生活苦、将来不安を解決できる筈もないし、する気もない。

 ただ、維新が比例で300万、近畿でも111万、本拠地の大阪でも56万減らしたことは朗報とは言える。

この危うい均衡、一年もせずに劇的な再編を遂げるだろう。 

  いやはや、選挙が終わった途端経済同友会幹事の新浪剛志氏が「財政がバラマキにならない」ように「社会保障に手をつけるべきだ」と本音を記者会見で発信し始めたようだ。

 筋論で言えば財界は、法的には立法・行政・司法のいずれにも属さない。経済同友会幹事と言えども市井の一人と同じ立場。

 それが、選挙が終わった途端、「財政のあるべき姿」を支持し始めること自体本末転倒である。日本国憲法のどこに「主権は経済同友会に存す」と書いてある?

 しかも「防衛増税などの財政需要が非常に大きいなか」と軍事費負担が重荷になっていること自体は認めている。

 本来「専守防衛」の筈の日本の安全保障に、射程距離な長い攻撃用ミサイルや戦闘爆撃機は無用な筈。

 それを米国の指示で「大盤振る舞い」し過ぎたたため、見積書が追い付かないという「不祥事」が発生する異常事態となっている。

 そしてこの軍事費の負担は結局一般市民、儲けは日本製鉄、三菱重工、三菱電機、IHI、川崎重工などの軍需産業になる。

 これで三菱商事出身の経済同友会幹事が「社会保障に手を付けるべき」と御沙汰する政治的正当性どこにある?

 両大戦間の仏の平和主義の反響が聞き取れる『チボー家の人々』、WWII後の日本でもある時期までよく読まれた。例えば、今でも憲法学者芦部信喜は、この書物の愛読者であり、指導学生達にも、必ず一読を勧めていた。(ま、今の実定法学者で「チボー」を通読している人はいないだろうけど)。

 ところで、この本の冒頭、主人公のジャックがルソーの『告白』を読んでいることを発見され、放校される場面で始まることは既に投稿しました。また、第三共和制において『社会契約論』が聖典化されていたことも。

これに関しては、イェリネック/ブトミーの「人権宣言論争」が参考になります。

 他方、サルトル、デリダ、アルチュセール、フーコーにとっては聖典化された「社会契約論」は批判の対象となる。

 しかし、日本でアルチュセールやフーコーを論じる人達はこの辺りのことを理解していない節がある。

 これはあえて「親切心」で教えて上げる。『監獄の誕生』第三部を仏語で見直しなさい。
 「完璧な理想社会の夢想」、「原始的な契約」、「一般意志」などのルソー語彙に対するフーコーの「まとめ」がある。

ただし、「痴愚神礼賛」祭りにいそいそと参加した「あほ」な研究者にはどうせ読んでも無駄だから勧めない。この人は「天才バガボン」でも読んでいればよい。 

 

 『ディア・ピョンヤン』などで知られる、ヤン・ヨンヒ監督の『スープとイデオロギー』を観る。

 前作で登場していた「おもろい」父は既に亡くなり、認知症になりゆく母を見守るドキュメンタリーでもある。

 大阪・鶴橋は在日の街と言われるが、とりわけ済州島出身者が多い。中には1948年の4・3事件の際に亡命した来た人も多い。

 詩人の金時鐘さんもその一人。また金石範の『火山島』は4・3事件を扱った大著として知られる。日本では映画「月はどっちに出ている」、「血と骨」の原作者として知られる梁石日さんもお二人の仲間である。

ヤン監督の母も4・3事件の際、18歳で蜂起に間接的に関わり、当時の婚約者であった医師はゲリラ闘争に参加して死亡。本人は幼い弟と妹を連れて大阪に密航した。

この済州島の4・3事件は拙著『世界史の中の戦後思想』でも扱ったように、東アジア冷戦の前景化が直接関わっている。GHQ内部のラティモアなどは半島分断政策を批判し、朝鮮人自身のイニシアティヴでの統一を主張。

しかし「マッカーシズム」の嵐がラティモアなど「植民地解放派」を一掃、米軍が直接に介入する。この際、李承晩が送り込んだ反共民間軍事組織によって島民6万人以上が虐殺された。

監督の母や金時鐘はまさに、この大虐殺の「サバイバー」なのである。

三宅 芳夫 さんがブースト

» 片目では障害と認定されず…『片目失明者』が抱える悩みと金銭的負担 義眼を「美容目的」とされる場合も |東海テレビ
tokai-tv.com/yourscoop/archive

“片目だけが見えない「片目失明者」は、身体障害者に認定されないため、検診費用は健常者と負担が同じです。
見た目で差別を感じている人もいて、「義眼」を作ろうとすれば約12万円がかかりますが、眼球が残っている場合は「美容目的」とされ、自己負担です。
片目を失明した人は生活の苦労や差別をなくしたり、軽減するために、障害者認定による支援を求めています。”

 千葉3区の松野博一は「安倍派5人衆」の一人。5人衆の内、今回落選したのは高木毅のみ。残りの萩生田、西村、世耕は辛うじて当選。

 和歌山2区の世耕はともかくとして萩生田と西村は共産と公式に連携していれば、落せた数字である。つまり共闘すればボス4人が落選、安部派は壊滅した可能性大だった。

 とは言え、安部派は衆院59人から20人に減少。ボスは残ったが、手下が減れば、政治的パワーも減る。維新をほぼ大阪に「封じ込めた」のと並んで、数少ないポジティヴな結果と言えるだろう。

 とは言え、選挙が終わるや否や女川原発再稼働が発表。これは大震災で被災した原発で初となる。

 しかし、原発再稼働は経産省主導で財界、自民、立憲・国民も含め、ほぼ「国策」されてしまっている。これで再エネに関しては、ますます世界水準から脱落する。まさに「日本の没落」を象徴する案件。

片や6日に迫った米大統領選、激戦7州でトランプリード。マスクはまだ大金をばらまき続けている。ペンシルヴァニア(19)、ジョージア(16)、ミシガン(15)で負ければダメだろう。ノースカロライナとアリゾナはほぼトランプ。ネバダは選挙人が5人しないない。

元来クエーカーの入植地として「絶対平和主義」の州として出発したペンシルヴァニアも変われば変わるものである。

おやおや、連合の芳野友子会長が立憲は「共産党と共闘しなくても勝てることが明らかになった」と言っているらしい。

 今回、野田立憲が増えたのは、「立憲が勝った」というよりは「自民が負けた」結果である。

 しかも、当初の野田・小沢の永田町の内輪方針の「維新と連携」の方針のまま突っ込んでいては、「立憲が増えた」かどうかさえ、疑わしい。

 実際、大阪、特に神戸の立憲関係者にとって「維新との連携」は「クレイジー」以外の何物でもない(これは直接・間接に聞いた)。

 そして、重要なことは、もし共産と共闘していれば、「立憲は小選挙区でもっと勝てた」筈、ということ。実際立憲の小選挙区の票は全国で147万表減少している。

 実際、千葉3区は安倍派の裏金議員松野博一が僅差で当選しているが、ここは出馬した共産の票を足せば、悠々立憲が当選。松野は比例復活もないので、「ただの人」になった筈。

 また千葉2区は例の「コバホーク」対共産新人女性が10万対5万、立憲は候補者なし。どうもコバホークもマスコミ宣伝は総裁選ではなく、千葉2区での知名度戦略だったのでは、と疑惑が湧く。

 だとしても、立憲がそれなりの候補を立てれば、共闘で勝てた可能性がある数字。

 しかし連合としては「共産排除」が全てに優先するらしい。

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