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レ・ファニュ『カーミラ』

kotensinyaku.jp/books/book389/

人間の業の深さにぞっとするような怪異譚から、民話のようなちょっと滑稽な話まで、思ったよりバラエティに富んだ短編集だった。

収録作の多くは、語り手が魔物に襲われた当事者ではなく傍観者あるいは伝聞者であるという怪談のよくあるパターンで、読み手(自分)と怪異との距離があるぶん、そこまで身に迫る感じでもなかった。

一方、表題作は語り手が被害者でもあるため、比較的生々しく感じる描写が多かった。悲劇の始まりである月の夜の描写が特に印象的だが、情景描写がなかなか美しく、また性愛的なシーンの描写も緻密で、恐ろしさより耽美性が際立っている。

非科学的なものを一笑に付すような合理的な人物が出てくるわりに、最終的にはキリスト教の司祭や牧師に助けを求めるあたりとか、19世紀末ならではの神秘と科学がごちゃ混ぜな価値観が見えるのも面白い。精神分析学はまだ登場していない頃だが、フロイトっぽさをちょっと感じる。

シャーリイ・ジャクスン『ずっとお城で暮らしてる』

tsogen.co.jp/np/isbn/978448858

読み始めて、民俗学でいう「憑きもの筋」の話だと思った。急に豊かになった者や他所から来た富裕者を、不正な手段(家につく妖狐)を使って他者から富を掠め取った卑怯者だと考え村八分にしたというもの。そこにあるのは富に対する嫉妬や羨望から生じた歪んだ悪意で、「憑きもの筋」とされた人たちより、そう呼ぶ人々のほうが何かに「憑かれ」ているようだ。

村内で孤立している姉妹とその伯父は、それ以外の家族が毒殺された大きな邸宅に住み続け、それなりに秩序を保って平穏に暮らしていた。しかし従兄の「侵入」により秩序は崩壊し、やがてカタストロフに向かう。クライマックスの悪意の暴走は、人間の描き方としてかなり醜悪だと思った。

語り手である主人公は年齢の割に行動も思考も幼稚だが、単に「独特なパーソナリティ(そういえば、こういうタイプが「狐憑き」と呼ばれることもある)」というだけではないことが明らかになってくる。

『恐怖小説』と銘打たれているが、自分はディスコミニュケーションの悲哀や、「ないもの」とされがちな存在への憐憫を強く感じた。

吉見義明『草の根のファシズム』

iwanami.co.jp/book/b611144.htm

「徴発」という言葉が頻繁に出てくる。徴兵と同じく「国のためならやむを得ない」というニュアンスを持っているが、物資や人員を提供させるのが中国やフィリピンの人々であれば、それは明らかに略奪である。そしてその略奪を行なっていたのは、ごく普通の善良な日本人であった一般の兵士や移住民であった。だいたいは、略奪者自身が困窮していたために略奪を正当化している。追い詰められていたのだから略奪行為そのものは責めきれないが、そこに帝国主義ゆえの他国への見下しや差別があったことは見逃せない。天皇という責任者を戴くことで、国民個々の加害性が曖昧になってしまったために、戦後も十分な自省のできないまま今に至っているように感じてしまう。

ファシズムの本質は「強制的同質化」であるという。本心では納得のいかない非道なことを拒否できない板挟みの苦しさを、自己正当化して忘れようとした心理は理解できる。が、そのメカニズムを知り得た現代の我々は、人間として真っ当であり続けるため、均質化の流れに抗わねばならない。

昨今の世情を見ても、日本人は殊に正常性バイアスの強い国民だとわかる。それはつくづく全体主義と親和性が高いことを忘れずにおきたい。

林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』
bookclub.kodansha.co.jp/produc

ミカエル・ロストフツェフ『隊商都市』
chikumashobo.co.jp/product/978

香山陽坪『砂漠と草原の遺宝』
bookclub.kodansha.co.jp/produc

中近東〜アジアの移動型民族の歴史をざっくり知りたいと思い。あまり馴染みのない文化なので興味深いが、初出が古めの本ばかりだったのもあって読むのが大変だった。ほぼ斜め読みであまり頭に入ってない(´ー`)

古代文明や遺跡の発見や研究には欧米の学者や冒険者がかなり貢献をしているが、それは同時にその土地から遺物を略奪する側面もあったことを改めて思う。高度な金細工の技術で知られるスキタイの墳墓には、貴金属がほとんど残っていないことが多いという。大抵は盗掘のせいだが、盗まれた一部はヨーロッパに持ち込まれ、鋳潰され新たに金細工の装飾品となり流通したという話に文化の蹂躙を感じた。

ヴィルヘルム・グレンベック『北欧神話と伝説』

bookclub.kodansha.co.jp/produc

エッダ、サーガの有名どころをピックアップし、物語として再話したものらしく、かなりわかりやすく読みやすかった。ただ同じ名前が頻出し、似た名前は同一人物の表記揺れなのか別人なのか分かりにくいので系図を書きながら読んでいたが、やっぱりよくわからん。

全体的に血の気が多いのは予想通りだが、「バイキング(行為)」を狩りや漁と同列の「ナリワイとして行うもの」としているのにびっくりした。あと、巨人(あるいはトロール=人外)として描かれているものの、体格がよく男の戦士を打ち負かすような女性や、男装して戦さ場に立つ女性(お姫様)の話がけっこう多かったのは興味深い(最終的に男のものになるのがほとんどではあるが)。

巻末の解説に「ギリシャ・ローマの神々は楽天的で享楽に耽るが、北欧の神々は常に戦いに臨んでいる」とあった。気候風土が神の性格を規定するというのも面白い。

三枝暁子『日本中世の民衆世界 西京神人の千年』

iwanami.co.jp/book/b611113.htm

本書で取り上げられている「西京神人」は、室町幕府が崩壊する嘉吉の乱、応仁の乱にはさまれた時期に起こった「文安の麹騒動」を起こした人々として知られている(自分は『もやしもん』のコラムで知ったクチ)。北野天満宮の管理する区域に暮らし、神社にそなえる神饌や、祭の際の労働力を提供したりする代わりに、麹製造の独占を認められたそうな。

タイトルに「民衆」とあるものの、幕府の庇護を受けた宗教法人の傘下にある商工業者(つまり特権階級の人々)の話であるので、広義での民衆の話を期待していた自分としてはちょっと肩すかし。寺社が都の経済を握っていたとか、権力者に対抗する手段として、自宅に火をかけて行方をくらます(自焼没落)という乱暴な方法を取ったとかいう話は面白かった。

小林照幸『死の貝 日本吸血住虫症との戦い』

shinchosha.co.jp/book/143322/

SNSで話題になっていなければ「日本吸血住虫」という寄生虫のことなど知らないままだっただろう。それは既に世間がその脅威に怯えずとも良くなったということだから、本書で文字通り命をかけて研究と治療に取り組んだ医師らの功績そのものである。時代性や科学リテラシーの変化に依るところもあったようだが、周囲から蔑まれたり理解されなかったりしても諦めなかった医療者たちには本当に頭が下がる。

病気そのものは古くから知られていても、問題視された理由の一つとして戦争があったのは皮肉というかなんというか。風土病のみられる地域では兵隊になるべき若い男性の発育が極端に悪かったため、この病気の症状を逆手に取り、わざと寄生虫に感染させて兵役を免れるという「ご利益」を謳う神社が流行ったとかいう話はぞっとしないが興味深い。

対策のメインは、寄生虫の中間宿主となる貝を根絶することだったが、薬剤の散布、貝の生息地である水場のコンクリート化といった積極的な駆除のほか、高度成長期になり合成洗剤が使われ始めるとその貝はほぼ見られなくなったという。衛生対策と環境破壊はしばしば紙一重になる。

信濃毎日新聞編集局『土の声を 「国策民営」リニアの現場から』

iwanami.co.jp/book/b622497.htm

リニア工事が進まないのを自分らのせいにされてきた県の住民なんだが、リニアに賛成と言ってる来月の県知事選の候補者、この本を読んで大井川流域だけじゃなく県全域で将来背負わされるかもしれないリスクを真面目に考えてくれ冗談抜きで、と思った。

本書では主に長野県内のトンネル掘削工事から出る残土処理の問題を中心にしているが、用地確保、電力確保、トンネル事故の頻発など、問題は静岡県で懸念されている水枯れだけでは決してない。

工事の遅れは各地で起きていると聞くが、工事を急ぐあまり、現場で働く作業員や、工事車両が行き来する地域の住民の安全性を軽視しているとしか思えない話も出てくる。そのようなやり方で作られたものが、安全に運行できると信頼できるだろうか?

環境や人命にリスクを伴うものなのに、事前の説明や検証が蔑ろにされていること、安全への懸念や苦情が無視されていることなどはまず報道もされない現実。その中で、フラットな目線を忘れず取材をされた本書の記者の方々には感謝している。(我が県の某地方紙でもリニア特集はあったが、最近日和っているのでもうあまり期待してない)

遠山美都男『壬申の乱 天皇誕生の神話と史実』

chuko.co.jp/shinsho/1996/03/10

副題にあるように、結論としては壬申の乱からの天武天皇即位を、それまではあくまで他の豪族より抜きん出た一族の「大王」であったものを、他の豪族(婚姻や子女の養い親として関係を結び協力体制を作った)も含めて「国を統べる王=天皇(すめらみこと)」という新たな地位に替え、天皇を「神の加護を受けた穢れなき存在」として臣・民の上位に置くシステムの基礎を作った転換点と見ている。クニの集まりであった日本が、一つの「国家」になったということだ。

面白いと思ったのは、大友側には天智天皇の時代に作られた戸籍制度(庚午年籍)による徴兵制度を試す意図があったのでは? という点。民衆の支配体制の転換点でもあったらしい。記録に残らない部分で知りようもないが、民の生活にはこのシフトがどう影響したのか気になる。

日本書紀の記述は真実か? という疑問に発しているので、乱の経過を丁寧に追って推理していく流れはミステリーじみて面白かった。ただ、乱の主戦場となったのが不破関(現・関ヶ原)であったため徳川・豊臣の争いになぞらえる描写が多かったが、やや牽強付会の感がある。

佐々涼子『エンジェルフライト』

shueisha.co.jp/books/items/con

表紙(ドラマの特装版ではない)を見て『ライトスタッフ』を連想した。取材対象である国際霊柩送還会社の人たちは、実際「仕事に選ばれた」のだと思う。

タイトルの「フライト」は貨物のfreightだが、天使が空を飛んで運ぶ、という優しいイメージが湧く。しかし、昼も夜もなく、全方位に繊細な目配り・気配りが必要で、扱うご遺体も綺麗な状態でないことが多いという相当過酷な現場だそうだ。

心身が削られる仕事であるが、自分たちのことは「忘れてもらったほうがいい」と送還士は言う。遺族が大切な人の死を乗り越えて先に進んでいるということだから、と。悪い意味ではないのだが、彼岸と此岸を繋ぎ、境界を超える困難を助けてくれる、かれらは冥界の川の渡し守のようにも思える。

映画『おくりびと』以降、ご遺体を扱う仕事への忌避感は多少薄れたかもしれないが、「忘れられるほうが良い」という言葉は、こうした仕事が「透明化」されがちなことも表しているように思う。それを見えるようにしてくれた著者の真摯で丁寧な仕事にも敬意を表したい。

若い頃に村上春樹は好きじゃないと言ったら「きみには分からないだろうね」とハルキストに鼻で笑われたことがあるのでまず読むに気ならないが、『アンダーグラウンド』の取り組みについては尊敬しているので、この文庫だけはずっと手元に置いている。

豊田徹也の装画を目当てに村上春樹の『一人称単数』を買い、相変わらずなんか鼻につく文章だなと思いつつちょっとだけ読んで、豊田徹也の村上春樹的なところに今更気付いてしまってなんかヤダ…

戸部良一 ほか『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』

chuko.co.jp/bunko/1991/08/2018

日本軍の組織論ではあるが、日本人の民族論としても読める。失敗のパターンは、今でも日本の多くの組織・集団で見られるものだと思う。

米軍のニミッツ大将が語ったという「海軍力とはあらゆる兵器、あらゆる技術の総合力である。戦艦や航空機や上陸部隊、商船隊のみならず、港も鉄道も、農家の牛も、海軍力に含まれる」という言葉が、相対的に日本の欠点をよく表している。全体を見渡す視点に欠けているので、どこかに綻びが出るとすぐに崩壊する。本書で何度も指摘されていた「グランド・デザインの欠如」ゆえに、どれだけの人をいたずらに死に至らしめたのか。

責任の所在を明確にせず「情」でなんとなくものごとを決める。なんとなく決めているから分かりやすい精神論に固執する。そしてもし失敗したら、下級兵士や一般市民がどれだけ死のうがどうでもよく「仲間内に恥を晒した」ことは反省する。恥なので失敗を認めないし検証もしない…現在の政治まわりと実によく似ている。似ているどころか「今は完全に戦中なのでは」と思えるほど同じである。なので、今後もし日本で戦争が起これば、太平洋戦争と全く同じか、もっと酷い結果になるだろうとしか思えない。

チマチマと『失敗の本質』を読んでるが、根本的に日本人の心性が対外戦争で勝てるもんじゃないのがよく分かる。トップは曖昧な命令を出すだけで大局を見ておらず具体性がない、縦の報連相がなってない、Bプラン・Cプランを用意しない、長期的戦略がない、自己認識が甘い、相手を見くびり正確な調査と分析をしない。笑える(笑えない)

赤坂憲雄『排除の現象学』

iwanami.co.jp/book/b621806.htm

初出は1980年代だが、今の話かと思える。つまり、40年前と現在が全く変わっていない、昭和・平成・令和の3時代を経ても、日本人の心性が成熟していない(或いはここ数年の社会の腐敗によって退化した)のであろう。げんなりする。

赤坂氏の著書自体は初めて読んだが、最近、氏の講演を聴く機会があり、「定住と遊動」をしばしば論考のテーマに据えていることを知った。この本の中心もまさに「定住=社会」の内と外の話であった。

定住社会では漂泊者は「外敵」とされ、「敵」はそれが「謎」(理解しがたいもの)である限り、敵として存在を必要とされ続ける。しかし本当の敵は「内」にあるのではないか。その内側の不安を仮託せられた「生贄の羊」が、社会(集団)の「敵」として顕現する。

本の中に、その理不尽な排除の構造をどうしたら解消できるかというはっきりした答えはない。より多くの人が排除の構造に気付くことが肝要だとは思う(現在は敢えてそれを無視し排除を煽るような著名人も散見されるので、より悪質になっている気もする)


きたやまおさむ『「むなしさ」の味わい方』

iwanami.co.jp/book/b638602.htm

タイトルだけ見てミドルエイジクライシスがメインテーマかと思ったが、主に中高年向け(ザ・フォーク・クルセダーズの歌を知っていると理解しやすい)の対象関係論入門という趣の内容。

「むなしさ」は母子分離に例えられる何らかの喪失によってできた心の空隙であり、且つ、それを排除しようとしてもうまくいかない自己の矛盾=混沌=心の沼であるという。それは得体が知れず、蓋をしておきたいみにくいものではあるが、決して消し去ることはできないので、何とかうまく付き合うほうが良い。その混沌からは、文化や芸術やユーモアといった創造性が生まれることもある。

しばしば「考える暇もないくらい動け。そうすれば病まない」という言説をみかけるが、そうして思索する「無駄」な時間を削りに削っていった結果、社会はどうなったか。みな体や心が耐えられなくなって結局ひどく病んでいる。「無駄」を減らしたら、却って「無駄なむなしさ」ばかりが募るようになったのは皮肉だ。

ちょうど並行して赤坂憲雄『排除の現象学』を読んでいるが、この「排除」によって傷付いた人への処方箋的な本でもあった。

雪朱里『「書体」が生まれる ベントンと三省堂がひらいた文字デザイン』

dictionary.sanseido-publ.co.jp

かつて活字の母型(ぼけい)は一握りの天才職人が一つ一つ手彫りしていたそうで、その形である「書体」は属人的なものだったという。出版物には大小さまざまな活字が必要だが、職人頼みではあまりに非効率であった。そこで、高性能な活字彫刻機を導入して、自社オリジナルの書体による活字を生み出そうとした、三省堂出版の歴史についての本。

むかし擬古文の小説にはまった時期があり、古書店で昭和発行(初版は大正)の辞書を買った。見返したら三省堂のものだった。発行年からして本書のメインテーマである活字彫刻機を使ったものではなく光学的に縮小したものだと思われるが、それでもかなり文字は細かい。これも人の手で彫り出し組まれたものだということに改めて驚く。

書体が生まれる過程を読んでいくと、神は細部に宿るというが書体のデザインというのはその最たるものだな、とつくづく思う。コンマ数ミリにも満たないこだわりが、読みやすく心地よい本を作ってくれる。

一般には馴染みの薄いテーマかもしれないが、図版が多く、註がかなり細かいので分かりやすい。文章も著者の主観を排した淡々とした感じで、かといって堅すぎず読みやすかった。

読むのに気力体力を要求される本ばかり買ってしまって、積ん読が一向に減らない。

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