氷 /アンナ・カヴァン
破船 /吉村昭
枯木灘 /中上健次
死の泉 /皆川博子
海と毒薬 /遠藤周作
虐殺器官 /伊藤計劃
天体議会 /長野まゆみ
華氏451度 /レイ・ブラッドベリ
からくりからくさ /梨木香歩
桜の森の満開の下 /坂口安吾
#読了 # 読書
菅賀江留郎『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』
https://www.hayakawa-online.co.jp/shop/g/g0000613688/
有名な「二俣事件」と、その捜査に大きな影響を及ぼした「浜松事件」を中心に、戦中から戦後に静岡県で続発した冤罪事件についての論考。膨大な資料による力作で、犯罪プロファイリングの先駆者・吉川澄一の話などは面白く読んだが、余談に逸れやすく、衒学的でかったるいところも多かった。
一連の冤罪事件は「拷問王」と呼ばれた某刑事たちによる現場の暴走とかいう単純な話ではなく、当時の社会情勢、組織間の関係性(権力勾配や面子)、政治的野心や虚栄心など、さまざまな歴史の糸が絡まり合って起こったものらしい。
ただ、警察や検察にしろ、弁護士や裁判官にしろ、事件地域の住民にしろ、犯人を憎む心は同じで、その根底には「被害者への共感」や「正義感」という真っ当な感情(著者のいう「道徳感情」)がある。しかし、偏った考えに固執し、それにそぐわない情報を無視したり捻じ曲げたりしたとしたら、それはもはや真っ当ではない。無罪確定後も、犯人とされた人やその家族の多くは「悪人」として村八分にされ続けたそうだ。犯人逮捕までの不安や恐怖ゆえだから同情はするが、こういう行き場のない報復感情ほど怖いものもない…
有吉佐和子『青い壺』
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167137106
美術品としての価値はさておき、青磁というのは何故か心を揺さぶるように思う。柔らかく光を纏い、とろけるような風合い、どこか生き物めいた感じもする不思議な焼きもの。
「青い壺」とは、ある陶芸家が生み出した砧青磁の花活けの逸品だが、売られたり譲られたり盗まれたりして、さまざまな人の元を転々とする。物語はその人々の人生模様を描いており、壺自体は物語の傍観者として静かにそこに在るだけなのだが、時折妙に妖しい存在感を放つ。これが色絵の皿とか茶碗とかだったらきっとこうはならない。家庭の中で実用品として使われる花活けだからこそ風景に溶け込み、存在感を自在に出し入れできるのだろう。
巡り巡って最後には作り主の元に戻ってくるのだが、皮肉な結末に、やはりこの焼きものの魔性を感じる。
Eテレの「100分de名著」で、『恍惚の人』を「愚痴文学」と評していたが、この作品も愚痴が多い。そして愚痴なのに、掛け合いのリズム感なのか言葉選びのせいなのか、やたら面白い。老婆の団体旅行を描いた第九話が特徴的で、登場人物の言動はまどろっこしくてイライラするのに、文章自体は面白くてするする読めるという不思議な読書体験をした。
神林長平『戦闘妖精・雪風〈改〉』
https://www.hayakawa-online.co.jp/shop/g/g0000610539/
「妖精」という単語のライトさに騙されて読んだら肝の冷える思いをした。これミリタリーSFの皮をかぶったディストピアSFですやん…何これこわ…おもしろ…こわ…
人工知能の情報処理能力が人間のそれを遥かに凌駕してしまった時、人間は必要なくなるのではないか、という大きな問い。コンピュータを使う誰しもが思い至る問いだと思うが、機械に支配される怖さとか、人間が部品のようなものにされることへの生理的嫌悪とか色々湧いてきてきもちわるい。特に第5章を読んで、かつて無人爆撃機が現実世界に登場した時のぞっとした気持ちを思い出した。
ディスコミニュケーションの物語でもある。主人公たちは一般社会から疎外されている(隔絶を「ある種の方言」で表現するのが巧い)。そもそも、主人公たちは他人への共感性が低く、対話が極端に少ない。敵も、味方のはずのコンピュータも得体が知れない。出てくる人物はとにかく孤独な人ばかりで、ずっと冷たい金属を押し当てられているような気持ちで読んでいた。切ない。
ラストシーンは絵的に美しかったが、このまま終わりではあまりに主人公たちが可哀想だな…(続編読もう…)
ヴァージニア・ウルフと言えば、ちょうど少し前に見に行った写真展で、彼女の母親(『灯台へ』のラムジー夫人のモデルと言われる)の若い頃のポートレイトを見たのだった。ピントの合っていない写真だったが、もの言いたげな瞳が印象に残った(リンク先の写真と同アングルなので、同じ日に撮られたものだと思う)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Cameron_julia_jackson.jpg
ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』
描かれるのは、たった数時間、人物も空間も限られた、特に大事件でも何でもない出来事。それが、語り手が次々と交代し、視点や時間を行きつ戻りつしながらじっくりと描写される。登場人物たちの、何かちょっとした動作や言葉が発せられる一瞬の中に膨大な情報が詰め込まれている。同じ人の中に相反する感情があり瞬間瞬間に大きく揺れ動くため、それぞれの人物像はなかなか定まらないのだが、その内面の感情の変化がとにかく細かく描写されていて、「そうだよな、人間ってこういう矛盾したものだよな」と歯痒くも愛おしさが湧いてくる。
限られた時空間が多角的に描写されているので、風景をかなり立体的に想像できる。まるで、同じ時間を繰り返すうちに少しずつ情報を得ていくタイムリープSFを読んでいるような気分にもなった。
最後の数ページ、あるセリフで薄膜がサッと剥がれたように空気が変わる。互いの愛情のすれ違いや「セリフは嘘をつく」を繰り返し描いてきた物語だからこそ、簡単なたった一言のセリフが浮き上がる。この小説の人々が希求してきたのはこれだったのか、と。鮮やか。
野木亜紀子『アンナチュラル』『MIU404』シナリオブック
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309032016/
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309029337/
ドラマ放送時はファンアートを描きまくる程度にどハマりしていて円盤も予約して買ったくらいなので、当然シナリオも買わないわけがない。
野木氏はもともとドキュメンタリー番組の制作会社にいたそうだが、シナリオの時点でかなり「画」を具体的にイメージしているのが分かる(ドラマを先に見てしまっているので、引っ張られてイメージしやすいのはあるにしても)。人物の無言のセリフ(「……」)の多さが印象的だが、キャラクターが立っているので、ちゃんとその人がどんな表情を浮かべているか想像できる。ドラマと見比べながら演出の工夫や演者のアドリブを探すのも楽しいが、読み物として読んでも十分面白いと思う。
エグいシーンが脚本からしっかりエグくて新鮮に泣いちゃった(´;ω;`) それはそうと、各話の見せ場のシーンを読んでいて、どの劇伴が入るとかまでわりと記憶している自分がキモい。
川村湊『熊神 縄文神話を甦らせる』
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309229201/
著者があとがきで言っているように、主題は縄文と諏訪・熊野の信仰で、共通項として熊を見出したというのは読んでいて分かる。全体として面白く読んだが、本文中で吉野裕子『蛇』を牽強付会と批判的に取り上げているわりに、稲作以前(=縄文)の狩猟痕跡が現在も神事として残る諏訪社はともかく、道祖神やミシャグジ、土偶あたりの論はややこじつけ感がある。
狼と並んで人間に近しい自然の脅威であるはずの熊が、アイヌ文化圏以外では信仰、神話、民話の中にほとんど登場しない。その「熊の不在」を追いかけると、却って「これは熊だったのでは? (鬼と同じく)まつろわぬ者あるいは畏怖の表象として、熊(外形も鬼に似ている)は排除されたのでは?」と神たる熊が浮かび上がってくる。マタギの忌み言葉や、アイヌ語に直接熊をさす言葉がないという事実からも「隠された神」のイメージが強まる。
熊の神が消失したことと、本州以南にクマが少ないことには相関がありそうで、つまり、生活圏に熊がいなくなったために畏怖の念が薄れ神性を失ったのかもしれない。だとしたら、熊神は「人間が殺した神」とも言えるか。
伊与原新『月まで3キロ』
https://www.shinchosha.co.jp/book/120762/
件の道路標識、地元にあるので何度か通りかかったことがあるのだが、自分も初めて実物を見た時はつい「うわぁ」と浮かれた声を出してしまったので、作者が題材にしたくなった気持ちはよく分かる。ちなみに周囲はただの山。景色は良い。
普通の人たちが普通に悩み苦しみつつ、普通に生きていく話。大事件は起こらないが、ごくありふれた景色の中の営みに謎があり、それが徐々に明らかになっていく。謎の引っ張り方が上手くてするする読めるし、読後感は爽やかで軽い。
『天王寺ハイエイタス』が特に良かった。作者は地学を研究していたそうで、他の短編でも地学ネタが重要なモチーフとして出てくるが、この短編のタイトルにある地学用語の「ハイエイタス」の意味が分かると、イメージがパッと開けるのが爽快。関西弁の会話のリズムも快い。