ヘンリー・ミラーの連作『暗い春(Black Spring)』のうち「中国彷徨(Walking Up and Down in China)」から。

《パリの内であろうとパリの外であろうと、パリを去ろうとパリに帰ってこようと、そこは常にパリであり、パリはフランスであり、フランスは中国なのだ。(……)
私は旅行者でも冒険家でもない。出口を探しているあいだに、さまざまなことが起こった。光と水を求めて地の底を掘り進み、先の見えないトンネルで動きづめだった。アメリカ大陸の人間である私には、人が自分自身でいられるような場所がこの地上にあろうとは、信じられないでいた。私はやむを得ず中国人になった、自分の国にいながら中国人に! 居場所のない生き方に耐えるため、私はアヘンの代わりに夢に行き着いた。》

どこを引用してきても可だが、まずは冒頭から。
私はすでに中国人である。
以後、私は中国人としてパリで暮らし、万里の長城のうちを巡り、ときには生まれ育ったブルックリン第14地区を歩いていたりするが、いまはパリ、その名も「岐路」のラ・フルシュにいる。

引き続き「中国彷徨」から。

《午後、ラ・フルシュに腰を下ろして、私は静かに自問する、「ここからどこへ行こうか」と。日が暮れる前に、私は月まで行って帰ってきてるかもしれない。ここ、分岐点にすわって、私のすべての自我、どれも不滅であるそれらを私は思い返す。私はビールを飲みながら涙を流す。夜、クリシーに歩いてもどって行くときも気分は同じだ。ラ・フルシュに来るたびに、私の足元から果てのない道が放射状に広がり、私という存在に住みついた無数の自我が歩き出すのが見える。私はそれらの自我と腕を組み合い、かつては私が独りで歩いた道、すなわち生と死の強迫観念に憑かれた道をともに歩く。私はこれら自分が作り出した仲間たちと多くを話す。かりに私が、不運にも一度しか生と死を経験できず、永遠に孤独になってしまったとしたら、自分自身に語りかけることになるだろうほどにである。今、私は決して独りではない。 最悪の場合でも、私は神とともにいる! 》

私は独りではない、今は。
私には無数の自我がある。私が何度も死に、何度も生まれてきたからである。
私はそれらの自我と手を組み合って、かつては独りで恐れつつ歩いた道を、言葉をかわしながら行く。

無数の自我とあるのが、エイメの「サビーヌたち」を思わせる。

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私はビールを飲みながら涙を流す。
解放感で泣いている。
つらくて泣いているのではない。

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