ブランキの彗星論

《今日では誰もが彗星をひどくばかにしている。彗星は優越的な惑星たちの哀れな玩具なのだ。惑星たちは彗星を突き飛ばし、勝手気ままに引きずりまわし、太陽熱で膨張させ、あげくの果てはズタズタにして外に放り出す。完膚なきまでの権威の失墜! かつて彗星を死の使者としてあがめていた頃の、何というへり下った敬意! それが無害と分かってからの、何という嘲りの口笛! それが人間というものなのだ。》――オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』

人々は彗星の非力を言う一方で、地球が彗星の衛星にされかねない可能性や、地球に衝突した場合の破壊力といった不安も述べ立てた。ブランキは、それらたがいに矛盾する、あるいは内部的に矛盾をかかえた諸説を批判して論を進め、彗星とは「謎の役割を果たすだけ」の「定義不可能な物質」と結論する。

『天体による永遠』の論点は、天文を論じるための予備的な議論を除くと、「彗星」「天体の誕生」「宇宙の無限」くらいに分けられるが、主題の「永劫回帰」を導くには彗星を論じる必要はない。むしろ「彗星こそ回帰の主体」といった誤解を与えかねないが、なぜ彼は彗星に少なからぬページを割いたか。

引用は浜本正文訳(岩波文庫)から。以後も同様。

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ブランキは彗星を惑星の虜囚に例える。

《もしも彼らが土星の魔手を逃れたとしても、まもなく彼らは、太陽系の警察である木星の手に落ちる運命にあるのだ。木星は闇の中で歩哨に立ち、太陽の光が彼らを照らし出す前にいち早くそのにおいをかぎつけて、彼らを狂乱状態のまま危険な谷に向かって狩り立てる。谷底で熱せられ、恐ろしく膨張させられた彗星は、隊列を乱し、引き伸ばされ、分解し、随所に落伍者を見捨てながら、四分五裂して恐怖の海峡を渡り、低温の保護の下、生命からがら、未知の孤独にたどり着くのである。》

惑星の引力圏で罠に落ちなかったものだけが生き延びる。
この描写は、君主制、共和制、帝政、19世紀のすべての体制を通じて犯罪者であり囚人であったブランキ自身の生涯を思わせる。彼は彗星に自身の像を重ねている。
『天体による永遠』の説く永劫回帰では、全人類、全天体が回帰を繰り返す。その回帰は分岐を伴うもので、いつの時か、どこかの地球上で、どれかのブランキが、かつてやりそこなった革命をやり遂げるだろう。それが、ブランキが永劫回帰の論に託した願い。全体の論旨からいえば、彗星への言及は本筋を外れているが、それでもブランキは彗星を語りたかったのだろう。彗星=ブランキこそ回帰すべきものとして。

以下で、「天文学」や「科学」を、「歴史」や「革命」で置き換えると、「彼ら」は「私」=ブランキその人となる。

《とにかく、彼らは、星空の最も美しい夜々にしばしば抜きんでて輝く、無害で、優美な被造物なのだ。もしも彼らがやって来て、罠にかかった筬鳥(おさどり)のように生け捕りにされるとしても、天文学もまた彼らと共に生け捕りにされるのであり、彼ら以上に脱出は困難なのだ。彼らこそまさに、科学上の悪夢である。他の天体に比べて何と対照的であることか! 対立する二つの極、あらゆるものを押しつぶす巨塊と重量のない存在、大きいものの極限と空無なるものの極限。》

「対立する二つの極」とは、彗星と恒星(または星雲)のこと。『天体による永遠』の中で彗星は恒星との対比で語られ、天文学の知見を無効にしてしまう「悪夢」「謎」としての存在とされる。

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