新しいものを表示

たとえば、さっきまで俺がほっつき歩いてた、楊樹浦のユダヤ人街だ。白ペンキばかりがけばけばしいバラック建ての間から、ふいに、およそ辺りの様子とは不似合いな、甘ったるい花の香りが漂ってきたりする。つまり、この町の春にはそんなところがあるんだ。うっかりしていると、ぼんやり同じところに半日も佇んでいたりする、人のこころを空っぽにする何かが、春になるとこの町をすっぽり包みこむ。そんな町に、懐に入れたピストルのちょっと手ごたえのある重さ……俺は嫌いじゃない。

『ブランキ殺し上海の春(ブランキ版)』から、繃帯の台詞。繃帯は顔の半分を汚れた繃帯で巻いた男。道端で拾ったピストルで頭の上の虻を撃ったところ。

虻を撃ったのは、紙弾頭のおもちゃの弾丸だ。実弾は……またどこかで拾えるだろうか?

国民政府の No.2 であった汪兆銘は、蒋介石を裏切って日本の傀儡政権をつくり、南京・上海周辺だけを治めた人物――として知られる。彼の日本に対する考えは、「日本と長く激しい戦争を続けたら、その間に中国はソビエト化してしまう」というもので、歴史は彼の恐れたとおりに推移した。
のちに汪兆銘が漢奸(中国人の敵)として非難されたときの、汪兆銘夫人の反論。
「蒋介石は英米を選んだ。毛沢東はソ連を選んだ。汪兆銘は日本を選んだ。そこにどのような違いがあるのか」

以上、加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』による。
汪兆銘夫人の論は、「正しい者が勝つのではない。勝った者が正しいとされるのだ」と一般化できる。勝者はぜったいに口にしようとしない真理。

『上海バンスキング』は1979年、串田和美の演出で初演。現在までに数百回の公演実績。
また、1984年(深作欣二監督)、1988年(串田和美監督)に映画化。1988年版はYouTubeで公開されている。

上海バンスキング(自由劇場) - YouTube
youtube.com/watch?v=M-MnyhpeVb
この版はオリジナルの戯曲をほぼ忠実に踏襲。一部カットされた場もあるが、原作のわかりにくい箇所を省いたふしもあり、むしろ舞台版を映画の形式で再現したものか。

スレッドを表示

……街中焼け跡だらけだもんねえ。(外を見て)あの連中が悪いのよ……あの連中が、涼しい風がふきぬける糸杉の散歩道や赤レンガの建物を瓦礫の山にしてしまったの。……半ズボンに長靴下をはいた金髪の青年たちは、テニスコートでラケットをふるい、絹のドレスのレディやマダムたちは、まるでそのうららかな午後が永遠に続くかのように、セイロンティーを飲みながら、とりとめもない時間に身をまかせ……。すごかったのよ、女子供は本土へ帰れって言われたけどね。フランス租界にいれば大丈夫だからって、……なにしろ、フランス租界をはさんで、こっち側が日本軍、向こう側が中国軍、頭ごしに大砲の撃ち合いやるんですもの……映画観てるみたいだったわ……

斎藤憐の戯曲『上海バンスキング』から、マドンナの台詞。
時と場は、1938年初春、虹口の中国式石造住居。
経緯の説明を欠く唐突な台詞だが、前年8月に勃発した第2次上海事変がおさまったこと、その間、彼女がフランス租界に戦火を避けていたことを言っている。

1938年は、ダンサーの山田妙子が大連から上海にやってきた年。
fedibird.com/@mataji/112108478

また、東海林太郎の歌で「上海の街角で」が発売された年。
fedibird.com/@mataji/112090811

[参照]

「虹口」は「ホンキュウ」。ディック・ミネの歌った「夜霧のブルース」に「夢のスマロ(四馬路)かホンキュウ(虹口)の街か」とあり。

「夜霧のブルース」は映画『地獄の顔』の主題歌。次のビデオでは開始から3分で主題歌がはじまる。
youtube.com/watch?v=VFLTDphHeA

スレッドを表示

プロダンサーの山田妙子は、駆け落ち先の大連で男にも仕事にも見切りをつけ、1938年初頭、上海に渡った。
虹の入り口というイメージの「虹口」は、期待はずれの街だった。「横浜橋」という小さな橋を渡りきると、目の前に掘っ立て小屋のような木造二階建てがあり、「Blue Bird」と看板がかかっていた。これが虹口で一番のダンスホールなのか。看板の文字が英語なのがせめてもの救いといったところだった。

古くから上海にいるダンサーが妙子に言ったこと。
あのね、「上海ってすごく素敵」とか言うけど、実際に素敵な租界で暮らした日本人なんて、ほんの僅か。
あたしも来る前はそう思ってたけど、じっさいは見ての通り、長崎からパスポートなしで来られるから、虹口なんて長崎の田舎みたいなもんよ。租界に行くには、とにかく西洋の言葉がひとつできないと。住むなんてとんでもない。

妙子の目に映った虹口は欧米人の闊歩する上海ではなかった。向上心の強い彼女は一流ナイトクラブでのソロダンサーを目指して、河向こう=租界の欧米人社会に挑んでいくことになる。

これも榎本泰子『上海』による。榎本のソースは山田妙子(和田妙子名義)自伝。

のちにエドガー・スノウと結婚することになるヘレン・フォスターは、1931年、23歳で、アメリカ総領事館の秘書として働くため上海にやってきた。故郷のアメリカではいっかいの女性にすぎない彼女だったが、上海に着いたとたん、ドルの威力によってマンダリン並みの特権階級に押し上げられる感を味わった。

スノウと最初に待ち合わせをしたのは、共同租界随一の繁華街である南京路の喫茶店「チョコレート・ショップ」。そこは清潔なアイスクリームの一匙一匙が郷愁をさそう最もアメリカ的な場所であり、外国人が安心して牛乳を飲める唯一の場所だった。
この店はアメリカ人の船員が1912年に開業し、オフィス勤めの外国人に人気だった。アメリカで少女時代を過ごした孫文夫人の宋慶齢もお気に入りだったという。

日本と中国が軍事衝突を繰り返した1930年代を通じ、日本と英・米の関係も悪化を続けた。
1940年、上海駐留イギリス軍が撤収を開始。
太平洋戦争勃発直前の1941年11月、上海駐留アメリカ軍も撤収。
ヘレン・フォスターも1940年12月、アメリカ人婦女子への退避勧告を受け、寒風に震えながら黄浦江を下っていった。

以上も榎本泰子『上海』による。

上海のイギリス租界は、中国でもなくイギリスでもなかった。
既存の国家に帰属しない、いわば「自由都市」。同所は1845年、自由貿易を行う商人の便宜のために設置された居留地であり、住民たちは国家の干渉を嫌った。
イギリス租界は1863年にアメリカ租界と合併して共同租界となり、さらに自由都市としての性格を強めた。
20世紀に入ると、上海は戦争や革命から逃れる難民の逃避先となった。第2次世界大戦中、ナチス・ドイツから逃れるユダヤ人が上海を目指したのも、世界で唯一、ビザ無しで受け入れられる地だったから。

参考: 榎本泰子『上海――多国籍都市の百年』

上海帰りのリル
youtube.com/watch?v=19n7uyalzm

上海から帰ってきた。
それは一部の日本人の体験にすぎないが、体験はなくとも広く共有できた感覚ではないか、今が第2次大戦後10年20年ほどの間だとして。

1927年後半から文学者たちが上海にもどってくる。
蒋介石の4.12クーデター当時、広東の中山大学の教授をしていた魯迅は、同大を辞して10月はじめに上海についた。
郭沫若は8月の南昌蜂起に加わったのち、江西・福建一帯で転戦、敗れて山中をさまよったのち、福建省の漁港から香港に逃れ、10月下旬、香港から上海に来た。彼には2万元の懸賞がかけられていた。
武漢の茅盾も8月下旬、上海にもどった。船で上海に着くのは危険と判断して鎮江で列車に乗り換えたが、かえって怪しまれ、危うく逃れて上海入りした。
彼らが上海に集まったのは、文学活動に適していたから。国民党の治下より、いちおう西欧型デモクラシーをうたう租界のほうが安全だった。
    ――丸山昇『上海物語――国際都市上海と日中文化人』による

ヴァイオリンを習っている白痴の子、その家庭教師、唖の下男、肉姑娘。
ひるがえる青天白日旗。活人画。
上海租界には、まだ中国革命がとどいていない。人物すべて、ストップモーションで、「身の光は目なり若しなんじの目瞭らかならば全身も亦明かなるべし」(馬太伝、第六章)。
二人の盲目の手品師(暗黒の苦力)が、数メートルのロープであやとりをしている。指のかわりに全身を使って、等身大に形が出来あがってゆくところだ。
    ――寺山修司『盲人書簡(上海篇)』ト書き

先の記事の続き。1938年(昭和13年)に東海林太郎の歌で発売された「上海の街角で」は、21世紀の今も「深情難捨」または「深情難忘」として歌い継がれている。ただし、日本でも上海でもなく、台湾で。
youtube.com/watch?v=MYaPRG_PZn

数年前になるが、アメリカで日本の80年代シティポップがはやっていると聞いたことがある。一般化して言えば、世界のあちこちのカルチャーの場には、時間を滞留させる遊水地か溜め池のようなものがあり、よそでは消えたトレンドがそこでは長くとどまっている――というのがあるのではないか。たとえば、シルクロードの彼方からやってきた文物が、日本で正倉院に残されていたり、雅楽として引き継がれているように。
YouTube で台湾版の日本歌謡をあさるのは心地よい。ド演歌に収斂してしまう前の昭和歌謡が、台湾の遊水地で保存されている。

スレッドを表示

懐かしいな、上海。
植民地を持ったことのしあわせ。先方の不幸との引き替えだが。

上海の街角で(東海林太郎・佐野周二)
youtube.com/watch?v=UOzAtqwB8F

上海の街路を短い葬列がやってくる。
道ばたの老人が話しかける。

老人 いつ?
―― 一八八一年一月一日。午前九時十三分でした。
老人 なるほど。倒れてから五日間、とにかく生きてはいたというわけだな。
―― 一度も意識は戻りませんでした。お医者さまの見立てでは脳溢血と……
老人 七十五年の生涯のうち四十年間を、牢獄に幽閉されて過した。最後の五日間は、とうとう自分の身体の中にとじ込められてしまった。パリ、イタリー大通り二十五番地。古い建物の六階の小部屋。ベッドで横になっていると、どこからか隙間風が吹き込んで来る。
―― よくご存知で……
老人 墓碑銘は?
―― 「ルイ=オーギュスト・ブランキ。一八〇五年から一八八一年。主人もなく、奴隷もなく」
老人 よし、行こう。行って、私にも墓に花をそなえさせてもらおう。
―― 故人とは親しいおつき合いで?
老人 そう、終生の友……
―― 失礼ですが、お名前を。
老人 私か? 私の名は、ルイ=オーギュスト・ブランキ。たったいま、上海に着いたところだ。

同じタイトルの佐藤信『ブランキ殺し上海の春』からだが、先の「上海版」に対しこちらは別版「ブランキ版」の冒頭。

スレッドを表示

昭和11年(1936年)2月26日、2.26革命が勃発。
武装正規軍の蜂起に呼応して、陸軍少佐大友宮アマヒト親王(大正天皇第5皇子)は弘前の連隊を率いて革命軍の一翼を担い、事態を宮廷革命へと変貌させる。革命に成功するとアマヒトは天武2世を名乗って即位し、昭和の幕を11年で閉じて「飛鳥」に改元。
一方、中国大陸とアジアの情勢打開に苦慮するコミンテルンは、大陸における日本の軍事力と民族資本の蓄積に着目し、亡命地「満州国」で保護されたヒロヒト天皇を精神的支柱とする「大東亜人民共和国」の構想を1940年の大会で決定。この構想を中核として多くの抗日・独立運動が再編成され、徹底した皇民化教育受けた年少者たちによる「皇衛兵」組織が各地で発足する。
かくて飛鳥10年(1945年)8月15日、天武2世の大日本帝国敗戦の日、ここは大東亜人民共和国の未来の首都に擬せられる上海。――

佐藤信『ブランキ殺し上海の春(上海版)』の時代設定だが、昭和は遠くなりにけり、年号が「飛鳥」に変わった当時を、誰がリアリティを持って思い起こせるか。だが、覚えはあるだろう、微かだとしても。

Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。