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マルクスが参照したのは同時代の化学者リービッヒの「掠奪農業」批判。「資本主義が発展して、都市と農村のあいだで分業が進むと・・・・都市で消費される穀物に吸収された土壌養分は、もはや元の土壌に戻ってくることがない。」(斎藤『人新世の「資本論」』集英社新書2020年、p.43)

引用ツイート
斎藤幸平
@koheisaito0131
·
リンと下水!『大洪水の前に』でも扱った19世紀のユストゥス・フォン・リービッヒの世界が再び、という感じ。。。 twitter.com/NoriakiImai/st…

「しかし結果的にフロイトは、誘惑説、つまり大人の与える性的な心理的外傷が神経症の病因であるという説を捨て、幼児性欲説をとる。自分の中の父への攻撃性を認めたわけである。ここには決定的な「選択」がある。/フロイトは「主体」であることを選びとったのである。

父の罪をあげつらう子どもではなく、それをあえてかぶる大人としての自分を、である。」(内海健『さまよえる自己』筑摩選書2012年、p.120)

ここには受益の一方的な主体、損得勘定(パラノイア)の子どもから一方的に与えるものとしての大人への決定的な転換がある。

「クラインが抑うつポジションの着想にいたったのは、彼女自身が「良い母」というものを発見したこと、息子の死を悼む母の愛というものに気づいたことによるといわれている。

喪の作業が発動したのである。

実際、「抑うつポジション」の概念は、病理を示すとものというよりは、治療論的・回復論的な方向性を持っている。
それは対象が修復可能であることを示し、「償い」という力動概念に結実した。」(内海健『さまよえる自己』pp.179-80)

戦後の日本は、端的にいって喪の作業に失敗したといえるのだろう。その結果が現在の醜悪な思想・言論状況ということになる。

「原理的に言うならば、"存在は知覚なり"も"非知覚は非存在なり"も、経験的には成り立たない命題なのだ
われわれの知覚現場は比較的単純明快に、非知覚的世界はより一層複雑に、その都度すでに完了態として言語的に分節され、構造化されて、端的に存在するのである。
換言すれば、言語的分節世界として他者が常に歴史的に構造化されて、

無量無数の死者たちからの贈与として、

常に存在する。
つまり、言語的分節世界としての他者は"この世"のみならず"あの世"をも、その深層においては含むのである。
もしそうでなかったら、われわれは死や死者を語り得ないはずで、もちろん、人類の精神の根柢たる宗教もその萌芽すら示せなかったはずである。」(渡辺哲夫『死と狂気』ちくま学芸文庫2002年、pp.118-119

コラボの件といい関西生コンの件といい、ネトウヨ的なパラノイア妄想者が色々な材料を手当たり次第に掻き集めてきて妄想を作っていくプロセスがよく分かる。
QT: fedibird.com/@chaton14/1095346
[参照]

しゃとん  
そういえば、関西生コン労組弾圧事件のドキュメンタリ映画ができたみたいですね。 海渡雄一さんが紹介している。 「・・・他方で、この事件ほど、闘う労働組合の姿が、ネット上の動画配信によって歪められて伝えられたケースもないと思います」 「・・・しかし、生コン支部事件では大資本に屈した協同組合は、...
gom_nori2 さんがブースト

そういえば、関西生コン労組弾圧事件のドキュメンタリ映画ができたみたいですね。

海渡雄一さんが紹介している。

「・・・他方で、この事件ほど、闘う労働組合の姿が、ネット上の動画配信によって歪められて伝えられたケースもないと思います」

「・・・しかし、生コン支部事件では大資本に屈した協同組合は、ヘイトスピーチを繰り返している瀬戸弘幸氏らに月70万円の報酬を支払い、組合事務所を襲い、反撃する組合員をビデオで撮影し、生コン支部を組織犯罪集団のように描く多数の動画をユーチューブ上に配信することによって、この無法な弾圧に対する社会的な非難が高まらないように仕組んだのです。

 そして、この工作は、多くのメディアが、この問題そのものをほとんど報道できなくさせるという顕著な効果を生み、また、多くの労働組合が、この弾圧の本質を知って支援に立ち上がることを困難にしてしまいました。

 ジャーナリズムにおいて、この問題を取り上げて問題にしてくれたのは竹信三恵子さんや安田浩一さんなど、本当にごく少数でした」

labornetjp.org/news/2022/1218e

「ベルギーはルーヴァン大学新トマス学派の「自己は他者からの贈り物である」と高校生の時から思っている。先に逝った人の贈り物が私を作っている。それでも、死者は二度死ぬという。二度目とはその人を覚えている人が皆世を去った時である。」(中井久夫「近況二、三」、『「昭和」を送る』みすず書房2013年)

「真も善も美も理念としてはめぐり会えるかどうかすらわからない、しかし厳然たる妥当性として現実に存在している。」(三島憲一『ベンヤミン 破壊・収集・記憶』,p.74)

そう、それは確かにあるのだ。でもそれは必ず手に入れることができる訳ではないのだ。すべての人間的な事柄がそうであるように。

人間であるってことはそもそも未完であるっていうこと

「対象を完全に認識することは一種の認識理想である。従って、「存在」とはいつでも原理的に「未完」であり、「いまだない」を含んでいる。それは一種の極限概念であり、「無限な課題」なのである。

「無限な課題」としての存在は同時に、「根源」としてすでにわれわれの認識をはじめから導いていたのでなければならないのである。

「存在」とは「いまだない」である同時に「いつでもすでに」でもあり、原理的に生成過程にある。」(村岡晋一『対話の哲学』講談社選書メチエ2008年,pp.39-40)

「我々の生はどんなに糊塗しても、調和のとれた美は無理なのである。あくまで亀裂をはらんだ、断片でしかないことを、われわれは、思い知らされる。

それを思い知るのは、悲劇の英雄が沈黙する瞬間であり、ヘルダーリンの賛歌における中断もしくは中間休止と呼ばれる、全体のリズムの流れを一瞬とめる瞬間、彼が「純粋な単語」と呼ぶ瞬間である。」(三島憲一『ベンヤミン』岩波現代文庫2019年、p.223)

「‥現状に満足できない知識人の特徴はメランコリーである。憂鬱者は行動しない。活動、労働、仕事、勤勉、前進などなどの近代資本主義の日常エトスとは無縁である。遅疑逡巡、決定不能、「アクチュアリティ」のゆえに、どの選択肢も棄てられないし、どの選択肢も不満である。それを取りまく生命なき地球というアレゴリー。

だが、重要なのは、そこにベンヤミンが近代のひとつのチャンスを見ようとしていることである。つまり、生命を抜かれた物質という、意味とは異質で無縁な存在が浮かび上がってくるというチャンスを。
同時にそれは、物質としての自然がそれとして解き放たれる条件、すなわち唯物論が成立する基盤でもあると考えられている。‥デューラーの銅版画‥ふさぎ込んでいるメランコリアは、それぞれ世界の脱魔術化の手段である観測器具などの小道具に意味を与えながら、まさにそれが神々の道具でないことを、死んだ自然であり、しかも人間世界と深く交わっていて、この世界とやっていかねばならない自然であることを分からせてくれる。「救い出す」とはそういうことなのだ‥。」 (三島憲一『ベンヤミン』岩波現代文庫2019年、pp.262-263)

【近代的能動的主体という罠】

「シュレーバーの発病を決定づけた「子宝に恵まれない」「家系の断絶」という解決不能と思われた垂直方向の実存的危機が、

養子を迎える―それも、彼自身ではなく、妻が主体となって養子を迎える―というアクロバットによって奇跡的な解決をみたからではないだろうか。

ラカンのいう<父の名>の排除という欠陥は、ここではもはや補填されてしまっているかのようである。私たちは、次のように解釈したい―シュレーバーは、究極の「思い上がり」である神へと到達しようとする垂直方向の運動(および、ひとりの責任ある主体として再生しようとするための禁治産宣告取消訴訟)のなかでは治癒に到ることはなかったが、

むしろ垂直方向の運動を回避して、身近な他者が住まう水平方向へとずれることによって治癒に至ったのではないか、と。」(松本卓也「水平方向の精神病理学にむけて」atプラス30号、p.30-)

すずさんは「単なる共感の器でないし、ましてや政治的メッセンジャーなどでもない。・・複数の物語(ナラティブ)によって構成されたその実在性は、「分析」よりも「対話」に開かれている」 (斎藤環『「世界観のモンタージュ」としてのキャラクター』,現代思想3月臨時増刊)

コトリンゴのオープニングテーマに魅了されてしまった僕たちはどうしても、この河のほとりで逃げまどうもう一人のヨーコの姿とその行く末に、思いを巡らさずにはいられない。
youtube.com/watch?time_continu

「カントと言えば、一般には『永久平和論』が有名かも知れない。しかしその本の原題(zum ewigen Frieden)は、本来「永遠の安らぎを」という墓碑銘の言葉だった。

永遠の平和は、死後にしか訪れない。生きている限り、人間は戦わなければならない。人間の生は、人類の歴史は、平和を求めつつ、永遠に戦いを繰り返す「絢爛たる悲惨」に充ちている。

 だがそれは。たんにペシミスティックな相の下にあるだけではない。

神から自立し、楽園の無邪気な生き方から抜け出した人間にとって、それは人類史の彩りであり、自立の証しであり、いさおし〔勲し〕であるとさえ言えよう。たとえそれが、破局を前にしたものであるとしても。」
(徳永恂『絢爛たる悲惨』作品社2015年,p.294)

【上から目線と言うではないか】
それを対象化して見るとき、それに対する構え、或いは特別な定点を占めることが出来る、視点としての能動性を有する傲慢な主体が生まれてしまうからである。この主体こそ自然を操作し支配する者、ランボーが否定する近代の宿痾としての主観にほかならない。

「「脱構築」もまた、メタレヴェルの視点を要請する。そして主体がその語る位置をメタレヴェルに繰り上げるとき、下位のレヴェルはそっくり一網打尽にされてしまう。メタレヴェルに語るということの欲望は、所有の欲望にほかならない。」

「たとえば、世界の始めにおいて、姥捨て寸前の老人たちがそれぞれ一枚の細長い紙切れを発行し、それが消費財一単位と同じ価値をもち続けることを未来永劫にわたってひとびとに信じさせることに成功したと想定してみよう。そうすると、老人は実質的にはなにももってないにもかかわらず、この紙切れを若者に差し出すだけで一単位分の消費財を受け取ることができることになる。なぜならば、この紙切れを受け取った若者は、それをじぶんが年老いる次の期において若者に差し出せば、代わりに消費財一単位を受け取ることができるからである。」(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』pp.245-6)

「それ[サミュエルソンの「世代重複モデル」]は、このように実体的な働きをする貨幣そのものは、それが未来永劫にわたって貨幣とみなされるから貨幣であるという自己実現的な予想の産物にほかならず、なんの実体的な裏付けももたないバブルであることも示すことになった。」(同p.253)

資源を効率・合理的に使う「希少性の経済学」は貨幣の価値転倒により「過剰性の経済学」と変身する。錯覚してはならない。年々の生産物は翌年に繰越されるのではなく、今使われ、貸し借りという「価値」に変換され繰越されるだけだ。それはまさに「ないもの」が「あること」になる過剰性の経済なのである。

「一万年前には、自然物をあさり尽くし、焼き尽くし破壊し尽くす農耕牧畜型、定着タイプのホモ・サピエンスの新しい波が、洞窟芸術を楽しんでいた漁撈採集民のすむ南ヨーロッパに押し入ってきたのではないか?」
(島泰三『ヒトー異端のサルの1億年』中公新書2016年,p.227)

洞窟壁画を描いた狩猟採集民と神殿を作った農耕牧畜民の宗教は、全く別物といっていいほどの違いがあることだろう。

「農耕以来、ホモ・サピエンスは栽培植物と飼育動物の知識を第一とし、それ以外の周囲の生命をすべて害虫獣と雑草として区分した。

有用かどうかを基準とする世界観は、人の評価に拡張され、人を有用か無用かで分別するようになった。」(同,pp.235-236)

「やあ、元気か」
「あ、こんにちは、教授。なぜマスクをつけているんですか。二週間前には、マスクではウイルスを防げないと皆におっしゃってたじゃないですか。」
「そうだ。防げないとわかってるんだが、ウイルスはそれを知っているかね?」
(スラヴォイ・ジジェク『パンデミック』)

[見田]「キャラバンサライとは、ユーラシア大陸を西に東に往来した隊商(キャラバン)たちが、幾日か幾週間かの宿として共に過ごした、ペトラやボスラやパルミュラなどの「隊商都市」です。サンタナはそれを、人間の<自我>というものが、輪廻転生する生命も永遠のキャラバンの一夜の宿であるとする、インドの思想を表現する具象として演奏しています。それは科学的であるどころか、思いっきり反対の、<文学的>な表象であると、しかも非科学的なインドの「神秘思想」じゃないかと、読者は思うかもしれません。しかし現代の生物科学の成果の示すところでは、「わたし」という自我、つまり個体は、幾十億年という地球の歴史を生きつづけ、増殖をくりかえしている無数の遺伝子たちがひしめき、せめぎ合い、共生して助け合いながら集合して、一夜の宿を共にしている「都市」のような存在なのです。「自我という都市」というイメージですね。」(柄谷行人、見田宗介、大澤真幸『戦後思想の到達点』NHK出版2019年、pp.180-81

「「性は善である」という主張・・・はキリスト教的なオプティミスムとは異なるものであった。なぜなら、孟子は、どこか(たとえば本質や、生得的な次元である本性)に最善の状態があり、そこに戻りさえすればよいと考えたり、あるいはそこに必ず戻ることができると信じたりしてはいないからである。その反対に、孟子は、「地上に悪がある」ことを前提にした上で、それでも「性は善である」とあえて主張することで、この世界に善を実現する橋頭堡を築こうとしたのである。/次に、「性は善である」と言う主張は、この世界の彼方に超越的な次元を設定することでもなければ、個人の「内面」を設定するものでもない。あくまでもこの人間の世界において、善を実現しようとするものであり、しかも、他者との関係において実現しようとするのである。」(中島隆博『悪の哲学』筑摩選書2012年、p.104)

「礼の核心に供犠があることの意味は極めて重要である。その一つとして、礼を支えているのは、交換ではなく贈与であるということが挙げられる。エコノミーの体制である以上、礼には価値と意味の適切な交換が要求されるが、その一方で、礼には交換の原則をはみ出し、見返りのない贈与を行う可能性がある。無論、通常の場合、礼の中で行われる犠牲という贈与は、礼という体制を支える大きな見返りを予想していて、交換としっかり結びついている。しかし、礼それ自体が問われる瞬間(それは実は「常に」である)、贈与は交換との結びつきを離れ、その原初的な姿を示し、礼が、見返りを期待しない振る舞いを予想するものであることを明かす。
だからこそ、礼は、生物としての人間が抱えている、交換に還元できない様々なあり方に深く関わる。すなわち、礼は、食べること、殺すこと、そして死に深く関わっている。ここから礼のもう一つの重要な意味が出てくる。それは交換とは異なる仕方で他者の関わる際に、「正しく」関わらなければならないとする、倫理というよりは、倫理性を問う方位である。」(中島隆博『悪の哲学』筑摩選書2012年、p.120

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