マタイ伝20章 葡萄園の労働人の譬喩
12 「この最後の者たちは一時間しか働かなかったのにあなたは一日中労苦と暑さと辛抱したわれたしたちと同じ扱いをなされました。
13 そこで彼はそのひとりに答えて言った「友よ、わたしはあなたに対して不正をしていない。
あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。
14 自分の賃金をもらって行きなさい、わたしはこの最後のものにもあなたと同様に払ってやりたいのだ。
「ここに、賃金は労働時間や労働成果の対価として支払われるのではなく、ただ存在するだけで恩恵に与かれるのだという考えがある。
障碍者が我々にどのような貢献をしているのかは、誰も知らない成果とか効用といった短視眼的な尺度で、その存在の意味を推し量ることなど到底できないのだ。」(ララビアータ 田島正樹の哲学的断想
「よく知られているように未来を探ることは、ユダヤ人には禁じられていた。トーラーと祈禱書は、それとは逆の、回想することをかれらに教えた。」(鹿島徹『[新訳・評注]歴史の概念について』)
19世紀における社会主義についての様々な思索、20世紀におけるその華々しい実践と挫折。ベンヤミンが始まる前に、或いは終わる前に総括してしまった歴史の意味は相当に重いものだと、(今にして思えば)言える。
人間には何でも説明できる万能の全知がどうしても必要なのだ。だからこそユダヤ人はありもしない未来を思い描くこと、語ることを禁じたのだ。
「・・経済成長」に取って代わる「何か意義のある価値観」を模索することは、個人にとっては容易ではない。・・・一朝一夕に人は変われるものではないし、己が身を置く社会をつぶさに観察してみたところで世の中は昨日となんら代わりばえしてなどみえてきはしない。
・・・そこに生きる個人にとって、実感など持ちえようはずもない。社会は「変わる」もので「変える」ものではない。超微速で、しかし圧倒的に強力なトルクで、時代はいつしかガラリと変転していくものである。」(水野和夫『国貧論』太田出版2016年,pp.112-113)
「シューベルトの≪未完成≫がシンフォニーとして存立しえるのは、その未完成ゆえの美に依拠している。近代が存立しえたのも、その未完成のプロジェクトという属性ゆえである。いつか完成する「理想の近代」像を想うのは、徒労であり見果てぬ夢かもしれない。」(水野和夫『国貧論』太田出版,p.104)
「僕はシューベルトは当時絶望のどん底にあって未完成の残りの楽章 ・・・は書く気力がなくなってしまったのではないかと思う。また少なくとも2楽章の最後は (言葉で言えない美しさ。
淋しく切ない・・・転調の素晴らしさよ!) 自分の悲しい運命を間違いなく分かっていて作曲されたと思えるほど完結してる。」(藤岡幸夫) http://fujioka-sachio.com/fromsachio/fro
「(中島)人権概念は最初から普遍的だったわけではありません。それが普遍化されるプロセスがあったということです。・・・それはさまざまな経験を積み重ね、いろいろな論議を経ることで深められていったのです。」(M・ガブリエル、中島隆博『全体主義の克服』集英社新書2020年)
「(中島)西田幾多郎の学生であった高山岩男は、『世界史の哲学』において「新たな世界史」を唱え・・「絶対無」という「絶対的普遍性」を日本が支えるという仕掛けを作ろうとした・・・それが「大東亜共栄圏」という言説の哲学的基礎づけでした。しかし、それは完全に失敗したのです。」
「(MG)ドイツ中心の普遍性も似たようなもです。わたしたちは同じようなことを経験し、何度も失敗しました。アメリカが現在、同じ愚を犯そうとしています。アメリカは第二次世界大戦以来、ドイツ中心の普遍性を模倣してきたのです。彼らは「アメリカの普遍性」があると実に素朴に考えています。」
皇帝がおまえに、一個人であり、一介のみすぼらしい臣下であり、皇帝という太陽から最も遠く離れた片隅へと逃げ込んだ ちっぽけな影にすぎない、ほかならぬそのおまえに、臨終の床からひとつの知らせを送った、とそう言われている。・・・・皇帝は使者を発たせた。使者はただちに出立した。
・・・・彼は飛ぶように走り、そうするとまもなくおまえは、彼の拳がおまえの家の戸を叩く、その光栄ある音を耳にするだろう。しかしながらそういう風にはゆかず・・・・いまだに彼は、相変わらず、最も奥深い宮殿の部屋から部屋へと押し進んでいるのだ。
・・・・数千年のあいだそんな風にして、そして仮に、彼がついに一番外側の門からうまくとび出したとしても――しかしながら、決して、決してそんなことは起こりえないのだがそして――、やっと帝都が、沈澱物という沈澱物が堆く積もった、世界の中心が、彼の前に横たわっているということでしかない。→
皇帝が――と伝説には語られている――きみに、一介の人物、微々たる小臣、皇帝の太陽からおよそはるけさの極みに遠ざかった、目にもとまらぬ小さな影、ほかでもないそのきみに、皇帝が、崩御の床から、綸旨を送ったのだ。
・・・・皇帝は使節を派遣した。使節は即刻出発した。・・・・彼は翔ぶがごとくに疾走し、やがてきみは、使節の拳がきみの門口の戸を叩く高らかな音を耳にするだろう。しかし実は・・・・いまだに彼は、中央宮殿の間から間へと、必死の思いでたどりつづけている。
・・・・こうして幾千年が過ぎ去って行く。そして使者がついに、王宮の大手門からまろび出たとしても――しかしそんなことは未来永劫、起り得ようはずがない――彼の前にひろがるのはまだ、帝都の首都の眺めにすぎない、おびただしい滓がうずたかくたたみ重なる、世界の中心。誰ひとりここを突き抜けることはできない。あまつさえ、今は死者となった皇帝の綸旨をたずさえて、それが叶うはずはない。――しかしきみは、夕暮れごとにわが家の窓辺に座って、その綸旨のおもむきを夢のように思いやるのである。(カフカ『田舎医者』,円子修平訳,新潮社・カフカ全集1,1983年)
「ダニエル書は、シリア王アンティオコス・‥による徹底した迫害と受難の時代に、この現実の地上の絶望の徹底性に唯一拮抗することのできる、「未来」の救済の約束として霊感された。現世に何の歓びも見出すことのできない民族が、生きることの「意味」のよりどころとすることができるのは、ひたすら「未来」における「救済」の約束、来たるべき世に「天国」があるということ、現在われわれを迫害し、富み栄えているものには「地獄」が待っているということ。現世に不幸な者たちの未来には天国があるいうこと。そのような決定的な「審判」の日が必ずあるという約束だけだった。「主よ、これらのことの結末はどんなでしょうか。」[ダニエル書12章8節]すべてはダニエルのこの悲しい問いから始まっていた。やがてキリスト教世界を支配する「最後の審判」という壮大な結末の物語もまた。この時預言者ダニエルの霊感において想像された。イエス・キリストの語るとおり、富める者が天国に入ることが「駱駝が針の穴を通ことよりもむつかしい」のは、・・・・天国はもともと不幸な者たちのためにつくられた場所だからである。・・・→
【物質的な生命(<第一の生命>)の否定】
「だが、「ヨハネによる福音書」の後半にいたって、突然それが霊的な生命(<第二の生命>)による説明に変化する。おそらく、以下の部分は後世の編者による異質な思想の混入なのではないか。
命を与えるのは"霊"である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。(「ヨハネによる福音書」6:63)
ここで突然のように出現した「霊による永遠の生命」というキイ概念は、パウロの出現によって尖鋭化される。周知のように、パウロこそ、ニーチェがもっとも嫌った人物のひとりだった。」(小倉紀蔵『弱いニーチェ』筑摩選書2022年)
「竹内は‥「現在」を鞭うちながら「伝統」を救い、歴史を遡ろうとする。その際に、竹内は出来事を救済するために終末論的な歴史意識とアレゴリー的な方法を要請した。その仕事の結晶が中国文学とりわけ魯迅の翻訳と解釈であったのだが、ここで思い起こしておきたいのは、その仕事の背景には戸坂潤(1900-1945年)が存在しているということだ。(中島隆博『思想としての言語』岩波現代全書2017年、p.98)
ひとつの仕事の中には歴史経過の全体が保存されている。それは「抑圧された過去の救済(解放)」という人類の普遍史のことだといっていいだろう。
ベンヤミン(1892-1940)と、戸坂潤、竹内好(1910-1977)の仕事がここで重なる。
朕、深く世界の大勢とツイッター社の現状とに鑑み、非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なるなんじ臣民に告ぐ。
朕はフェディバースドットコムに対し、そのアカウント(Asyl)を開設する旨通告せり。
おもうに今後、ツイッターの受くべき苦難はもとより尋常にあらず。なんじ臣民の衷情も朕よくこれを知る。しかれども朕は時運のおもむくところ、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、もって万世のためにアカウント(Asyl)を開かんと欲す。
当面はツイッターの引用投稿の一部を移し、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操をかたくし、誓ってマストドンの精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期す。
なんじ臣民それよく朕が意を体せよ。
死ぬ間際のただの年金じじいだよ(Asyl)