映画監督の河瀬直美が、今度は大阪万博の宣伝を沖縄で行っているようだ。
河瀬直美に関しては、私は彼女の映画も巷間で持ち上げられる程評価していない、というか批判的だが、しかし大阪万博の宣伝となると、これは全く次元が違う。
東京五輪の際も問題になった河瀬だが、控えめに言って「政治的センス」ゼロ。
「政治的センス」ゼロの映画監督は、結局、つくる作品にも決定的な弱点が出るものである。
これは日本のSF、ライトノベル、アニメなどサブカルチャーに総じて言えること。この感覚が東浩紀に見られるように、ネットメディアにも切れ目なく接続している。
20世紀中はこの問題が不可視化されていたが、近年一挙に前景化している、と言えるだろう。
どうも「ゲンロン」だけでなく、「シノドス」という私と同世代の人間がスタートアップさせたメディアも予想通り、右へ右へと漂流していき、ついに、言論のアリーナの極右側から転落しそうになっているらしい。
東浩紀の「ゲンロン」でもそうだが、海図もコンパスも羅針盤も、そしてまともなエンジンもなしに、大洋に漕ぎ出せば難破は間違いない。
村人たちが「ゲンロン」とか「シノドス」とかいうありがたそうなカタカナでそんな気になり、温かく送ってくれたとしても、日本の海流は右方向に強く流れている。
相当な準備と装備を備えた船でも難しい航海、その時「流行っていたから」と若さに任せて漕ぎ出したが、いいがやはり、予想通り、「21世紀の与次郎」として極右として視界から消えつつある。
しかしただ退場するのならいいが、原発に関して「ゲンロン」ともども明らかに経産省が言ってほしい「無理筋」の主張を連呼しているようだ。
もうここまで行くと、「ゲンロン」同様悪質な「ネトウヨ」メディアと認定せざるを得ないだろう。
自民党が非公認候補にも、2000万円を支給していた件、石破がなかなかに面白いことを言っているらしい。
報道によると、「自由民主党の公約、自由民主党の政策を分かってもらいたい。その思いで、政党支部に(活動費を)出しているのであって、非公認候補に出しているのではない」と街頭で叫んでいるとのこと。
しかし、元来政党支部とは、元来国会議員を当選させるためにあるもの。ましてや、選挙戦中にはほぼそのためにのみある、と言ってもいい。
これはもう、石破の詭弁は、「白馬非馬」説をも上回っている。
またこの報道に対し、「誠にもって憤りを覚える。私どもはそのような報道に負けるわけにいかない。」と吠えているらしいが、これは安倍と同じ口吻である。
しかしTVでは有名キャスターとTV幹部が「白票」運動を煽っているのだから、石破の詭弁と並んで、もう箍が外れている。そう言えば、昨日の薬局のTVでも「最低賃金1500円以上が如何に中小企業を圧迫するか」という報道をしていた。
米国でもマスクがトランプ支持者に大金を配っているだから、日米両国とも、どうもカオスに陥りつつあるようだ。
これでも中島岳志は石破のことを「リベラル保守」として期待するのかな?ま、この人典型的な「エキセン」だから当然ではあるが。
今日の東京新聞の中島岳志氏の論壇時評、一面これ「リベラル保守」なる石破の提灯記事だった。
中島氏は石破の「裏金議員」への「厳しい決断」の背景を佐藤優を引きながら、クリスチャンである石破の「神の声」だったのではないか、と眠たいことを言っている。
笑止千万とはこのことである。今日の東京新聞の一面でも他のマスコミと同じく、自民党が「裏金非公認支部」にも活動費2千万円を配布したことが報道されている。
ところが、6面の論壇時評で中島氏は「カルヴァン派」である石破が「神への恐れ」から「自己過信」を戒める政治家、と天まで持ち上げているのである。
それにしても中島氏は「研究者」でもなく、況や「教養のある知識人」でもない。それを延々と論壇時評を担当させている東京新聞の見識も疑われる。
ちなみに中島氏はカルヴァン派を「自己への過信を戒め、他者との合意形成を重視」などとテキトーなことを言っているが、歴史的にはカルヴァン派はカトリックは勿論、プロテスタント諸派の中でも最も「不寛容」であり、元来の仲間でも一度対立すると異端裁判で火刑に処されることが多かった。
オランダでもグロティウス(アルミニウス派)は投獄、亡命。スピノザの政治的同盟者デ・ウィット兄弟はカルヴァン派指導者オラニエ公の民衆扇動によって虐殺さされた。
10月10日の「朝日」では珍しく、酒井隆史さんの「エキセン中道」についてのinterviewが出ている。
この言葉、にわかに日本の言説でも一種の「流行り」になっているようだが、世界同時代的な傾向でもある。
具体的には、ブレアのニューレーバーや米国のクリントン政権のように、大幅に新自由主義政策を取り入れ、「左派」のイメージを脱色しようとする傾向。
仏では、マクロン政権が典型的な「エキセン中道」。マクロンはついに極右を事実上の議会パートナーとすることを選択。ここに「極右は政治のゲームに参加させない」というWWII後の合意は崩れ去った。
「エキセン」は一見「ハリウッド的多様性」を称揚するが、新自由主義ゲームの敗者には「容赦なし No Mercy」。
また「エキセン」は「寛容」を標榜しつつも、新自由主義的資本主義以外の選択肢は「エキセントリック」に排除する。この際、レトリックとしては「正義の暴力」が言挙げされる。
例えば、直近の星野智幸の「正義の暴力」論やそれを新聞一面使って擁護する中島岳志などが典型である。
星野の「正義の暴力」の記事にわらわらと群がってきた富永京子氏をはじめとする「コメント+」の面々多数も「エキセン」となる。案の定、富永氏は最近フェミニズムを貶め始めたようだ。
2015年のFB投稿再掲。
1)東浩紀がデモに行って特定の政治的信条に巻き込まれるのは詐欺だとツイートしているので、引用して「逆張りを続けてると『立憲主義を守れ』が政治信条になるのね。」とツイートした。
2)すると本人から引用ツイートで「なぜ逆張りになるのですか」と質問が来て、東氏のツイートを遡って読み、「デモ参加者や『護憲派』に対する嫌悪感が先走っているからです。 」と返した。
実際、「安倍死ね」の仲間になりたくないなどと、デモ参加者が現場で「安倍死ね」と叫んでいるような印象操作もあった。
3)それから30分経って自分のツイート履歴を見返してみたら、1)で引用した東ツイートが「このツイートはありません」になっていた。
消すんかい。
東が汚い手をSFに突っ込んで小松左京短編集を編集してるのがムカつく。
7)浅田直系とも言える「ミソジニー」を爆発させつつ、「反PC」界隈ネトウヨの事実上のボスとなる。
この「ミソジニー」爆発、ライトノベル、SFなどサブカルチャーに長年広く潜在していたものが近年一気に前景化してきた、と言える。
8)「反PC」、時流的に厳しいとみるや「誰でも間違う」が故に「訂正」の哲学などと寝言を発信しはじめた。
ところで、東は突然変異のように出現したわけではない。浅田彰と宮台真司という二人の「兄」あってこその存在。
特に浅田は東のプロデュースにあたっては特別の役割を果し、「ゲンロン」の広告にも協力。この責任は「山よりも高く、海よりも深い」。
しかし「真底」オタクの東、改憲賛成以外、特に国際政治や経済については何も見識なし(これで自称「思想家」だから聞いて呆れる)。
一年程前、「痴愚神礼賛祭り」(これにいそいそと参加した研究者は「あほ」)を開催したが、その効果もあまりなく、今や御用芸人としては細谷雄一や池内恵、成田悠輔、古市、落合からも2ランク落ち、成田の弟とともに「痴の猛者」と分類されるに至った。
これは東のファン層=首都圏高学歴男性+文化産業(朝日文化部)にとっても由々しき事態だろう。
人文・思想このまま泥船に乗って沈むのか、それとも?
さらに、原発汚染水をアルプス処理水を言い募る経産省やその手下である開沼博に唱和、「科学」の名において、汚染水海洋放出を全面擁護。ところで、東自身、「科学」について一体何を知っている?
3)野党共闘に関して、執拗に「共産」排除を主張。連合ー立憲右派を側面援助。元来、「共産が日本の政治の癌」は東の持論。直近の津田大介(元来仲間)の「共産党はなくなった方がいい」はこの連中に共有されている発想である。
4)「表現の不自由展」を契機に明確に右派に「転向」。梅原猛、加藤典洋を讃えるに至った。(これだと西部を讃える中島岳志とデリダから出発した東どう違う?)ちなみに中島岳志は論壇時評一面を使って「正義の暴走」を批判、富永京子という詐欺師もこれに直近加わったらしい。
5)さらに安倍自民に擦り寄るに至った東は「投票棄権プロジェクト」を立ち上げ。これは事実上安倍自民の側面援助。選挙後批判されると、「自分は投票に行った」とし「棄権」を訴えるTWを削除。この「鉄面皮」振りも東ならでは。
6)昨年4月の衆院選後の夏野剛司会の選挙特番で統一教会と自民党の関係を示唆した福島瑞穂さんを、オフラインにした後、三浦瑠麗、石戸諭などとともに醜く「罵倒」。しかし真相が明らかになると、これに関しても「訂正」を拒否。
「東浩紀、八つの大罪」
1) 南京事件について、
「過去の出来事については不可知という立場なんで、南京虐殺はあったともなかったとも言えない」などと語る。
また同時期に「朝鮮人慰安婦問題」に絡めないと「デリダを語れない」と高橋哲哉さんを誹謗中傷している。
この東のパフォーマンスで、デリダや「脱構築」が素朴な「不可知論」や「価値相対主義」という多いに「誤った」印象が広がった。
東はそもそも「歴史学のかけらも知らず、南京虐殺に関する研究の蓄積への敬意もない。」
これは東の流れを汲む東大駒場表象の「超越的審級」=「神々」諸君にも通じる。
であるから、自分たちの「ポストモダニズム」@Japan経験を「相対化」することがそもそも「できない」。ただ「ヒステリー」になるだけ。
そして東は衆院選棄権キャンペーンを呼びかけながら、後になって「証拠隠滅」を図ったことからもわかる通り、自分の「間違い」を「訂正」することは絶対にない。
2)原発事故に際して、事故に遭った福島第一原発後を「テーマパーク」にするという馬鹿げた提言。ーこれ、まずは自分が「瓦礫撤去しろよ」ー皆様ご存じの通り、福島原発事故は収束していないままGX(原発全面回帰法案)が今国会可決。これに東はXなどで全面的に加担。
柄谷さんは浅田のことを「無私の人」などと笑止千万な表現で持ち上げているが、これは要するに自分にとって「とても使い勝手がよかった」と言うことに過ぎない。
実際は、浅田ほど徹底して「自己中心的」な陰謀公家はいない。
浅田は名前に影響にされているのか、何事も「深く」考えることをせず、ただ他人を「見下し、貶める」時だけ、独創的な表現を捻りだす男である。
特に「ミソジニー」に関しては手が付けられず、「女の浅智恵」が浅田のお得意ワードである。
丸山眞男に関しても、「あの程度は高校生の時に卒業してもらって」などと見下していたが、今から振り返って「思想家」として見れば丸山と浅田は「月とスッポン」以上である。そもそも浅田は自分のプライド以外、とくに思想がないのだから、比較すること自体ナンセンスだが(浅田には「思想はない」、ということは柄谷さんもインタビューで認めている。)
他人を根拠なく見下す態度は周囲の学生達に大変な悪影響を与えた。この連中が文化産業に入り込み、その上「反中」言説を「毎日」で煽っている(鈴木英生+石原俊)のだから、どうしようもない。
しかし何と言っても浅田の最大の罪はネトウヨ大王の東浩紀を院政を敷くためにプロデュースしたこと。この点については、一度徹底的に批判しなければならないだろう。
なにやら柄谷行人さんの「回顧噺」まだ続いているらしい。
「あほ」な東大教授が「近代日本の批評」に一番影響されたとか言っているが、この蓮実、柄谷、浅田、そして今やサントリー財団首脳部として反中・反共言説の旗振り役に転向した三浦雅士の4人で行った座談会程、デタラメな上、後世に悪影響を与えたものはない。
まず、三浦雅士は当時から論外。これは当事者である柄谷さんでさえ、認めていた。浅田と蓮実は、近代日本の批評史について、ほとんど予備知識をもたず、一夜漬けで、悪意ある「テキトー」なことを並べ立てている。
柄谷さんだけは一応戦後文学に連なる文芸評論家だけあって、まあ一応まともなこと(も)言っている。
蓮実については、とにかく渡辺一夫、加藤周一に対する怨念から、この二人を外した中村光夫、大岡昇平という仏文系の人間だけを評価し、「大岡を戦後派に入れるのは間違い」などと寝言を言っている。その上「近代文学の馬鹿ども」などと読みもしないのに得意の「罵倒」だけ炸裂させるから、後続の批評家、文学研究者もそれを真に受け、日本の批評史は崩壊したままである。
スパルタカス君もまだこれを真に受けてスガ秀美の方に影響を受けたなどと述べ立てているのだから、永遠に「現代思想」の蟻地獄から抜け出せないだろう。(続く)
先週に続き、今週も神戸の実家に帰省、家族会議。
母が先に亡くなり、父は一人暮らし、近くに妹が働きながら住んでいるが、なかなかに難しい問題がある。私の年齢の人達は、おそらく同様の問題を抱えている人も多いだろう。
ただ、父は認知症にはなっておらず、「政治」の話をしていれば間が持つので、これは助かる。父と息子は成人すると、割と会話に困るものだが、ここは比較的楽。
であるので、電話もわりに頻繁にして、様子を聞くことができる。
今回の話題は全国区になった、「狂乱の」維新・斎藤元知事の、兵庫県知事選挙。どうも、今回は自民、維新、斎藤が割れているので、元尼崎市長の市民派候補が当選する可能性があるらしい。
中・高校の同級生で兵庫県弁護士会会長も務めた男も、「支援する会」の共同代表をやっているとのこと、これはぜひ勝ってもらいたい。
先週・今週と帰省がてら旧友に会えたのもよかった。共通の知人の消息を聞くと、「まともな」人程、今の社会では「生きづらく」、袋小路に入っている知り合いも少なくないようだ。
ただでさえ、私の知人・友人は早逝、消息不明が多いので、これには暗澹たる気持ちになる。
それにしても2週連続で関西に帰っただけで、疲労感が凄い😅 。腰の疾病があるしても、これはもう年だな―。
メモ。
「 OECD内では日本は税と社会保障による国家の再配分の後、格差が拡大している唯一の国です。つまり富の下層から上層への再配分が国家によって実行されている。
ですので、やはりまずは大企業と富裕層への課税を優先すべきではないか」
三宅芳夫・諸富徹による対談「レント資本主義、社会保障、脱原発——政治経済学の再生に向けて」、『地平』2024年11月号より。
「星野リゾート(長野県軽井沢町)は10月から大学の学年に関係なく入社試験を受けられるようにする。大学1、2年生にも内定を出す。観光業界では慢性的な人手不足が続いており、早期の採用活動で優秀な人材の獲得を目指す」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC15D780V11C24A0000000/
星野リゾート、
橋下維新と手を組み、もともといた人たちを追い出して西成の再開発をしたり、
国立公園をリゾート開発してホテルを建てる「国立公園満喫プロジェクト」に関わったり、
やっていることがいつも悪辣すぎます。
大学1年生から内定出すって、
そんなことが許されるのでしょうか。
大学にはいってすぐ「就活」が始まること自体おかしいし、「内定」がでている学生に「企業理解を深めるプログラムを用意」というのは、実質的には在学中から仕事が始まるということでしょう。
現状、ただでさえも
生活費のためのバイト、長すぎる就活、インターン、研修など、
学生が学業に専念できない多くの問題があります。それに拍車をかけるような話です。
三井不動産などのデベロッパーが跋扈し、「開発」の名のもと各地の公共財がどんどん「観光ビジネス」のための利権になり、「人手不足」などといって、大学一年生まで動員する。
こんなことを当然視している会社、それを許す社会が怖いです。 [参照]
ETV特集「オモニの島 わたしの故郷 〜映画監督・ヤンヨンヒ〜」
https://twitter.com/nhk_Etoku/status/1614756314705428480?t=72T1stcjcdn_TlzgnoNApw&s=09
#オモニの島わたしの故郷~映画監督ヤンヨンヒ~ これ自体とてもよいドキュメンタリーだったし#ヤンヨンヒ 監督作品観たくなる
#スープとイデオロギー イデオロギーは違っても同じものを食べることはできる
家族を写してはいるが自分(の問い)が主人公
北朝鮮で被写体となってくれた人に害が及ぶかもしれない それでも作らないとは言いたくない
#かぞくのくに 私の映画は地団駄なんだ
北朝鮮、在日etc腫れ物にしたくない 自分が腫れ物になりたくないから
北朝鮮にいる人たちはもっと苦しいと思うと罪悪感もあるが、ギルティを感じてしまうと今の生活も壊れてしまう
母はふるさと、祖国、母国というものを強烈に持ちたかった。最後に残された北朝鮮という故郷を失いたくなかった 避難民の娘だったという己の新たなアイデンティティも発見できた 知るということが自信に
家族の映画を作るほど家族に会えなくなった皮肉
触媒でありたい
ハン・ガン『別れを告げない』でもテーマとなっている、
済州島四三事件を扱った作品
・ヤンヨンヒ監督のドキュメンタリ「スープとイデオロギー」
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0CY522215/
アマプラ見放題にはいりましたよ-。
監督のオモニ(お母さん)が、自身の壮絶な体験を語ります。
また、今回、監督の他の2作品も見放題にはいったようです。
がんこでお茶目なアボジ(お父さん)がでてくる「ディア・ピョンヤン」も見られます。
・「ディア・ピョンヤン」
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0CW23KTRL
・「愛しきソナ」
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0CVW5CGZD/
カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルと連なる所謂ドイツ観念論、哲学史的には「自由の哲学」とされますが、全員ルソー及びフランス革命に熱狂し、「自由とともに平等」を、掲げることになります。
一つの背景は、これらの哲学者がみな貧困層ではないにしても、下層(平民)階級出身であり、ドイツに強く残る身分制に強い反発を抱いていたこと。特にフィヒテはある時期まで、かなり貧困に苦しめられます。
カントは、ある時期まで、自分の知性と努力で大学教授の位置まで這い上がったこともあり、若い時はある種の「自己責任論」・「能力主義に近い立場をとっていたこともありますが、ルソーを読み「ヒトは皆平等」という衝撃を受ける。
ここも哲学史的にはヒュームの懐疑論によって「独断論のまどろみ」から醒めた、という点だけ強調されるますが、重要な点。
実際、カントの自己立法、良心を中心とした倫理学はルソーの圧倒的な影響下にある。
しかし、カントはまだ「奴隷 Knecht」を「主体」とは見做していない。
フランス革命の衝撃によって、「主人は奴隷の奴隷である」として身分制を完全に一度葬り去ったのは『精神現象学』のヘーゲル。
また社会秩序を「自己意識の闘争」の次元まで一度解体したのもドイツ観念論の内、ヘーゲルのみです。
松井京都新市長の元で、鈴木寛氏とともに京都市顧問になった上山信一氏は、「長生きは行政にとってコスト」と発言。発想は基本、玉木と同じ。
上山氏は維新支配下の大阪市顧問でもあり、美術品のオリジナル廃棄指示でも知られる人物である。
2045年開学予定のZEN大学の副学長予定者でもある。元来ZEN大学は昨年発表時には鈴木寛氏が総長予定だった。
それにしても大学の副学長予定者が「長生きは行政にとってコスト」とは驚きである。行政が市民の「生命」をコストとしか扱わないのであれば、一体そもそも行政は何にために存在するのか?
言うまでもなく、日本国憲法体制は主権在民であり、政府=行政は主権者である人民から行政機構の運営を任されているに過ぎない。
これがある頃から、「ガバナンス」というカタカナが流行り始め、私はあまりこれを連呼していると「バカ」になるよ、と警告したものである。
今は、ガバナンスやら、コスパやらを意味を分からず使い回すコンサル野郎達が肩で風切ってのし歩いている風でもある。
ま、この種の「紋切り型」、近々デモクラシーの嵐によって吹き飛ばされるだろう。
政治学者も商売道具の名前を変えておいた方がいいのではないか?
哲学・思想史・批判理論/国際関係史
著書
『世界史の中の戦後思想ー自由主義・民主主義・社会主義』(地平社)2024年
『ファシズムと冷戦のはざまで 戦後思想の胎動と形成 1930-1960』(東京大学出版会)2019年
『知識人と社会 J=P.サルトルの政治と実存』岩波書店(2000年)
編著『近代世界システムと新自由主義グローバリズム 資本主義は持続可能か?』(作品社)2014年
編著『移動と革命 ディアスポラたちの世界史』(論創社)2012年
論文「戦争と奴隷制のサピエンス史」(2022年)『世界』10月号
「戦後思想の胎動と誕生1930-1948」(2022年)『世界』11月号
翻訳F.ジェイムソン『サルトルー回帰する唯物論』(論創社)1999年