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 ただし、来年夏の参院選まで物価高の責任を自民に押し付け、「反ソーシャル」の「リベラル」として国民、さらに立憲が勢力を伸ばせるのかは未知数。

 「尊厳死」という複雑な問題は、その場しのぎの「手取りUP」などでスルーできるものではない。

 議論が進めば今はジムで鍛えているつもりの男女のなかにも、いずれ「自分」にお鉢が回って来る、ことを理解する連中も出てくるだろう。

 何と言っても日本はまだまだ集団同調圧力が強い国。「尊厳死」の美名の下に、「後期高齢者」達が「尊厳死」へと送り出される空気が醸成されない保証はない。

 社会保障費抑制に関して言えば、最もネックになっているのは5年で倍増の軍事費。これを聖域化すれば社会保障を抑制せざるを得ないし、それは医療抑制、年金受給の実質低下という形で既に始まっている。

 この上、米国にさらにお付き合いして中国包囲網に参加し、東アジア版NATOなどという痴れ言に突入すれば、日本経済は全面的に崩壊する。(これは財界も避けたい)

 対米従属という点では国民(連合)が元来突出し、立憲野田も上に同じ。

 となると、デッドロックに陥っている日本政治、まだまだ根本的な転換が必要である。

 まずは米国と適度な距離を取り、財政的には大企業と富裕層に負担を求めるべきだろう。

さて、今回の総選挙の投票率は前回を下回り、戦後3番目の低さ。

 つまり、今まで自公に入れていた層が、立民、特に国民へ移動したことになる。

 理由はほぼ確実に先の見えない物価高、裏金、最後に「裏金取引」のアシストが決め手になった。この点では「情報源秘匿」が確実な「赤旗」の意義が示されたとも言える。

ところで自民から国民へと鞍替えした層のプロフィール。

 1)東証2部の正規社員(男女・30代―40代)で自己責任論を内面化し、文化にはほとんど触れずジムに通って健康管理に余念がない。

 2)自分はある程度「能力」がある勝ち組だと思っているので、「競争の敗者」には何の同情もないが、どうも最近物価の急上昇と社会保険料の増額で「手取り」が少ない。ジムの仲間と相談しながら投資したNISAの雲行きも怪しい。

 3)ここで「社会保障抑制」のために「尊厳死の法制化」=「手取り」の増加を訴える玉木の演説に「なるほど」。とりあえず「尊厳死」を選ぶ側には「自分」は入ってない。

この人達には最初から「福祉国家」という選択は排除されている。いや、実は貧弱ではあれ、日本の社会保障制度で中間層に辛うじて留まっているのだが、それを自覚していない。

「選択的夫婦別姓」に賛成という意味ではリベラルだが、同時に「反ソーシャル」。

 しかし、今回はとりあえず維新が大阪に「封じ込められる」形になったのは特徴的。

 兵庫は12選挙区で維新ゼロ。奈良(6)もゼロ。京都で1議席あるが、これは前原。

 逆に、大阪は19選挙区全て維新である。

 「維新」的なものは、東京を含め、全国に拡大し、安部派と組んで、日本を「乗っ取りかけた」が、まずは大阪に縮小した形だ。

 とは言え、「維新的なもの」は吉本興業と松下政経塾と連携してここ20年、かなり根を張っている。今後の変動局面では、勢いを取り戻す可能性はあることは、重々警戒した方がいいと思う。

 しかし、一週間後の米大統領選は別にして、次の焦点は11月17日投票の兵庫県知事選である。

昨日の結果を受け、自民は独自候補を擁立を諦め、稲村元尼崎市市長に政策協定を即座に持ち掛けたが、これに稲村氏側は「慎重姿勢」と報じられている。

これは当然応じない方がいい。現在の態勢のまま行けば、非自民・非維新で勝利できる可能性が高くなっている。

稲村さんは元来大学生の際、阪神大震災のボランティアとして政治に関わり始めた市民派である。     当然、市民の生活を重視する反「ショック・ドクトリン」派」である。

ここで、女性である稲村さんが当選すれば、今後の非自民・非維新のマクロ政治のモデルとなるだろう。

 戦前からの旧統治エリートが崩落を始めている、と言っても、「民主主義」が戦後80年にしてようやく前景化してきたのか、と問えばその答えは全く否。

 新自由主義グローバリズムによる世界空間再編の中で、あらゆる至る所で不平等は空前の拡大を続け、ついに覇権国家米国において「極右中の極右」トランプが再び政権に就かんとしている。この場合、今まで北側において「バーチャル」に維持して来た「国際秩序」も崩壊するだろう。

 20世紀の世界戦争は1914ー45。奇しくも今年はちょうど110年後である。中東大戦争は既に始まっている。

 現在北側に絞れば不平等の拡大・社会保障の解体・極右の躍進が三大共通特徴。

 今回の総選挙、自公過半数割れは結構だが、大阪では維新は全勝、参政、保守の極右も議席を確保。

 「躍進」した立憲、とりわけ国民民主は、社会保障解体と憲法改正に最も熱心な党である。連合を支持基盤としていることもあり、米国と財界もこのラインであれば政権交代をさせてもいい。

 これがまさに「エキセン中道」。とは言え、まずは維新・安倍派の極右が後退しただけでも「まし」。

 来年夏の参院選までに政局は大きく動くだろう。ここで「エキセン中道」路線が勝利すれば、社会保障制度の解体は決定的となる。巨大な変動局面の到来である。 [参照]

三宅 芳夫 さんがブースト

戦後革命を生き延びた旧統治エリート、米国と手を結びながら80年日本を支配してきたが、どうも巨大な崩落を始めているようだ。

政界では岸ー安倍、吉田ー麻生が典型だが、3世、4世議員が履いて捨てる程いる。

河野太郎などは聴衆への演説で「この中には独裁国家のスパイの方もおられる」などと正気を疑う発言をする有り様。「セクシーな環境政策」などと口走る小泉と並んで、本人には「政治家」など不可能なのは会って見なくても明らか。

しかし、合法的な暴力を独占する検察の腐敗も「言語を絶する」。

大阪高検元検事正のレイプ犯は事件発覚まで「切れ者」と評価され、森友案件で佐川国税庁長官を不起訴とする。

同時に森友案件関係者を全員不起訴にしたのが、山本真千子地検特捜部長。その上司の畝本次席検事は北川検事正の部下として森友案件の隠蔽工作をした、と言われている。

その上、畝本氏の妻の直美氏は裏金事件の捜査を指揮し、その論功行賞で日本初の女性検事総長となっている。

他方被害者の検事の組織内の申し立てに対して、この案件を担当した上司の女性検事は「金目当て」などおきまりの「セカンドレイプ」を流通させたとされている。

このままでは市民の検察への信頼は瓦解し、取返しのつかないことになる。それは検察も望まない所ではないか?
 

戦後革命を生き延びた旧統治エリート、米国と手を結びながら80年日本を支配してきたが、どうも巨大な崩落を始めているようだ。

政界では岸ー安倍、吉田ー麻生が典型だが、3世、4世議員が履いて捨てる程いる。

河野太郎などは聴衆への演説で「この中には独裁国家のスパイの方もおられる」などと正気を疑う発言をする有り様。「セクシーな環境政策」などと口走る小泉と並んで、本人には「政治家」など不可能なのは会って見なくても明らか。

しかし、合法的な暴力を独占する検察の腐敗も「言語を絶する」。

大阪高検元検事正のレイプ犯は事件発覚まで「切れ者」と評価され、森友案件で佐川国税庁長官を不起訴とする。

同時に森友案件関係者を全員不起訴にしたのが、山本真千子地検特捜部長。その上司の畝本次席検事は北川検事正の部下として森友案件の隠蔽工作をした、と言われている。

その上、畝本氏の妻の直美氏は裏金事件の捜査を指揮し、その論功行賞で日本初の女性検事総長となっている。

他方被害者の検事の組織内の申し立てに対して、この案件を担当した上司の女性検事は「金目当て」などおきまりの「セカンドレイプ」を流通させたとされている。

このままでは市民の検察への信頼は瓦解し、取返しのつかないことになる。それは検察も望まない所ではないか?
 

さて、五箇条の誓文を尊崇・日本国憲法前文に基づいて、米覇権秩序のためには、「侵略戦争」であろうとも、世界中に日本は出撃すべきと説く苅部直氏、最近話題の「エキセン中道」かと問えば、それは違います。

「つくる会教科書」の坂本多加雄顕彰シンポジウムを手下の河野と共に主催した苅部氏は、「エキセントリック」ではあっても、「中道」ではなく、ただの「右翼」。何と言っても、第一次安倍政権の際、憲法改正のリハーサルとして行われた教育基本法改正の際、氏は「教育勅語の方がリベラル」などと珍論・持論を述べ立てていた。

これに対し、教育勅語の現代語訳を創っていた高橋源一郎は「エキセン中道」。ただし「エキセン中道」には「日和見主義」という重要要素があるので、全体が右によれば自然に右による。
 
 例えば高橋は横国大全共闘の後、競馬評論家(サブカル身振り)を経て、教育勅語の現代的意義を説くに至った。

 「マイルド・ヤンキー」などと適当極まる概念をでっち上げー高橋とともにードレスアップした三浦瑠麗との写真をネットにUPしていた斎藤環もこれに属する。
 斎藤は、以前「民主党は石原慎太郎を党首にせよ」などという寝言を文芸春秋に寄せたこともある。

 星野智幸、中島岳志、遠藤乾、富永京子などは次世代の「エキセン中道」と言えるだろう。
QT: fedibird.com/@yoshiomiyake/113
[参照]

三宅 芳夫  
 私が常々批判している苅部直東大教授がまたまた選挙前に「朝日」で珍論を展開している。  リード文は「平等と平和、出発点に学べ」と一見それらしい。しかし、苅部氏は「平等」は「五箇条の誓文」に由来する、と「けったい」なことを仰っている。  この誓文はどう「現代的解釈」を施しても、苅部氏の言う「普...
三宅 芳夫 さんがブースト

 私が常々批判している苅部直東大教授がまたまた選挙前に「朝日」で珍論を展開している。

 リード文は「平等と平和、出発点に学べ」と一見それらしい。しかし、苅部氏は「平等」は「五箇条の誓文」に由来する、と「けったい」なことを仰っている。

 この誓文はどう「現代的解釈」を施しても、苅部氏の言う「普遍的な原理に基づいて平等を実現する」という意味にはならない。
 
 確かに現代のテクスト理論に基づけば、テクストの意味を完全に決定することはできない。しかし、それはテクストを「好き勝手」に解釈していい、ということではない。苅部氏は、このテクスト理論の基本中の基本もご存じないようだ。

 さらに面妖なことに苅部氏は日本国憲法前文を「侵略戦争の禁止」ではなく「国際秩序の維持に責任を果たす平和主義」と解釈し直すべきと続ける。

 これは要するに米覇権下の国際秩序を維持するために、日本は米国指揮下に「侵略戦争」も厭わず、世界中に出撃すべき、ということ。これを苅部氏は「積極的平和主義」と呼ぶ。

 この「朝日」の記事を早速手下の河野有里が「よいしょ」している。何と言っても二人は「スナック研究会」の名目で、サントリー財団から金を貰らいながら飲み歩いた仲である。

 一度苅部氏は木庭顕さんの著作に挑戦して方がいいのではないか?

三宅 芳夫 さんがブースト

Netflixのドキュメンタリ
「私の帰る場所」
(予告編)
youtube.com/watch?v=moekzAxXe0

(本編)
netflix.com/jp/title/81240756

で見た、
都市の大通りにホームレスの人のテントがずらっと並んでいるアメリカの風景。

こうした光景が、日本でも当然になってしまうときがもうすぐ来てしまうのではないかとときどき思います。

ふつうに働いて生きていきたいのに、暮らせないようなお給料で搾取されて困っている人たちがたくさんいる。

そういう人たちが使い捨ての駒として、凶悪犯罪に荷担させられるようなことさえ、起きている。

それなのに、与党の政治家たちは、パーティ券を買って裏金づくりに協力してくれたり、党に献金をしてくれたりする、大企業の声にばかり耳を傾ける。

皆で投票して、なんとか変えていきたいですね。

人がふつうにご飯を食べて暮らしていける社会に。

(ちなみに、米国も、こうした状況に対して何もしていないわけではなく、以前紹介した映画「パブリック 図書館の奇跡」のように、「公共」を立ち上げていくことで対抗していこうという社会的な動きがあると思っています)。 [参照]

 「高齢者集団自決」提言で悪名を馳せた(私もこれで初めて存在を知った)成田悠輔氏が、今度は「日経」で、「民主主義の未来」について語っているらしい。

 そこで成田氏は「ネットが拡散するフェイクニュースや陰謀論、二極化が選挙を侵食し、強烈なポピュリスト政治家が増殖」などと「民主主義の敗北」を心配してみせている。

 その上で、「二つの処方箋」と称して、「民主主義との闘争」と「民主主義からの逃走」を挙げ、前者は無駄だから、「いっそのこと民主主義から闘争してしまうのはどうだろうか」などと、普通に言っても「奇天烈な」提言をしている。

 しかし、「日経」もよく使い続けるなー。ま、「鉄砲玉」としてまだ「耐用可」、ということなのだろう。

 国民民主の玉木の「社会保障抑制のための尊厳死の法制化」提言といい、日本の支配層はよっぽど高齢者に早く「死んでもらいたい」と見える。それでいてー麻生が典型だがー自分達は「例外」とするのだから、盗人猛々しいとはこのことである。

 大企業と富裕層の寡頭制支配にとって、もはや「代議制民主主義」さえ「重荷」と見える。
 今まで情報操作で凌いで来たが、そろそろ「限界」という本音はそこかしこで噴出している。

 しかし「闘争」ではなく「逃走」とは80年代に浅田彰が主張したではないか?

 「ルネサンス renaissance」とは仏語で「再reー生naissance」という意味。ギリシア・ローマの古典文化の復興というニュアンスをもつ。

 元来仏の19世紀の歴史家J.ミシュレが提起し、ブルクハルトの「イタリア・ルネサンスの文化」によって決定的となる。

 日本では特に美術史を中心に導入され、14世紀―16世紀のイタリア美術を連想させる。高階さんは主にフィレンツェを中心とした古典期ルネサンス(ボッティチェリ、レオナルド、初期のミケランジェロなど)、若桑さんはカール5世による1527年のローマ劫掠以降のマニエリスムを専門とする。
 また思想としては林達夫、高階秀爾ともにフィレンツェを中心としたネオ・プラトニズムに強く焦点を当てる。
 
 これに対し林達夫と同世代の渡辺一夫はラブレーを中心としたフランス・ルネサンスを中心に研究。ただ、渡辺が「フランスにもルネサンスがあったのですか?」とよく聞かれると嘆いたように、やはり視覚芸術を中心とした見方では仏は影を薄くなる。

 またフィレンツェを中心とした政治的人文主義=ローマ共和政の理念は、ポーコックの描くように17世紀イングランド、18世紀米国の革命言説に大きな影響を与えた。ここにオランダが占める位置を考えることは今後極めて重要になるだろう。 [参照]

三宅 芳夫 さんがブースト

  美術史家の高階秀爾さん死去(享年92)。
 高階さんは戦後日本の美術史の大立者であり、専門とは別に一般の知的読者に向けても『ルネサンスの光と闇』、『近代絵画』、『名画を見る眼』など明快な見取り図とパノフスキー的なイコノロジーを組み合わせた名著がある。

 実は私も高校、大学1,2年生の時は高階さんの書いたものはほぼ全て読み、実はパノフスキーを応用した精神史を組み立てたい、と夢想していた。

 日本の戦後のルネサンス研究は林達夫、高階秀爾、若桑みどり(マニエリスム研究)という系譜があり、戦後自身はほとんど書かなかった林達夫が主宰する平凡社の研究会に、高階、若桑氏なども参加していた。

 若桑さんは美術史におけるフェミニズム批評の導入者でもあり、とにかく凄いバイタリティの人だった。

 ただ、その後美術史研究は、カラヴァッジョやフェルメールなどの個別研究は進んだものの、「ルネサンス」を全体としてどう捉えるか、という点は棚上げされた感がある。

 他方、政治思想史の方はある時期から政治的人文主義の研究が流行したが、これは美術史とは仕切られたまま。また人文主義法学はこれとも別。

 ここらで12世紀から17世紀までに至る人文主義とルネサンスの関係を政治・法学と美術を横断して再考する試みが待たれる所である。

「山口敬之氏に関する補足」

 正確に言うと、安部晋三の友人のレイプ犯山口敬之の場合、一度出た逮捕状が取り消された。従って、「不起訴」処分にさえなっていない。

 一度逮捕状を出した担当検事は、どこかに飛ばされたように記憶している。

 これも刑事案件として誠に奇怪な事件である。

 もし、仮に有力政治家の係累であることで、逮捕状が取り消されたのだとしたら、これは法治国家の根幹を揺るがす大事件である。

 ただでさえ、日本では大富豪や権力者の息子が強姦事件を引き越した際、親が雇った弁護士が、「飴と鞭」のレトリックで被害者とい交渉し、億単位の金を積んで「示談」ですませる、という例が後を絶たない。

 元来「法の支配」とは「王は人の上に、されど」の格言が示すように、政治的最高権力者をも拘束する概念である。

 勿論、ドイツ帝国憲法や大日本帝国憲法では皇帝や天皇は刑事無答責とされたけれども、日本国憲法体制では、政治権力者や大富豪が「カネ」で「刑事無答責」を買う、などということはあってはならない。

 この辺りのことも、そろそろ大掃除が必要になってきているのではないか?

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 大阪地検の元検事正が部下の女性をレイプしたことを公式に認めた、ということ。

 これは恐ろしい事態である。検察と言えば日本国家の刑事案件を警察とともに合法的に独占する組織。その上、大阪高検ともなれば、東京地検特捜部と並ぶ、検察組織のトップ。

 この組織のトップの人間がレイプ事件を揉み消していた、となれば、もうこれは一般市民的には刑事案件に関して一体何を信じたらいいのかわからない。

 しかも、この北川という検事正、森友学園関係の案件で当時の国税庁佐川を「不起訴」とした捜査の指揮を執った人物、であるから検察への疑惑は深まるばかりである。

 というのも、これは安倍政権時のことであり、「佐川不起訴」は当然政権側に有利な決定だった。

 他方、安倍の友人、山口某もレイプ事件を起こし、一度逮捕されながら不明朗な過程で刑事的には「不起訴」になっている。

 仮に合法化された暴力を独占する国家の管理機関である検察が、時の政権に対する「忖度」で判断を左右することがあるとしたら、これはもう法治国家の前提が覆る大事である。
 
 検察は市民に対して、一連の不透明な流れを公的に説明する責任んがあるのではないか?

 繰り返すが、暴力を合法的に独占している検察・警察はそれに見合う巨大権力をもっているのである。

三宅 芳夫 さんがブースト

何年か前に、作家の高橋源一郎氏が「教育勅語」を「”ぼく”がきみたちに語りかける」という形式で”現代語訳”したと言って発表したことがありました。

高橋氏がどういう意図でそれを発表したのかはよくわかりませんし、ご本人も「教育勅語」をポジティブに読もうというつもりではないことを匂わせてはいたのですが、それでもかなり呆れました。

「教育勅語」は、「ぼくときみの約束」ではなく、
「皇室を中心にした国をつくるため、お前たちは従順に働け」と臣下に対して発した命令です。

まぁ作家だからちょっとずれているのかなと思っていました。

しかし、今回「五箇条の誓文」
を現代的に解釈して使おうと言い出しているのは政治学の教授です。

「五箇条の誓文」を普通に読めば、

「上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし」
「智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」
など、身分制を前提にし、天皇を中心にした秩序を打ち立てるための言葉であることが明らかです。

東大の政治学の先生である苅部直教授がそういうことをわかってないわけがありません。

こうした復古的な国家観を復活させたうえ、政策的には「国際秩序の維持」のため米軍に従って「積極的平和主義」を進めていこう、
という「悪魔合体」を分かったうえで主張してるのだから恐ろしいです。
QT: fedibird.com/@yoshiomiyake/113
[参照]

三宅 芳夫  
 私が常々批判している苅部直東大教授がまたまた選挙前に「朝日」で珍論を展開している。  リード文は「平等と平和、出発点に学べ」と一見それらしい。しかし、苅部氏は「平等」は「五箇条の誓文」に由来する、と「けったい」なことを仰っている。  この誓文はどう「現代的解釈」を施しても、苅部氏の言う「普...
三宅 芳夫 さんがブースト

いい内容だと思うんだけど、一個だけ。「適応」「不適応」ってなっているところは「適用」「不適用」ではないかなと思います。
QT: threads.net/@shinfujin_officia
[参照]

新日本婦人の会  
日米地位協定では「米軍の管理に必要なすべてのことを米国がおこなう」と定められ、米国にとても有利で不平等なまま放置されています。事故が起こっても対応は米軍の裁量次第。負担を当事者に押し付け、知らん顔をするのが普通になってしまっている政治。変えよう! 選挙に行こう
三宅 芳夫 さんがブースト

日米地位協定では「米軍の管理に必要なすべてのことを米国がおこなう」と定められ、米国にとても有利で不平等なまま放置されています。事故が起こっても対応は米軍の裁量次第。負担を当事者に押し付け、知らん顔をするのが普通になってしまっている政治。変えよう!
選挙に行こう

三宅 芳夫 さんがブースト

「一人につき○○万円配る」みたいなのも、
「事実上」実現できると思うんですよね。
(直接配るという意味ではなく)

政府が税金として集めたお金を
教育や医療、生活インフラ(道路や水道管、交通網など)の整備など、
一人一人の市民の役に立つためにちゃんと使ってくれるなら。

そういう政府にしていくための投票にしたいですね。

[参照]

 私が常々批判している苅部直東大教授がまたまた選挙前に「朝日」で珍論を展開している。

 リード文は「平等と平和、出発点に学べ」と一見それらしい。しかし、苅部氏は「平等」は「五箇条の誓文」に由来する、と「けったい」なことを仰っている。

 この誓文はどう「現代的解釈」を施しても、苅部氏の言う「普遍的な原理に基づいて平等を実現する」という意味にはならない。
 
 確かに現代のテクスト理論に基づけば、テクストの意味を完全に決定することはできない。しかし、それはテクストを「好き勝手」に解釈していい、ということではない。苅部氏は、このテクスト理論の基本中の基本もご存じないようだ。

 さらに面妖なことに苅部氏は日本国憲法前文を「侵略戦争の禁止」ではなく「国際秩序の維持に責任を果たす平和主義」と解釈し直すべきと続ける。

 これは要するに米覇権下の国際秩序を維持するために、日本は米国指揮下に「侵略戦争」も厭わず、世界中に出撃すべき、ということ。これを苅部氏は「積極的平和主義」と呼ぶ。

 この「朝日」の記事を早速手下の河野有里が「よいしょ」している。何と言っても二人は「スナック研究会」の名目で、サントリー財団から金を貰らいながら飲み歩いた仲である。

 一度苅部氏は木庭顕さんの著作に挑戦して方がいいのではないか?

  美術史家の高階秀爾さん死去(享年92)。
 高階さんは戦後日本の美術史の大立者であり、専門とは別に一般の知的読者に向けても『ルネサンスの光と闇』、『近代絵画』、『名画を見る眼』など明快な見取り図とパノフスキー的なイコノロジーを組み合わせた名著がある。

 実は私も高校、大学1,2年生の時は高階さんの書いたものはほぼ全て読み、実はパノフスキーを応用した精神史を組み立てたい、と夢想していた。

 日本の戦後のルネサンス研究は林達夫、高階秀爾、若桑みどり(マニエリスム研究)という系譜があり、戦後自身はほとんど書かなかった林達夫が主宰する平凡社の研究会に、高階、若桑氏なども参加していた。

 若桑さんは美術史におけるフェミニズム批評の導入者でもあり、とにかく凄いバイタリティの人だった。

 ただ、その後美術史研究は、カラヴァッジョやフェルメールなどの個別研究は進んだものの、「ルネサンス」を全体としてどう捉えるか、という点は棚上げされた感がある。

 他方、政治思想史の方はある時期から政治的人文主義の研究が流行したが、これは美術史とは仕切られたまま。また人文主義法学はこれとも別。

 ここらで12世紀から17世紀までに至る人文主義とルネサンスの関係を政治・法学と美術を横断して再考する試みが待たれる所である。

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