今大騒動の兵庫県の百条委員会を「衆愚政治」、「デマゴーグ」、「無惨」と他人事のように論評している大阪維新の上山信一氏が副学長を務める予定のZEN大学についての文科省「認可」が28日発表されたらしい。
結果は留保(継続)審議。形式的な手続きのことはよくわからないが、現在オンライン上でのトラブルが収束してもいない組織に、2025年開学を「許可」するとしたら、これは大変奇妙なことである。
10月に再審査の結果がでる、とのことだが、なにやら政局が収まるのを待っているのでは、と邪推もしたくなる。
とはいえ、筋論としては選挙の結果に大学の許認可が左右されるなどあってはならないことは言うまでもない。
このあたり、文科省の「説明責任」が問われる所になるだろう。
「ソフィストについて」
ソフィストと聞くと、ソクラテスに論破された「詭弁家」というイメージが強いと思います。
これはプラトンが対話篇において、そのような役割を割り振ったため。日本の高校倫理や欧米でもWWIまでは、そうしたイメージが一般的でした。しかし事はそう単純ではない。
それぞれの国家が「正義」を掲げて大量殺戮を行い、その実態はと言えば帝国主義列強のヘゲモニー闘争だったWWI語、哲学の世界でもプラトンの「真・善・美」のイデア論への懐疑が高まり、ソクラテス以前の言説への関心が前景化する。
これは思想的には真っ向から対立するハイデガーとポパーの両者に共通する。
実際プラトン、アリストテレスは「奴隷制」を自明の前提としていたが、ソフィスト達の多くは「人は皆平等である」として奴隷制を否定。アルキダモスなどはその典型です。
「万物の尺度は人間である」で有名なプロタゴラスはペリクレス派の民主政支持者だったが、ペロポネス戦争後アテネ民主政が崩壊すると追放された。ちなみにプラトンは反「民主政」派である。
また同じくプラトンのテクストで懐疑論者として描かれているゴルギアス。彼は人には普遍妥当的な「正義」の認識は不可能ととしたが、一方合意形成による「正しさ」の共有は不可欠とした。
意外なことに星野智幸の文章が波紋を広げているようだ。
少し確認しておくと、この文章の肝は、
「ずっと社会派を期待され続けて、嫌になったりしないんですか?」
という「友人」の言葉である。
その後はお定まりのリベラル=左派=「正義のカルト」というクリシェ(紋切り型)である。
これは遡れば1983年のコムデギャルソン論争の吉本隆明の主張であり、元新左翼の広告屋達が扇動し、消費社会への批判を「封じる」ために用いたレトリック。
この論理に従えば、男女平等、ジェンダー規範の批判を主張するフェミニズムも当然「正義のカルト」となる。
実際星野が所属する文壇は、日本の数ある空間の中でも、最も「ミゾジニー」が爆発している所でもある。
女性、マイノリティーの小説家も多いのでは、と思われる方もいるかも、だが、「評価の権力」を握っている「批評家」はほぼ日本人男性に牛耳られている。
1980-90年代は柄谷を筆頭としてこの「批評空間」的なもののヘゲモニーは圧倒的だった。浅田彰の口癖は「女の浅智恵」である。
であるから、ここからプロデュースされた東浩紀が消費社会全肯定のネトウヨ大王であるのは、自然の流れである。
このハビトゥスを朝日が政局に利用しているという構図だろう。
自宅で死後1か月以上たって発見 半年で4000人近くに 警察庁
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240829/k10014562701000.html
“警察庁は、ことし1月から6月までの半年間に、全国の警察が遺体の検視や調査を行った10万2965人について、年齢や居住の状況を調べました。
およそ3割にあたる3万7227人が『自宅で発見された1人暮らしの人』で、
このうち年代別では
▽85歳以上が7498人でもっとも多く
▽75歳から79歳が5920人
▽70歳から74歳が5635人
などと、65歳以上の高齢者が全体の7割以上を占めています。”
すごい数だ。。。
その理由はと言えば、ラテン・アメリカの作家達の政治的立ち位置を理解せず、80年代ポストモダニズムの衣装として消費されたことに尽きる。
「魔術的リアリズム」という言葉が独り歩きし、大江や中上に影響を与えたとされるが、これは間違い。単に翻訳から、表面的な技法を少しばかり模倣しただけ。
というのは、ラテンアメリカでは先住民、黒人、白人、支配層(白人)が、実際全く違う「時間」と「空間」で生きており、これを「リアル」に表現しようとすれば「魔術的」になる。
日本の80年代は真逆であり、全てが政治性を消去した消費社会の「凡庸」さに解消された時代である。中上などは民俗学と魔術的リアリズムを混同し、挙句の果てに韓国に民俗学の効用を説教に赴いて、在日の知識人に厳しく批判される始末だった。
ところで、1963年生の星野智之はと言えば、ラテンアメリカ文学の翻訳に携わった野谷文昭の所に出入りしていた筈であるが、やはり結局何も学ばなかったらしい。
正直、兄とも仰ぐ島田雅彦(1961生)に釣られて「誰でも言える」極右批判を少しした所で、島田が極右論壇誌の標的にされ、「恐れをなした」という所ではないか?
島田はと言えばこれも軽佻浮薄を絵に描いた男ではあるが、頭は星野よりはるかにいい(小説家としての才能はないが)。
ガルシア・マルケス『百年の孤独』が文庫化されたことがちょっとした話題になっているようだ。
ガルシア・マルケス(コロンビア)、カルロス・フェンテス(メキシコ)、オクタピオ・パス(メシコ)、マヌエル・プイグ(アルゼンチン)、フリオ・コルタサル(アルゼンチン)、バルガス・リョサ(ペルー)などのラテンアメリカ文学は、1959年のキューバ革命を機にパリで大きくクローズ・アップされ、その余波は日本にも及び、1980年代にはこの世代に先行する、アストゥリアス、ボルヘスなどととも多くの作品が翻訳され、一種の「流行」ともなった。
しかし、これらのラテンアメリカの作家達は、みな米帝国主義に批判的だった。というのも、ラテンアメリカはWWII中に英国の非公式の植民地から米国の非公式の植民地に移行、多くの国では大土地所有者を中心とした少数の支配層と軍部が結託して、USAの現地代官となっていたからだ。後にバルガス・リョサなどは右派に転向したが、ガルシア・マルケスは最後まで左派としてアンガジュマンを続けた。ピノチェトによるクーデター後のチリに潜入した映画作家M.リティンに協力した「戒厳令下チリ潜入記」などは岩波新書に翻訳され、私も高校の時読んだ。
しかし80年代の日本における流行は総じて表層的なものに留まったと言える。
朝日の記事がざわついているが、朝日には炎上をチェックする部門があるのだそうで。
雑誌「地平」9月号で、吉田調書の記事の全文取り消し処分に遭った当該記者2人が寄稿。恐ろしい内実だと思った。
政府からの報道機関へのプレッシャーが強まっていた頃。記事の取り消しは通常、明かなフェイクニュースや剽窃の場合にだけ用いられるそうだ。立て続けに「リスクの高い」記事が同じ時期に3つ出た。吉田調書の記者はそうした状況下で潰された。朝日の社員の中には、取り消し以来挨拶をしても避けがちに返す人がいたり、巻き込まれないように我先に逃げる人がいたり。
その1人宮崎知己記者ふくむ表舞台から立ち退かされたメディア関係者たちが、9/14に話す。
基調講演:長井暁(元NHK-ETV2001番組担当デスク)
報 告:宮崎知己(元朝日新聞「吉田調書」報道担当記者)
コメント:大森淳郎(『ラジオと戦争』著者)
金平茂紀(ジャーナリスト)
白石草(OurPlanet-TV)
司 会:七沢潔 (中央大学法学部客員教授)
申し込み:https://peatix.com/event/4090838/?fbclid=IwY2xjawE7suxleHRuA2FlbQIxMAABHSS6DEpEB9vvmmaMZl5Y-cLfQAkDGS8OuL9ODhEGNPaAhrH5PmS8QHwLng_aem_dOCQxJMfESAb0D_5qg3C2w
確かに欧米の「正義」、パレスチナの子どもをイスラエルがドローン攻撃機(クワッドコプター)で殺す「正義」、沖縄の米軍基地建設の「正義」、こそ批判すべき対象で、それが身の回りの正義のカルト化に矮小化されてしまうのか、というと、やはりでかくて不当で圧倒的な暴力による正義のほうが怖いからだよね。
最近は、「宮崎駿が愛読」などとしての言及されることが多い、
作家・堀田善衞に『広場の孤独』という小説があります。
朝鮮戦争、赤狩りのときの新聞社を題材にしているこの作品で、
堀田は1951年の芥川賞を受賞しています。
新聞社で働く主人公が、
戦争を記事にするときに、米国からの情報をもとに、特定の側を「敵」として報道する、ということをしてしまっていいのか、という疑問をいだくところから話が始まります。
戦後わずか数年、再軍備の話が出始め、アメリカの戦争に荷担していく日本で、
「コミットメントする」ことの意味を考えつづける主人公の物語は、決して過去の話になっていないと思います。
今回、再読してみて、この時点でおきている問題は何も終わっていないし、むしろどんどん解決が難しくなっている・・・と感じました。
国会図書館に登録していれば
ここから読めます。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12481027/1/154
(これで読みにくい場合は、地域の図書館か、最近出ている文庫版などもあるみたいなので、お好きなバージョンで、ぜひ)。
おやおや、星野智幸氏の「朝日」のエッセイに「コメント+」の6人が一斉に賛意を表明している。
ま、これはこういう時に「飼っている」訳だから当然ではあるけれども。
しかし、少しだけ真面目に相手にすると、この人達の言う、「リベラル」=「正義のカルト」とは日本の極右自民政権を批判する人達のこと。
この人達には何の法的強制力もない。であるから、「息苦しく」なったのであれば、離脱すればいいだけのこと。
それに対して現在、「正義」を掲げて暴走している「リベラル」の親玉と言えば、何と言ってもUSAである。
USAの「正義」の観点から「テロリスト」と一旦決めつけられれば、地球上に逃げ場所はない。
パレスティナの人々は「テロリスト」の支持者とされて、一方的に大虐殺されている。女性・子供中心に死者4万人を超え、性暴力はもはや把握不能なまでに吹き荒れている。死者4万と言えば、人口比で言えば日本では300万になる。
また沖縄の人々は日本政府の「法と正義」に組み敷かれたまま。
朝日文化人はみんな「自分」を被害者と見立てているが、立憲民主=リベラル=正義の暴走などと眠たいことを述べ立てる前にまず、この構造を批判すべきだろう。
いやなら別に公論から退けばいいだけこと。ただ、それは「文学」とは何の関係もない。
日本の現存の作家では池澤夏樹(1945生)は、マチネ・ポエティックの福永武彦の息子として、少なくとも「リベラル」としての筋は通している。
先日の東京新聞のエッセイでも沖縄戦に触れて「昭和天皇に戦争責任はある」と断言していた。
これ、歴史的・政治的に見れば当然の結論でしかないが、現在のマス・メディアで、この自明の理を発言できる「作家」がどれだけいるだろうか?
ところで、池澤夏樹は当然文壇内では傍流である。加藤周一さんが亡くなった時も、作家として唯一追悼文を文芸誌に書いたと記憶している。
やはり文壇内で孤立していた石川淳が1987年に死去した際に、「お別れの会」で弔辞を読んだのは中村真一郎、加藤周一、安部公房、丸谷才一、武満徹の5人だった。
この時、当然大江健三郎にも声が掛かったのだが、大江は文壇内の「空気」を読んでこれを断った。このことは中村真一郎さんからも聞いた。加藤さんが「大江君も文壇内の力関係に敏感だから・・・」と嘆いていたのは、こうした背景もある。
しかし何はもとあれ大江健三郎が才能ある作家であること、これは疑いない。しかし、星野某は池澤夏樹と比較しても、教養と見識と言う点でお話にならない。
影響を受けたと称しているガルシア=マルケスを再読(初読)してはどうだろうか?
日本の腐りきった文壇ハビトゥスはそれはそれとして、従来「リベラル」派と見られていたらしい星野智幸が、このタイミングで「立憲民主党」を左派の「正義依存のコミュニティー」と「朝日」でデマを飛ばしていることは、興味深い。
立憲民主がほんとうに「左派」として筋を通していれば、とっくに政権は奪還できていた筈。
ところが、実際は左派どころかリベラルでさえない。(星野氏はリベラルと左派の区別もできないようだが)
そして現在党首選で野田が最有力候補とされている有り様である。現在、維新の広報紙になり下がった「朝日」としては、なんとかして維新と立憲の共闘をサポートしたい。逆に共産との共闘排除は、ある意味財界も含めた日本の支配エリートの総意である。(あと米国も)。
現在の流れだと自民党総裁選を延々とTVで流し、事実上の「選挙広報」とし、総裁決定後に解散総選挙に打って出るのが「合理的」ではある。何故なら、1年後では「結局生活は悪くなり続けた」ということになるから。
とは言え、現在世間では茫漠とした「世直し」ムードが漂っている。そこで万が一にも共産と同盟した政権の誕生は排除しておきたい。
してみれば、星野氏の立憲民主=左派=リベラル=「正義」のカルトという図式は随分タイミングよく飛び出したものだ。
さて、星野智幸という作家の「プチ転向宣言」、ある種のクリシェではあるが、なかなかに味わい深い以下のような深い台詞もある。
「ずっと社会派を期待され続けて、嫌になったりしないんですか?」
これは「ある友人」の言葉で、これを聞いた時、星野氏の「頭は真っ白」になったと云ふ。
これはある意味根が深い問題で、日本の文壇では「社会派」とレッテルを貼られると、「作家」としては「純粋性」が低い、と見られる傾向がある。そもそも「純文学」という概念は日本にしかない。
この圧力は大江健三郎レベルの作家でさえかけられていた。「大江の小説はいいが、エッセイは戦後民主主義的でつまらない」と言われ続けたのである。大江がノーベル賞を取った時、加藤周一さんが「彼にとってよかったじゃないの。」とコメントしたのは、そうした文壇内圧力から「解放されるかも」という意味だった。
こうした旧弊を武田泰淳、埴谷雄高、大岡昇平、堀田善衛などの「戦後文学」は打ち破ろうとしたが、1960年代以降、次第に巻き戻され、1990年に入ると柄谷行人が「日本近代文学の終り」を口にするようになった。
いずれにせよ、現在の「文学」がかつての言説とはまるで別者であることは確か。星野氏の件はゾンビ化した文壇ハビトゥスを白日の下に曝したと言えるかも知れない。
プレゼント機能使いました。有料部分も読めるはずです。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S16019473.html?ptoken=01J68WD5VF7AM5MG6KXY8B2MYX
BTs
件の作家氏、書いていることのナイーブぶりに、若い人なのかと思いきや、1965年生まれで60才近い方でびっくりしました。
文中で例に挙がっている「外国人差別反対」とか「生産性で人を判断するのはダメ」とか、そんなことは人として当たり前の発言ではないでしょうか。
この程度の発言をするだけで、そんなに葛藤があって苦しかったのなら、もともと関心の比重が「正しさ」の追及ではなく、「マジョリティの側にいること」のほうにあるのでは?という感じしかしません。
「個人語」としての「文学」とやらをやることを決めたなら、そこから「消費」され尽くされることのない強靱な言葉を発せられると信じられるなら、どうぞ、そうしてください。
社会的弱者の味方をするという、この程度のマイノリティ性にすら耐えられず、「正義カルトの左翼が悪い」とわら人形をつくって、闘わない言い訳をしながら「マジョリティ」のなかに座り込んで発信し続けようとする人に、そんな強度の文学が達成できるとは私には到底信じられませんが。
「作家」氏がそうやって言い訳と悪口をこね回しているあいだ、
私たちは、少しでもまともな社会をつくるための歩みをそれぞれに進めていくだけです。
作家の星野智幸氏の「立憲民主党も左派の「正義」依存のコミュニティー化しかけている」という「朝日」の文章が話題になっているので、どれどれと覗いてみる。
星野氏は読者を「失望させるのではないか」と心配なされているが、私は一度も「期待」したことがないので、「ああ、やっぱりこういう人だったのね」と自分の偏見を裏書きする結果となった。
しかし、これ、一応「転向」宣言とも読めるが、あまりにもレベルが低い。控えめに言っても悪い意味で「ナイーブ」なクリシェ(紋切り型)でしかない。
しかし、やはり己はかわいいらしく最初だけ「自分は何かに依存していたのではないか」と問うてみせるが、あとは延々と「リベラルは正義に依存し、「個人」を切り捨てている、と東浩紀と同じことを延々を繰り返して、「リベラル」を貶めている。ほとんど「ネトウヨ」話法である。
ところで、星野氏は「文学の言葉」だけが「個人語」、「自分の言葉」だと仰っているが、「作家」の発言とは思われない。
サルトルやデリダを引くまでもなく、言語とは他者を前提として成立する現象である。残念ながら星野氏はサルトルの「文学とは何か」をお読みならなかったようだ。
星野氏が師と仰ぐ柄谷でさえ、この種の「文学主義」は批判していた筈だけれども。
先日、立憲民主の総裁選に関して、不吉な噂を聞いた。
なんと、「あの」野田が最有力だというのだ。野田が党首となると、国民民主・維新との「野党共闘」になるだろう。
現在自民総裁選の名を借りて、マスメディアでは自民党広報をやりたい放題の状態である。
常識的に考えれば、総裁選後すぐに解散総選挙だろう。というのも1年後だと「ボロ」が出まくって、不利になるからだ。
となると、自民VS維新・国民民主・立憲の対決になる可能性が高くなる。
いやはや、こうなると最悪の選択である。そもそも維新が国政与党になりでもしたら、日本社会全体の崩壊は加速するばかりだろう。かといって自民の中では維新の双子ともいうべき清和会系(安倍派)が強い力を有している。
それにしても、永田町関係者達の感覚はあまりにも一般市民からかけ離れている。内輪の談合・権謀術数が彼らの「リアリティ」のほぼ全てなのだろう。
どうも既成の政治システムを前提とした内部改革の道は、ほぼ不可能であることは間違いないようだ。
今日は対談の企画のため、はじめて地平社の事務所に行く。お相手は京大経済学大学院教授の諸富徹さんである。
実は諸富さんとは1990年代の修士・博士時代に帰郷の際、合宿かと思えるような密度で議論をした仲である。
諸富さんはドイツの環境税が専門でもあったので、私の在仏中、ドイツの調査に来られたついでにパリの拙宅に寄ってもらったりもした。
従って、というのも変だけれども、何の準備もしていなかったのだが、お互い何をどの地点から語るかは、だいたいわかっていたので、なんとかなったように思う。
論じられた内容は、
1)先日の史上最大の株価暴落と為替の乱高下
2)社会保障費を財政的に裏付けるためには?その際、周期的に日本で流行するVI論の危うさについても触れられる」
3)岸田政権になって突如原発DXなる方針が打ち出された背景
4)世代間格差と非正規雇用の増大について。非正規は平均ですでに4割。女性に絞ればさらに高い。
また40代、50代女性単身者の20年後、社会が年金・医療の面でどう支えていくか、などなど多岐に渡りました。
おそらく『地平』10月号ないし11月号に掲載されると思うので、乞うご期待です。
BT
このニュースに登場する「専門家」が、明らかに政府・東電寄りの人選で驚きました。
「ジャパン・ネクサス・インテリジェンス」代表の高森雅和氏は、
「プロラグビー選手として活躍後、株式会社電通に入社」
電通時代は「イスラエルを中心としたスタートアップとのビジネス開発に従事」
「2011年から2014年まで、東日本大震災の復興支援を目的に設立した公益財団法人の立ち上げに参画し、福島の復興支援事業の企画と推進」
という経歴。「ジャパン・ネクサス・インテリジェンス」のホームページには、自民党でプレゼンしたことばかり書いてあります。
東大先端研・ROLESのプロジェクトメンバーでもあるようです。
関谷直也氏は、
「「東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」政策・技術調査参事」などを歴任、『風評被害』の著者の「社会学者」。
処理水の問題は、世界中の人たちが反対し不安を訴えているにもかかわらず強行し、問題がないと言い続ける、政府・東電の責任がまず問われるべきです。
確かに偽ニュース自体は問題ですが、
セキュリティや社会学・心理学からのアプローチを強調することで、責任の所在をうやむやにし、「”風評”を言い立てる人」の問題に話をすり替えられてしまわないように、気をつけたいと思います。
QT: https://phalanstere.social/@nhk/113016137810847382 [参照]
哲学・思想史・批判理論/国際関係史
著書
『世界史の中の戦後思想ー自由主義・民主主義・社会主義』(地平社)2024年
『ファシズムと冷戦のはざまで 戦後思想の胎動と形成 1930-1960』(東京大学出版会)2019年
『知識人と社会 J=P.サルトルの政治と実存』岩波書店(2000年)
編著『近代世界システムと新自由主義グローバリズム 資本主義は持続可能か?』(作品社)2014年
編著『移動と革命 ディアスポラたちの世界史』(論創社)2012年
論文「戦争と奴隷制のサピエンス史」(2022年)『世界』10月号
「戦後思想の胎動と誕生1930-1948」(2022年)『世界』11月号
翻訳F.ジェイムソン『サルトルー回帰する唯物論』(論創社)1999年