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自分が自分の他人になること。

《どこへ行っても私がいる。
どこへ行っても他人がいない。畜生。ハンフリー・ボガートめは、うまいことしやがった。
あの人は映画の中でも死ぬことができた。映画の外でも死ぬことができた。地球を二つに割って、その片方に腰かけて、もう一つの片割れがスクリーンの中をゆっくり浮遊するのを見ながら自分で自分の他人になることが出来たんだ……
だが、私は私自身の他人にはなれない。私にはスクリーンがない。
私が映画の中で死ねると思いますか?》――寺山修司「さらば、映画よ」

「さらば、映画よ」は二人の同性愛者の会話からなる戯曲。雑誌『悲劇喜劇』で1961年発表、改稿を経て1968年初演。

1974年、映画『Les Autres』、カンヌ映画祭に出品。監督ユーゴ・サンチャゴの制作ノートによると悪評だったらしい。
1974年、寺山修司脚本・監督の『田園に死す』公開。
1975年、エディンバラ映画祭の「寺山修司特集」にあわせて寺山現地へ。

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シーン44

ヴァンセンヌの森。翌朝。
ヴァレリーが女友達の一人と馬に乗っている。彼女は笑いながら、おしゃべりをしている。一人の若い騎手がギャロップで近づいてきて、急に立ち止まり、彼の馬が荒い息をしているあいだ、ヴァレリーを見つめている。(彼が遠ざかって行く前に、われわれはその人物がマチューに似ていることを認めた)ヴァレリーの友人は笑い出す。――同前

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同じく、スピノザの述懐。
前にも見たが、前後を追加して再掲。

《私があの男たちだったのだ。私が鏡のなかに現れた男だった。私が魔術師だった。私がヴァレリーをたたいた狂人だった。私がヴァレリーのもう一人の愛人、騙された愛人もこの私だった。息子の死後、私は一人の人間から他の人間に変わった。それから、また別の人間に。私の存在は何の意味もなく、すべてが向こうからやってきて、私を奪い去った。とつぜん、私は他人になった。あんたにはこのことがみんな分るはずだ。あんたがその目撃者だったのだ。はみだした男であった私が何を望んだのか、私はしらない。どんな他人が私を待っているのか、私は知らない。ここにいるスピノザ、この私自身も他人なのかどうか、私はしらない。》――同前

「はみだした男」とあり。
これは「les autres」の訳語。映画『レゾートル(Les Autres)』の邦題でもある。

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映画『レゾートル(Les Autres)』の主要人物スピノザの述懐。

《私が子供だった頃、いちどサン・ジュリアンに行ったことがあります。私は迷子になろうとして、一人で砂丘を歩いた。私は砂の中で生まれ、砂の中で死ぬだろうと考えていましたよ。(間)たいへん気分がよかった。だから、これなんだ、これが生きることだ、そして、それは何でもないことだと思っていたのです。(間)今こそ、私はそこへ戻らなくてはいけないんです。》――山崎剛太郎訳

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《パリには、私の好きなホテルがいくつもある。
中でも、かつてヘンリー・ミラーが愛したクリシーの安宿のベッドが印象に残っている。
娼婦と行きずりの男が、一夜だけの愛をかわした記念に、
イニシアルを彫りこんだり、拷問具をくくりつけたり、枕の下に拳銃をかくしたりした、無頼漢の思い出の残るベッド。
そして一人旅の長い夜をもてあまして、とうとう一睡もせずに、
シムノンのメグレ警部ものを読みあかしてしまったベッド。
東洋人の双生児の姉妹が心中した、といういわくつきのベッド。
ベッドの一台ずつに人生のドラマが沁みついている安宿で…》――寺山修司『幻想図書館』

自分の書くものに少なくとも一つ嘘を混ぜ込んでおく。
そういう習慣はどうだろう。
そうしておけば、
資料とか、論理とか、かならずしも本質的でないことに気を使わなくてすむ。

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小説家である私は、長編小説を書くために寺にこもるが、ついに書けずに終わる。――というのが安岡章太郎が自身を題材に書いた『私説聊斎志異』のストーリー。
ということは、私は小説を書き上げたのである。してやったり。一種の壁抜けを安岡はやってみせたのではないか。

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ヘンリー・ミラー『暗い春』の「私」は、自分が何度も死に、何度も生まれ変わったことを肯定的にとらえている。
fedibird.com/@mataji/111167994

それに対し、上で引用した映画『Les Autres』の主人公スピノザの台詞は、この限りでは否定的なものに聞こえるが――
この人物について、ある評者は、
《偽りのアイデンティティー、書物、普段の身振りから抜け出るに従って、また自分に出会うのだ。》
として、次のように言っている。
《スピノザは神秘的で荒々しい輝ける複数の人物、他者(はみだした男)に姿を変える。(……)スピノザがみずから分解してゆくにつれ、彼の眼差しもいきいきとしてくる。そして彼はアルゼンチンの海辺のようなアキテーヌ地方の海辺の風のなか、ピカソが描く以前にクラナッハが描いたような身体を持つ一人の女の傍にいて幸福に近づくのだ。》――アラン・トゥレーヌ「他者たち」(千葉文夫訳、『夜想#16』)

なるほど、この映画も自分を捨てて他者になることを肯定してるわけだ。
で、どうしよう。シナリオの訳文は『夜想』に載ってるし、映画もYouTubeで見られそう。成り行きにまかせてこちらを少し追ってみるか。それとも切り上げるか。

[参照]

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上の引用は、天井桟敷「レミング」の制作と上演について書いたものの一部。
たんに「他者」で済みそうなところを「レゾートル(外部の人)」としてるのが気になって調べてみると、脚本J・L・ボルヘス+A・B・カサーレス、監督ユーゴ・サンチャゴの「Les Autres」という映画があり、エディンバラ映画祭で見て刺激された寺山は、サンチャゴ監督から送ってもらったシナリオに基づいてこの映画を論じたという(『夜想#16 特集・ボルヘス/レゾートル――はみだした男』)。寺山の使った「レゾートル」はこの映画に由来すると見ていい。

映画「Les Autres」の主人公スピノザの台詞。
《息子の死後、私は一人の人間から他の人間に変わった。それから、また別の人間に。私の存在は何の意味もなく、すべてが向こうからやってきて、私を奪い去った。とつぜん、私は他人になった。》――山崎剛太郎訳

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地図の上で私は江戸にいる。暦の上では今は19世紀の半ば。
だが事実を言えば、私は江戸にいるのでもなく、今は江戸時代でもない。
私は女装して、鎌倉時代の鎌倉にいる。
もと江ノ島で年季勤めの稚児あがり。
枕探しにはじまって、見よう見まねの白波さ。

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マルセル・エイメ「壁抜け男」の主人公について、寺山修司の論。

《デュチュールにとって、個人的な内面生活など、どうでもいいことであり、ただ単なるレゾートル(外部の人)として、三級役人の勤めを全うすることだけが、日常の現実だった。
 しかし、彼が「壁抜け男」として他人に認知されたときから、彼の生活の内面化がはじまるのである。壁は、壁として了解されたときから、三級役人デュチュールの中で解釈され始める。そして、とうとうデュチュールは壁を通り抜ける途中で壁の厚さを了解し、能力を失って、壁の内部に閉じこめられてしまうのだ。》――寺山「壁抜け男の神話学」

人は自由な存在である。
どのように自由かといえば、じつは自由ではないのに、自由であると勘違いして、じっさいにも自由を感じたりする存在。
ひとことでいえば、仮想的自由。
さらにいえば、「自由」以前に、すでに「意識」が仮想的。
そういうわけだから、もっと気楽に生きたらいい。

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影が自分の意志で動いているわけではないように、人も自分の意志にしたがって動いているわけではない。
そのことを『荘子』は嘆かない。悲劇とも喜劇とも見なさない。人はそういうものなのである。
人は気ままに生きているわけではない。
何かに動かされているだけの受け身な存在、それが人間。
気まま、自ままな生き方なんて、そんなものはない。
そんなことは人にはできない。
人は自分の判断で動いているのではない。
人は影にすぎない。
で、何の影なのか、何に頼って生きているのか。
『荘子』の影がいうには、
「それがよくわからんのだよ。おれが頼ってる何かも、やっぱり何かの影ではあるまいか。あるいは、ヘビの皮かセミの抜けがらみたいなやつ」

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薄影が影にたずねた。
薄影とは影のまわりのぼんやりした影のこと。
その薄影が影に問うには、
「お前さんはさっきは歩いていたのに今は止まり、さっきは座っていたのに今は立っている。なんと節操のないことか」
すると、影がこたえて、
「おれは何かに頼ってこうしているらしい」
その何かとは人間の身体。人が歩けばその影も歩き、人が止まればその影も止まる。
つまり影は人に依存している。
続けて影はいう。
「おれが頼ってる何かも、また別の何かを頼ってそうしてるらしい。ということは、おれはヘビの皮やセミの抜けがらに頼ってるのか。どうしてそうなるのかも、そうならないのかも知らないが」

罔兩問景曰:「曩子行,今子止﹔曩子坐,今子起。何其无特操與?」
景曰:「吾有待而然者邪?吾所待又有待而然者邪?吾待蛇蚹蜩翼邪?惡識所以然!惡識所以不然!」
ja.wikisource.org/wiki/荘子/齊物論

カネと女ということなら、古代中国の盗跖(とうせき)も同じ。

《盗跖は手下を九千人もひきつれて天下を横行し、諸侯の国々で乱暴をはたらき、家の壁に穴をあけては入口をさぐり、他人の牛馬を追いたて他人の婦女を奪って我がものにしている。物欲にふけっては親戚のことも忘れ…》――『荘子』盗跖篇(金谷治訳注、岩波文庫)

壁を通り抜けるところまで共通!
ということは、壁抜けについて何かを考えるということは、盗賊について考えるのと同じということか。古代中国の大盗から近世イギリスの侠盗、現代日本のルパン三世まで。

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クロード・デュヴァルは美貌を歌われた。
墓碑銘に次のようにあるという。(野尻抱影『英文学裏町話』)

  Here lies Du Vall: Reader, if Male thou art,
  Lock to thy Purse: if female, to thy heart.
  ここに、デュ・ヴァル眠る。読む人よ、おん身男ならば
  財布に御用心、おん身女ならば心に御用心。

人が壁を通り抜けるというマルセル・エイメ「壁抜け男」の発想は中国(の文芸や思想)由来ではないか。この仮説が当ブログの出発点。話はあちこちして、今はロンドン近郊を騒がせた盗賊の物語、どこまで外れたら気が済むのか自分といったところだが、むしろ、意図せずして出発点にもどったようでもある。

デュヴァルはカネと女心を盗んでまわった。
壁抜け男のジュチユールが熱中したのも、夫のいる女との情事と銀行破り。

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フラジオレットを吹く盗賊の絵が残されている。吹き手はクロード・デュヴァルの子分。
出典はこちら
lookatpaintings.co.uk/work/cla

図の全体は、ロンドン郊外でデュヴァルの一団がある老貴族の馬車を襲ったところ。その場から貴族を追い払ったデュヴァルは、馬車から降り立った若い夫人にダンスを申し入れる。
二人はかつてヴェルサイユの宮殿で一度だけ顔をあわせたことがある。デュヴァルは宮廷の小姓として、夫人はさる公爵夫人の腰元として。そのさい気まぐれに交わしたダンスの約束を今ここで果たそうというのである。やがて子分のかなでるフラジオレットに乗って二人は踊りはじめる――というピカレスク・ノベルの一場を絵にしたもの。

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出典を台語版 Wikipedia としたが、早合点。中国語版 Wikipedia の中で、簡体、台湾正体を含む6種から表示字体を選ぶことができる。

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《二十世紀がその絶頂に達して、太陽が腐りかけ、小さな橇に乗った男が「愛の歌」をピッコロで吹いている今日ほどにも、美しい日は私の記憶にない。この今日が私の胸のうちで、あまりに気味悪く光り輝くので、たとえ私がこの世でもっとも悲しい人間だったとしても、この地球を離れたいとは思わないだろう。(…)明日になれば、世界中の都会が崩壊するだろう。そして地上にいる文明人はすべて、毒と鋼鉄のために死に絶える。(…)しかし今日はまだ室内楽や、夢や、幻覚のうちに過ごすことができる。最後の五分間なのだ。》――ヘンリー・ミラー『暗い春』

ミラーのイメージにそぐわないが、とぼけたかったらピッコロ、そんな感じが好みなのか。最後の五分間だし。
そういえば、王宮の庭でピッコロを吹いていて国王と面識を得た盗賊がいたはず。
調べたら名はクロード・デュヴァル、王は17世紀イギリスのチャールズ2世。ただし、楽器の名はフラジオレ。こちらは縦笛で、リコーダーの一種。ピッコロとは別物ということで、記事にする理由がぼけてしまったが、まあ、いいか。

フラジオレット | 武蔵野音楽大学
musashino-music.ac.jp/guide/fa

《東はモンゴルから西はレッドウッドまで、脈は行きつ戻りつしている。玉ねぎが行進し、卵がおしゃべりをし、動物群がコマのように回転している。浜には何マイルもの高さでイクラが層をなし、波が砕けて長いムチを振るう。潮は緑の氷河の下で吠える。地球はますます速く回転する。》――『暗い春』

これもダダ風だが、今はおいて、冒頭の「東はモンゴルから云々」について。
原文は、East toward the Mongols, west toward the redwoods, the pulse swings back and forth.
redwood は一般にはスギやヒノキなどの植物を指すが、ここではカリフォルニア州にあるレッドウッド国立公園の一帯を指す固有名詞と見るのがいい。

レッドウッド国立公園 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/レッドウッド国立

そのうえで、東西の中央に日本を置いた世界地図ではなく、左端にアメリカ大陸を置き右端に日本(東アジア)を置いた世界地図をイメージしてこの一節を読むと、ミラーの世界観が味わえる。世界がその西端から東端にわたるスケールでスイングしてるのである。

同様のことは前にこちらでも書いた。
fedibird.com/@mataji/111344209 [参照]

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