引き続き「中国彷徨」から。
《午後、ラ・フルシュに腰を下ろして、私は静かに自問する、「ここからどこへ行こうか」と。日が暮れる前に、私は月まで行って帰ってきてるかもしれない。ここ、分岐点にすわって、私のすべての自我、どれも不滅であるそれらを私は思い返す。私はビールを飲みながら涙を流す。夜、クリシーに歩いてもどって行くときも気分は同じだ。ラ・フルシュに来るたびに、私の足元から果てのない道が放射状に広がり、私という存在に住みついた無数の自我が歩き出すのが見える。私はそれらの自我と腕を組み合い、かつては私が独りで歩いた道、すなわち生と死の強迫観念に憑かれた道をともに歩く。私はこれら自分が作り出した仲間たちと多くを話す。かりに私が、不運にも一度しか生と死を経験できず、永遠に孤独になってしまったとしたら、自分自身に語りかけることになるだろうほどにである。今、私は決して独りではない。 最悪の場合でも、私は神とともにいる! 》
私は独りではない、今は。
私には無数の自我がある。私が何度も死に、何度も生まれてきたからである。
私はそれらの自我と手を組み合って、かつては独りで恐れつつ歩いた道を、言葉をかわしながら行く。
無数の自我とあるのが、エイメの「サビーヌたち」を思わせる。
上の引用は、天井桟敷「レミング」の制作と上演について書いたものの一部。
たんに「他者」で済みそうなところを「レゾートル(外部の人)」としてるのが気になって調べてみると、脚本J・L・ボルヘス+A・B・カサーレス、監督ユーゴ・サンチャゴの「Les Autres」という映画があり、エディンバラ映画祭で見て刺激された寺山は、サンチャゴ監督から送ってもらったシナリオに基づいてこの映画を論じたという(『夜想#16 特集・ボルヘス/レゾートル――はみだした男』)。寺山の使った「レゾートル」はこの映画に由来すると見ていい。
映画「Les Autres」の主人公スピノザの台詞。
《息子の死後、私は一人の人間から他の人間に変わった。それから、また別の人間に。私の存在は何の意味もなく、すべてが向こうからやってきて、私を奪い去った。とつぜん、私は他人になった。》――山崎剛太郎訳
ヘンリー・ミラー『暗い春』の「私」は、自分が何度も死に、何度も生まれ変わったことを肯定的にとらえている。
https://fedibird.com/@mataji/111167994430031411
それに対し、上で引用した映画『Les Autres』の主人公スピノザの台詞は、この限りでは否定的なものに聞こえるが――
この人物について、ある評者は、
《偽りのアイデンティティー、書物、普段の身振りから抜け出るに従って、また自分に出会うのだ。》
として、次のように言っている。
《スピノザは神秘的で荒々しい輝ける複数の人物、他者(はみだした男)に姿を変える。(……)スピノザがみずから分解してゆくにつれ、彼の眼差しもいきいきとしてくる。そして彼はアルゼンチンの海辺のようなアキテーヌ地方の海辺の風のなか、ピカソが描く以前にクラナッハが描いたような身体を持つ一人の女の傍にいて幸福に近づくのだ。》――アラン・トゥレーヌ「他者たち」(千葉文夫訳、『夜想#16』)
なるほど、この映画も自分を捨てて他者になることを肯定してるわけだ。
で、どうしよう。シナリオの訳文は『夜想』に載ってるし、映画もYouTubeで見られそう。成り行きにまかせてこちらを少し追ってみるか。それとも切り上げるか。
同じく、スピノザの述懐。
前にも見たが、前後を追加して再掲。
《私があの男たちだったのだ。私が鏡のなかに現れた男だった。私が魔術師だった。私がヴァレリーをたたいた狂人だった。私がヴァレリーのもう一人の愛人、騙された愛人もこの私だった。息子の死後、私は一人の人間から他の人間に変わった。それから、また別の人間に。私の存在は何の意味もなく、すべてが向こうからやってきて、私を奪い去った。とつぜん、私は他人になった。あんたにはこのことがみんな分るはずだ。あんたがその目撃者だったのだ。はみだした男であった私が何を望んだのか、私はしらない。どんな他人が私を待っているのか、私は知らない。ここにいるスピノザ、この私自身も他人なのかどうか、私はしらない。》――同前
「はみだした男」とあり。
これは「les autres」の訳語。映画『レゾートル(Les Autres)』の邦題でもある。
シーン44
ヴァンセンヌの森。翌朝。
ヴァレリーが女友達の一人と馬に乗っている。彼女は笑いながら、おしゃべりをしている。一人の若い騎手がギャロップで近づいてきて、急に立ち止まり、彼の馬が荒い息をしているあいだ、ヴァレリーを見つめている。(彼が遠ざかって行く前に、われわれはその人物がマチューに似ていることを認めた)ヴァレリーの友人は笑い出す。――同前
#レゾートル