アポリネールの「オノレ・シュブラックの失踪」を読んで、人間が壁に溶け込む? そんなことがあるものか――と怒りだす人は少ないだろう。マルセル・エイメの「壁抜け男」を読んで、そんな馬鹿な!――と驚く人もまれだろう。
どちらもお話としてはあり。
問題は、人が壁を通り抜けるというようなことは、誰でも考えつくことなのか。
もし誰もが考えつくことなら、世にはもっとたくさん、もっと多様な壁抜け譚があっていいのではないか。たとえば推理小説における密室物のように。
事実は逆で、壁抜け譚は文芸の希少例。むしろ、かつてどこかで誰かが一度だけ考えついたことが、ときおり再浮上してくるだけではないか。
そんなことを思ったのは、去年のはじめころ、安岡章太郎の小説『私説聊齋志異』を読んで、清の時代に編まれた怪異集『聊齋志異』に壁抜けの話があるのを知ってから。
壁抜け譚は中国で生まれたのではないか。――当アカウント「壁抜随筆」は、その仮説を出発点として、ただし気ままに脱線しつつ考えてみようとするものです。
アポリネール「オノレ・シュブラックの失踪」粗筋。
オノレ・シュブラックが擬態の能力に目覚めたのは25歳のとき、恋人の部屋で。
二人が裸でいるところに、恋人の夫がピストルを手に現れる。
シュブラックは怖さのあまり、壁に溶け込んで姿を消したいと願う。すると、その願いどおりのことが起きて、シュブラックの身体は壁紙の色に変わり、手足はおどろくほどに延び広がって壁と合体してしまう。擬態が起こったのである。
間男の姿を見失った夫は、妻の頭に銃弾6発をすべて撃ち込んで部屋を出ていく。
以来、シュブラックは夏も冬も素肌の上に簡素な衣類を引っかけただけで過ごし、いざとなればそれを脱ぎ捨て、壁に擬態して夫の追跡を逃れてきたが、ついにある日、自分が溶け込んだ壁に向かって6発の銃弾を撃ち込まれてしまう。
6発のうち3発は、人間の心臓の高さとおぼしきところを撃ち抜き、残りの3発は、ぼんやり顔の輪郭が見分けられるあたりの壁に当たっていた。以後、シュブラックの姿を見たものはいない。
自分の能力の使いみちに目覚めたデュチユールは、手はじめに大銀行の金庫に忍び込み、ポケットに紙幣を詰め込んで立ち去る。現場の壁に赤いチョークで残された「狼男」の署名。
銀行、宝石店、富豪邸で繰り返される盗み。わざと捕らえられて入った刑務所からの脱出。有名なダイヤモンドが盗まれたり、中央銀行が破られたため、内務大臣が解任され、巻き添えで登記庁の長官も馘首。
女性運も訪れる。
嫉妬深い夫に監視されている美女との出会い。夜が更けるの忘れて愛し合う二人。
繰り返されるランデブー。そしてある朝の帰り道、壁を抜けようとしてふと感じる抵抗感。壁は急速に粘りを増し、彼は壁に閉じ込められてしまう。アスピリンと思い込んで飲んだ薬が、以前に医師から処方された薬だったことにデュチユールは思い当たる。その薬が過労に効いて、壁を通り抜ける能力が消えてしまったのだった。
デュチユールは生きている。彼の消えた現場を夜更けて通りかかるなら、人は吹きすさぶ風音のようなものを聞くことがあるだろう。それは輝かしい人生の終わりを嘆き、短かすぎた恋を悔しがる狼男デュチユールの泣き声なのである。
[粗筋おわり]