寺山修司の作中人物による虚実の混同。
《ごらんの通り、私は写真屋。他人の顔をあずかるのを商売にしております。
蛇が衣を脱ぐように、人は誰でも顔を脱ぐ……いささか古くなった顔、得意の顔、世をしのぶ仮の顔、仮面。古道具屋でも扱わぬ顔の数々……それを、こうやって(と、シャッターを引くしぐさで)素早く外してやるのが近代写真術のはじまりというわけだ。》――寺山『青ひげ』5 写真屋は顔を盗むのが商売
《おまえ! 腕時計なんかして!(と、逃げようとする山太郎の手をおさえつけて)やっぱり、同じ時間だ。おまえ、家の時間を、ぬすみ出して外へもっていこうなんて悪い事を!(と、忌々しげに)何て悪い事を……時間はこうやって柱時計におさめて、家のまん中においとかなくちゃいけないんだよ。》――寺山『邪宗門』2 ほろほろ鳥
顔をあずかる、顔を盗むとは、物としての顔とそのイメージを混同したゆえの認識。一般化していえば、虚実の混同。
時計と時間の関係も同じ。ここでは、時計が実で時間が虚。時計は物として持ち運べるが、時間は手でさわったり持ち運んだりできない。
寺山は議論や論文でも虚実を混同させる。
その場合、混同は意図的。ただし、寺山の本性でもあるだろう。