Contes magiques (1925) のテキスト
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laloy_pousounglin_contes.doc
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19世紀末から20世紀にかけて『聊斎志異』の翻訳が進んだのがわかる。
仏語訳リストの最初にある Le Poirier planté (1880) は、原題「種梨」の訳。「種梨」は、道に植えた梨の種から見る間に幹が伸びて、たわわに実った梨を道士は人々にわけてあげました、という日本でも知られた「魔法の梨の木」のオリジナル。
次の Contes chinois (1884) は、『聊斎志異』から25話を選んで1冊としたもの。この25話に「労山道士」は含まれていない。
3番めの Contes magiques (1925) は、20話を選んで訳出。「労山道士」が L'ERMITE DU MONT LAO の題で収められている。仏語版 Wikipedia のリンク先に訳文あり。
フランス語版 Wikipedia に『聊斎志異』の仏語訳リストあり。以下は最初期の3件。
・« Le Poirier planté », traduit par Camille Imbault-Huart, dans le Journal asiatique, août-septembre 1880, p. 281-284 [traduction du conte « Zhong li » 種梨]
・Tcheng-Ki-Tong. Contes chinois, Calmann-Lévy, 1884 [25 contes adaptés en français]
・Contes magiques, d'après l'ancien texte chinois de P'ou Song-Lin (l'Immortel en exil), traduit par Louis Laloy, Piazza, 1925 [20 contes]; réédition, P'ou Song-Ling, Contes étranges du cabinet Leao, traduit par Louis Laloy, Le Calligraphe, 1985
『私説聊斎志異』で言及されている『聊斎志異』の小話のうち、「労山道士」は最後のもの。次のような述懐があって、『私説――』もまもなく終わる。
《何はともあれ、私もまた家には帰らなければならない。そして帰れば私も「労山道士」の男と同様、女房から二箇月間を家の外で空費してきたことを責め立てられ、何等得るところのない才能をあなどられるであろう。うかつに、壁抜けの術を会得したなどとツマらぬことを自慢しても、得るところは額のコブぐらいでしかない。》
仙術にあこがれた王の山ごもりと、小説を書こうとした「私」の寺ごもりの期間がともに二カ月であることを作者は承知している。たまたまの一致というより、王の期間にあわせて「私」の寺ごもりが設定されたと見たい。
王は壁抜けに失敗し、作中の小説家は小説を書けずに終わる。ここでは壁は小説の喩えである。一方、現実の小説家である安岡は『私説聊斎志異』を書き上げる。
とはいえ、『私説聊斎志異』は私小説ではないだろう。少なくとも、自身の現実を材料にはしていても、それをありのままに書いて売り物にするといった態のものではない。
「私」が小説を書くために寺にこもったとあるのも、安岡側の事実かは不明。その実否よりも、寺にこもった期間が2カ月とされているのがおもしろい。この期間は、『聊斎志異』の一話「労山道士」で王という人物が山にこもった時間に相当する。
若いころから仙術にあこがれていた王は、労山に仙人をたずねて弟子入りするが、山に薪取りに行かされるばかりで、いつまでたっても術を教えてもらえない。とうとうねをあげて労山を退去することになるが、この修行期間が2カ月なのである。
去るにあたって王は、数百里の道をやってきて何ひとつ覚えられずに終わるのは悔しい、せめて一番簡単な術でいいから何か教えてもらえないかと仙人に頼む。仙人は承知して壁抜けの術を王に授けるが、帰宅した王が人々の前で術を披露しようとしたところ、壁にぶち当たって王は昏倒――というのがこの一話の結末。
安岡章太郎の小説『私説聊斎志異』は1973年秋から翌春にかけて週刊誌『朝日ジャーナル』に連載された。
作中の実時間は、連載期間より1〜2年さかのぼった時期の2カ月余りで、その間、語り手の「私」は長編小説を書くべく京都の寺にこもっているが、筆は進まず、市中を歩き回ったり、大阪に友人をたずねたりする。
「私」の年齢設定は51歳。
著者の安岡章太郎は1920年生まれだから、これは著者の年齢でもある。
51歳という年齢は、『聊斎志異』の作者・蒲松齢にも重なる。
蒲松齢は科挙の予備試験である県試、府試、院試の三試験にいずれも首席で合格したが、19歳で受けた本試験の第一段階である郷試に失敗すると、その後、ついに第一段階を突破できず、51歳で受けた郷試の落第を最後に、ようやく受験をあきらめたとされる。
安岡あるいは「私」は、3年にわたった自身の受験浪人の体験から蒲松齢の30年余りにわたる不合格体験に思いを馳せ、また51歳という時点においても蒲松齢を鏡にみずからを映してみる。そのように自身と蒲松齢を重ねあわせる中で、自身の過去や交友関係を振り返り、『聊斎志異』の怪異譚と作者について考えをめぐらしたのが『私説聊斎志異』である。
アポリネールの「オノレ・シュブラックの失踪」を読んで、人間が壁に溶け込む? そんなことがあるものか――と怒りだす人は少ないだろう。マルセル・エイメの「壁抜け男」を読んで、そんな馬鹿な!――と驚く人もまれだろう。
どちらもお話としてはあり。
問題は、人が壁を通り抜けるというようなことは、誰でも考えつくことなのか。
もし誰もが考えつくことなら、世にはもっとたくさん、もっと多様な壁抜け譚があっていいのではないか。たとえば推理小説における密室物のように。
事実は逆で、壁抜け譚は文芸の希少例。むしろ、かつてどこかで誰かが一度だけ考えついたことが、ときおり再浮上してくるだけではないか。
そんなことを思ったのは、去年のはじめころ、安岡章太郎の小説『私説聊齋志異』を読んで、清の時代に編まれた怪異集『聊齋志異』に壁抜けの話があるのを知ってから。
壁抜け譚は中国で生まれたのではないか。――当アカウント「壁抜随筆」は、その仮説を出発点として、ただし気ままに脱線しつつ考えてみようとするものです。
アポリネール「オノレ・シュブラックの失踪」粗筋。
オノレ・シュブラックが擬態の能力に目覚めたのは25歳のとき、恋人の部屋で。
二人が裸でいるところに、恋人の夫がピストルを手に現れる。
シュブラックは怖さのあまり、壁に溶け込んで姿を消したいと願う。すると、その願いどおりのことが起きて、シュブラックの身体は壁紙の色に変わり、手足はおどろくほどに延び広がって壁と合体してしまう。擬態が起こったのである。
間男の姿を見失った夫は、妻の頭に銃弾6発をすべて撃ち込んで部屋を出ていく。
以来、シュブラックは夏も冬も素肌の上に簡素な衣類を引っかけただけで過ごし、いざとなればそれを脱ぎ捨て、壁に擬態して夫の追跡を逃れてきたが、ついにある日、自分が溶け込んだ壁に向かって6発の銃弾を撃ち込まれてしまう。
6発のうち3発は、人間の心臓の高さとおぼしきところを撃ち抜き、残りの3発は、ぼんやり顔の輪郭が見分けられるあたりの壁に当たっていた。以後、シュブラックの姿を見たものはいない。
自分の能力の使いみちに目覚めたデュチユールは、手はじめに大銀行の金庫に忍び込み、ポケットに紙幣を詰め込んで立ち去る。現場の壁に赤いチョークで残された「狼男」の署名。
銀行、宝石店、富豪邸で繰り返される盗み。わざと捕らえられて入った刑務所からの脱出。有名なダイヤモンドが盗まれたり、中央銀行が破られたため、内務大臣が解任され、巻き添えで登記庁の長官も馘首。
女性運も訪れる。
嫉妬深い夫に監視されている美女との出会い。夜が更けるの忘れて愛し合う二人。
繰り返されるランデブー。そしてある朝の帰り道、壁を抜けようとしてふと感じる抵抗感。壁は急速に粘りを増し、彼は壁に閉じ込められてしまう。アスピリンと思い込んで飲んだ薬が、以前に医師から処方された薬だったことにデュチユールは思い当たる。その薬が過労に効いて、壁を通り抜ける能力が消えてしまったのだった。
デュチユールは生きている。彼の消えた現場を夜更けて通りかかるなら、人は吹きすさぶ風音のようなものを聞くことがあるだろう。それは輝かしい人生の終わりを嘆き、短かすぎた恋を悔しがる狼男デュチユールの泣き声なのである。
[粗筋おわり]