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私はずっと母の愚痴を聞いて育った。「お父さんは◯◯で本当嫌だわ。一緒にいるのも嫌っ。一緒のお墓に入るのも、来世でまた夫婦になるのも絶対嫌っ」。

ならば離婚すればいいのにと思ったが、この世代の価値観では離婚というのはとても抵抗のあること。「しょうがない」という諦めの気持ちで、ひたすら我慢していた。だが、その我慢は母の体をじわじわ蝕んでいた。そして、あるとき突然「末期の癌です。もう手遅れです」と宣告され、1年たたずに他界した。

母はどんな気持ちだったのだろう。少なくとも上沼恵美子さんのような気持ちとは違っていたと思う。「今の人はいいよね。離婚できるんだから…」。母が何気なくいった言葉。きっとそれが本心だったのではないかと思っている。

上沼恵美子さんは「金星が魚座」にある方だから、夫がどんなに甲斐性なくても、「育つのを待ってあげよう」とする慈愛を持っているのかもしれない。だが、そんな崇高な愛は一対一の対等関係では虚しい。

夫婦とはまず何より「一対一の人間と人間の対等関係」。慈愛というのは親が子供に向けるような「上下関係の愛」であって、その前に対等の関係を築くのが先だと思っている。

【団塊世代の夫婦】

上沼恵美子さんのインタビュー記事を読みながら、母のことをいろいろ考えてしまった。

●上沼恵美子「イタリア旅行で離婚を切り出して8年、別居6年でも別れない理由。私が買ったマンションで暮らす夫への気待ち」
fujinkoron.jp/articles/-/11564

同じ男として見ても、あるいは同じ大人として見ても、「どうして団塊世代の男はこんなにも幼稚なんだろう?」と思わずにいられない。「男とはっ!」と偉そうなことばかり言うくせに、いざとなったら自分が一番に逃げ出す。プライドというのは実力が伴って初めて表現できるものなのに、その実力を磨く努力をしない。

組織に寄りかかり、権威に寄りかかり、強者に寄りかかり、母親に寄りかかる。そのどれもが自分自身で築いたものではない―というのに。

私の父も典型的な団塊世代の男。その偉そうに振る舞う姿と、ぜんぜん実力のない姿を見ていると、10代の若者を見ているような気分になる。そういう「甲斐性のない石原裕次郎(上沼さんの言葉に倣えば)」を、団塊世代の女性たちは懸命に支えていたのだろうか…。

【認識される客体意識(6) -メモ-】

獅子座(5)を認識する主体意識、乙女座(6)を認識される客体意識―としてまとめてきたが、その具体的な内容を「視覚(見る・見られる)」に制限して考えてしまっていた。構造的に考えれば、獅子座(5)は下位の牡羊座(1)~蟹座(4)まですべてを含むものだから、認識する対象は当然「行動・感覚・思考・感情」すべてを含むはずだ。

つまり、獅子座(5)の反映としての乙女座(6)が表す客体とは、動くもの(行動)・感じ捉えるもの(感覚)・言葉(思考)・感じるもの(感情)―すべてが含まれるはず。それは相手の言動・態度振る舞い・醸し出す雰囲気・そばにいて感じる情緒など。

視野空間としてのPOV視点(視覚)ばかり考えていたから、この点がすっぽり抜け落ちていた。

そう考えると、乙女座(6)の「認識される客体世界」というのが、モノとしての対象物だけでなく、人の「態度・行動・振る舞い・雰囲気」など、すべての感覚で捉えられる情報を含む世界だと理解できる。

※五感だけでなく、直感・心の動きなど第六感的なものまでも含む

同じ空間・同じ出来事・同じ体験を共有していても、主体世界(自己としての主観意識)というのが自他でまったく異なることがわかるだろう。

本当の意味で相手(他者)を理解したかったら、相手が心の中で感じている主体認識(相手の考え・相手の想い)を、相手自身の言葉(一人語り)で語ってもらうしかない。

では、このそれぞれ自分の一人称語りをお互い見せあい(語り合い)、1つに統合するとどうなるのか?どういった表現形式になるのか?それは可能なのか?

まだよく分からない。

マンガ「こちら、あたためますか?」を参考にこのことを考えてみる。この作品は1つの出来事(コンビニでのふれあい)を、男性側の視点と女性側の視点の両方から描いている。

コンビニで店員さん(男性)とお客さん(女性)がふれあった―その1つの出来事の中に、実は2つの世界が存在していると。獅子座(5)としての主体認識(自分の考え・想い)を意識しながら読むと、その内容はそれぞれ「男性の心の声(一人語り)」&「女性の心の声(一人語り)」として表現されている部分にあたる。

●男性側の世界(心の声=一人語り)
「単調な生活。刺激もなく、心ときめくようなこともなく、つまらない俺の毎日。これが俺の人生なのかな…。いや、何か良いことがあってもいいじゃないか。希望を持てるような何かがあったって…」

manga.line.me/book/viewer?id=B

●女性側の世界(心の声=一人語り)
「女だからってナメないでよ。一生懸命頑張ってるのよ。憐れみなんてやめてよ…。心が荒んでいく自分さえも嫌いになっちゃいそう。ふぅ…。いや、頑張れ私。前向きに生きよう!」

manga.line.me/book/viewer?id=B

私たちが自分(獅子座:5)というのを意識するとき、必ず一人称的な語りが生まれる。

・私は~と感じた
・私は~と思った
・僕は~と考えた

アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」で主人公のキョンが一人語りするように、アニメ「エヴァンゲリオン」で主人公のシンジが心の葛藤を叫ぶように、それはどこまでも個人的な内容(世界)で、他人がそれを知ることはできない。

2人の人間(わたしとあなた)が相対しているときでさえ、それぞれの心の内面(主観世界)はまったく異なっている。

前回の記事では、父親から見た視点(POV)と娘から見た視点(POV)を取り上げたが、そこで感じているそれぞれの主観世界(思考・感情といった心の声)は表現されていない。それは映像化と相性が悪く(※1)、あくまで「言葉(一人称の語り)」として語られて初めて表現される。

※ 獅子座(5)の主観世界は目には見えないということ。

【認識する主体(獅子座:5)と一人称語り】

私たちが普段見ている世界はPOV的な一人称視点の世界だ―このことをもう少し詳しく説明してみたい。POV的な視野空間を目にした時、その目の前に広がる世界だけを思ってしまうかもしれない。しかし、実際にはここには2つの世界(意識)が存在している。

・客体として目の前に広がる世界(乙女座:6)
※テレビ・映画・PC画面のようなスクリーンみたいなもの

・主体としてそれを思考・感情として認識している意識(獅子座:5)

客体世界(意識)はモノとして現れるので捉えやすいが、主体世界(意識)は自分の思考・感情として現れるので目には見えない。目には見えないが、自分が考える内容・感じる内容として実感される。この実感のことを自己認識と呼んでいる。

この主体認識は、小説の技法としては「一人称語り(心の声)」として表現される。「わたしは~と思っている」、「わたしは~と考えた」など。

つまり、獅子座(5)乙女座(6)のレベルにおいては、目の前に現れる客体世界と、それを自分がどう感じたか、どう考えたかという主観世界の2つだけがある。それを視野空間として表されたのが一人称的なPOV視点だということ。

【訂正】

それはこの2つ並べた映像が、私たちがドラマや映画などで見る「客観視点の映像」によく似ていることだ。

それはこの2つ並べた映像が、私たちがドラマや映画などで見る「客観視点の映像(3人称視点の映像)」によく似ていることだ。

そうすることによって、客観世界(客観的視点・客観的意識・メタ視点)というものが発生するのではないだろうか。

自己側の客体世界(乙女座:6)+他者側の客体世界(乙女座:6)= 自他一体化した客観世界(蠍座:8)

※ では、自己側と他者側の主体世界(獅子座としての認識する主体)が統合されるとどうなるのか?については、まだ考え中。

自己側の主体世界(獅子座:5)+他者側の主体世界(獅子座:5)=????な世界(天秤座:7)

それが以下の動画。この動画では父親の一人称視点と娘の一人称視点を時間軸をあわせて並べている。自己と他者の一人称視点の統合(あくまで目の前に映る客体としての映像)をイメージしたものだが、単純に客体世界だけを並べて見ると、ある特徴に気づく。

●一人称視点の統合
drive.google.com/file/d/1OSyjp

それはこの2つ並べた映像が、私たちがドラマや映画などで見る「客観視点の映像」によく似ていることだ。父親・娘という登場人物がどちらも客体としての姿として現れ、しかもお互いの映像が相手の足りない情報(主観視点では表現しきれていない部分)を補っている。

客観視点というものは、視点を外部に持っていくことでイメージされる「神の視点(外在視点)」なわけだが、それを作り出す原初となるものが「自己側の一人称視点」と「他者の一人称視点」の統合にある―ということ。

これは意識作用としては、父親が自分の客体世界(乙女座:6)を理解し、そこからさらに娘の客体世界(乙女座:6)を理解しようとすること。娘が自分の客体世界(乙女座:6)を理解し、そこからさらに父親の客体世界(乙女座:6)を理解しようとすること。そして、お互いに「自分と相手の客体世界を1つに統合してみよう」とすることを意味している。

●娘の一人称視点
drive.google.com/file/d/1FPRw5

目の前に映るのは(客体としての)父親の姿なのに、そこから感じれるのは娘の様々な想いだということ。

自分自身の姿は見えなくても(存在しなくても)、自分自身が感じている想い・考えはしっかりそこに存在している。自己意識として現れる主体認識(獅子座:5)はそういう姿なきものだということ。

獅子座(5)乙女座(6)レベルにおいては、自己と他者は別領域に独立して存在している。だから、お互い相手の主観世界(そこで相手が感じている想い・考え)が理解できず、誤解する。

天秤座(7)蠍座(8)レベルに移ると、この自己と他者の別領域を統合しようという意識が生まれてくる。ここではまず、自己側と他者側の客体世界(乙女座としての認識される客体)が統合されるとどうなるか?について考えてみる。

【客観視点の原初】

私たちが普段見ている世界はエルンスト・マッハの自画像に示されるような、POV視点の世界だ。一人称視点と呼ばれるこの世界には、自分の姿は存在しない。あるのは「考え・想い」といった主観的な心。この主観的な心は(獅子座としての認識する主体)、前の前に映る(現れる)客体(乙女座としての認識される客体)を通して、それに対する反応として現れる。

どちらも非常に個人的なもので、その内容は人それぞれみな違っている。恋人同士で同じ景色を見ても、それに対する印象はそれぞれ違っているように。

以前あったトヨタのCMを使って説明してみよう。この動画は父と娘のそれぞれの視点をPOV的手法を使って表現している。一人称視点なので、自分の姿は見えない。客体として目の前に映る景色にはそれぞれ相手の姿がある。

父は娘の姿を見て、娘は父親の姿を見る。動画をじっくり見ていて感じるのは、相手の姿(その言動)を通して、自分自身の心情がじわじわにじみ出てくること。

●父親の一人称視点
drive.google.com/file/d/1Ji4y9

目の前に映るのは(客体としての)娘の姿なのに、そこから感じられるのは父親の様々な想いだということ。

ちなみに、エンディング曲を涼宮ハルヒの憂鬱の長門有希役、茅原実里さんに歌わせるのは「ずるい!」と思った(笑)。アニメ好きならそこにある意図が嫌でも分かる。

人間ではない対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースである彼女なら、同じく感情を失ったバイオレットと共鳴しあうだろうと。エンディングで茅原さんの歌声が流れてきた瞬間、「涼宮ハルヒの消失」でのラストシーン、「長門有希ちゃんの消失」での愛を知るシーンが、脳内にばーっと浮かんできてしまった。

とっても心憎い演出だった。

自分の正直な想いを、素直に、相手に伝える。
相手の正直な想いを、素直に、自分で受けとめる。

なぜかその時、人はポジティブな方向へ変容する。これは誰もが実体験として知っている真実だろう。それはなぜなのか?そこにどんな構造的仕組みがあるのか?

私はそれ(自我・他我の変容の仕組み)を執拗に追っている。ここにこそ、人が他者を求める本質、愛を求める本質、セックスを求める本質があると思っているから。

・「わたし(自己)」と「あなた(他者)」に分かれている理由
・「あなた(他者)とつながりたい」と欲する理由
・性欲・愛という形で無意識的本能として与えられている理由

人は愛(他者を想うこと・他者に自分を想ってもらうこと)なしに生きられない。食欲や睡眠欲と同じくらい、根源的な欲求と言える。その謎をどうしても解きたいのだ―。

6話では、母の失踪によって女性不信・生きる勇気を失ったリオンが、ヴァイオレットとの真摯な対話を通して、新たな希望を見出す。

「私にとってあの方の存在はまるで世界そのもので、それがなくなるくらいなら、私が死んだ方がいいのです」

「それじゃあまるで、まるで…、そうか!お前そいつのことを愛して…」

「でも、今決めた。俺もおまえと同じように大陸中を回る。危険な目にあうかもしれない、命を落とすかもしれない。でも、俺はその道を選ぼうと思う。

閉じ込められていた扉のむこうに、歩き出す勇気を、彼女がくれたのだから…」

drive.google.com/file/d/1jFmxD

4話では、過去の失恋の傷を無神経に逆撫でる母親に対して、怒りをぶつけるアイリスが、ヴァイオレットとの真摯な対話を通して考えを改める。

「愛してるは、とても勇気のいる言葉なのですね…。受け入れられないとそこにいたくなくなるくらいに。あの時の少佐も、そうだったのでしょうか…」

「この子のいう少佐が、軍隊しか知らないこの子に愛を与えたのだと。そして、この子はそれが何かを一生懸命探している。この子なりに…」

愛という気持ちの大切さに改めて気づき、母親に対してしっかり向き合おうと手紙を書く。素直な、正直な気持ちで。それによって母と娘は理解しあい、思いやりあい、その絆を強くする。

drive.google.com/file/d/1Qi-XI

【他者との真なる対話とその結果】

アニメ「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を見た。まだ途中までだが、とても素晴らしい作品だと思った。

このアニメは、幼い頃から戦場に置かれ、感情を育むことを忘れた少女がそれを取り戻すまでの物語―といったものだろう。ただ、その描き方が「他者との真なる対話を通して」としているところが素晴らしい。ドールという仕事を通して、相手の本当の気持ちを理解しようとする。しかもそれだけではなく、ヴァイオレット自身の本当の気持ちをも相手に伝える。

・ 自己から他者へ
・ 他者から自己へ

真なる対話とは、それぞれの「本当の自分」を嘘偽りなく、正直に、真摯に、相手に伝えること。そして、お互いを受け入れあうこと。

そこにはひねくれもなく、天邪鬼もなく、ただただ素直にすべてを裸にして、お互いをさらけ出しあう。受け入れあう。

そういう真なる対話(他者と真摯に向き合うこと)をするとどうなるか―?このアニメはその結果を上手に描いている。

「自我の変容(ポジティブな変容)」という形で。

ドラマでは、この「客観的記録映像」を持ち出して、「自分が正しい!お前が間違っている!」などと言い争うが、それで本当に相手のこと(相手の記憶=印象)を理解できたのか?自分のこと(自分の記憶=印象)を理解してもらえたのか?

妻がどんな気持ちで浮気していたのかなんて、いっときの笑顔で理解できるものではない。そこに至る経緯、そこに至る葛藤、妻なりの複雑な想いを重ねて、それに至っている。

そういう妻が生きている世界観そのものを知らないと、結局はドラマで描かれたような結末になってしまう。

客観的記録ではなく、その人の主観的記憶を。

例えば、昨日のことを振り返ってみてほしい。朝起きてから、夜寝るまでのことを、目をつぶりながら思い出してみよう。そこで思い出されるのは、「このシーンとあのシーン、こんなところと、あんな出来事と…」と、場面場面の印象の集まりであることに気づくだろう。

※あくまで視覚に絞った話。本当はこれらに加えて、他の感覚器官でとらえた情報(印象)、自分で感じたストーリー性(出来事という物語性)などを組み合わせている。

つまり、このドラマで描かれているような録画映像は「記録」であって、「記憶」(その人個人の主観的印象を含むもの)ではないということ。

自分が感じた印象(記憶)は、こういう形では他者と共有できない。そのことをブログ記事の著者は「テキストとコンテキストの違い」として書かれている。

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