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ルマーン・アラム『終わらない週末(原題:Leave the World Behind)』のNetflix映画化、ファーストルックがもう出てた〜!
ジュリア・ロバーツ主演とはすでに本の帯にも書いてあったが、共演にマハーシャラ・アリとイーサン・ホーク!
原作は昨年読んだ中で、ある意味では一番怖かった小説だった(ホラーではないです)。

『終わらない週末』は、どんな事態が起きているのか明かされないのに、ものすごく怖い。
終末が訪れたのかすらも分からない不安の中で、普段は取り繕ってキレイに隠しているつもりの無自覚な偏見や嘲りや自己愛がボロボロこぼれ出てゆく。
この他者への無理解や相入れなさの描きぶりがブラックユーモアのようでいて冷徹で、生々しさが強烈だった。

物語が動く序盤のあるシーンでの緊張感は只事ではないが、その恐ろしさの理由は現代でも無くならない人種差別と現実で日々起きている事件が頭を過ぎるためなので、暗澹たる気持ちになる。

連日の雪すかしで筋肉痛がもう限界…というか、もう腕が付け根からもげそう。手を洗うのすら辛くてプルプルしてる。

『文藝』春季号

水上文さんの文芸季評の中で知ったのだけど、昨年ノーベル文学賞を受賞したアニー・エルノーが、フランスで主に男性批評家らから受賞には値しないと批判され「炎上」していたと。

エルノーを「いつも自分にまつわるテーマばかりを扱っている」作家だと批判する人たちが、同じ口でミシェル・ウエルベックを推すのはギャグのつもりなんですか…?

その理由でもってエルノーへ批判を向けながらも、ウエルベック作品の常である、満たされない白人中年男性の悲しみやら苦痛やら欲望やらの屈託と感情を高く評価することには何ら問題を感じないとしたら、それは何故なのか思いを巡らせてほしい…。

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『文藝』春季号

児玉美月さんのエッセイ『クィア映画批評と〈わたし〉を巡るごく個人的な断想』で、2月公開の『エゴイスト』では公式サイドから、「LGBT映画ではなく〜」等の表現を宣伝に使用することこそ「注意が必要な表現」であり「自身の中に偏見がないか見直しましょう」と発信されていると知った!

異性愛以外の関係性における愛を描いた映画作品は、日本ではこれまで判で押したように「普遍的な愛」との宣伝文句が用いられクィアの存在が繰り返し透明化されてきたけれど、今後は正確な言葉で表現するのが当たり前になってほしい。
(児玉さんによると2015年のとある映画では、配給サイドから「セクシュアルマイノリティを指す言葉の使用は禁止」とマスコミへお達しが出ていた(最低だ…)そうなので、変化はしているのだな…)

そして昨年日本でも公開された『ユンヒへ』では、配給・宣伝のトランスフォーマーが、作品へ対する「ヒューマンドラマ」等の表現を「女性同士のラブストーリー」と逐一修正していたそう。

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『文藝』春季号の批評特集、すこぶる面白かった!

瀬戸夏子さんと水上文さんの対談では、2020年の『覚醒するシスターフッド』号の瀬戸さんの論考にあった「薄皮一枚の肯定」についての話もあり、読んだ当時ガツンときた表現だったので、お二人が改めて掘り下げて話すのを聞けてとても嬉しい。

水上さんの『シェイクスピアの妹など生まれはしない』も、本当に今読めて良かった。
自身の裡に深くわだかまる「文学」への信念と閉塞感を書き出す論考が、そうしたジレンマと迸る思考の心象までも視覚的に感じとれるレイアウトになっていることにも唸った。

校正者である牟田都子さんの『文にあたる』を読了。

作者はなぜそう書いたのかを「読む」こと。
その意図を「書かれていること以上に書かれていないことを読もうと意識」して想像をめぐらせ見極める姿勢と、しかし「書くことはもっと自由でいい」と作者を尊重する姿勢。
言葉と作品にここまで真摯な思いを持って誠実に臨んでいる人たちが関わって、「本」が形になっていることを知れる安心感といったら…!

ちょうどこの『文にあたる』を読み終えたすぐ後に、先週のNHK『プロフェッショナル』での校正者・大西寿男さんの回を観たので、大西さんの校正へのひたむきさには余計にこみ上げてきた。
この番組へのSNSでの反響や疑問・議論について牟田都子さんがブログを書いていて、そちらもすごく良かった。

ミシェル・ザウナー『Hマートで泣きながら』

ザウナーが葬儀で話した弔辞について、母がいかに得難く傑出した人であったかを伝えたいがあまりに、逆に母の生き方を軽んじていたと気づくくだりに胸をつかれた。
自分の思う理想像や良しとする在り方とは違うからと、否定や蔑視を向けてはいないか。これは私も本当に常に意識して顧みないと…

【↓207ページ】
“わたしだけが明かすことのできる母の特別な一面をわたしは掘り起こしたかった。母はただの主婦やただの母親にはおさまらない人だったと伝えたかった。夫や子供の存在がなくても、個として特筆に値する人だったと言いたかった。慈しみ愛したい人も稼いで創造したい人も、得られる達成感は同じかもしれないのに、おそらくあのころのわたしはそれをまだ受け入れられず、母がなにより誇りにしたふたつの役割を偉そうに見下していたのだ。”

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他に2022年に読んだエッセイの中で良かった、ミシェル・ザウナーの『Hマートで泣きながら』。

ミックスルーツの娘と韓国人の母の間にわだかまる文化や言語や境遇の違いによる複雑な関係性の中で、母の闘病と看取りを経て、ザウナーが母の生き方を再認識していくまでの道のりを綴る、率直な言葉が素晴らしかった。

私も著者と同じく25歳で親の闘病と看護、そして看取り、葬式や整理の諸々を経験したので、ザウナーの体験や感情と私自身のそれとはもちろん全く違うし共感とは全然別の感覚なのだけど、ザウナーの忘れがたく強烈な記憶の断片が駆け巡るさまを読んでいると、自分の記憶がクッキリした感触を伴って反芻されて苦しく、読了までかなり時間がかかった。

本棚の整理をしがてら、2022年に読んだ中で、小説以外で良かった10冊を選んでみた。

◆白水社編集部編『「その他の外国文学」の翻訳者』
◆奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を』
◆キャロライン・クリアド=ペレス『存在しない女たち』
◆三木那由他『言葉の展望台』
◆高島鈴『布団の中から蜂起せよ』
◆松田青子『自分で名付ける』
◆柚木麻子『とりあえずお湯わかせ』
◆ロビン・ディアンジェロ『ホワイト・フラジリティ 私たちはなぜレイシズムに向き合えないのか?』
◆オルナ・ドーナト『母親になって後悔してる』
◆北村紗衣『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』

『韓国文学の中心にあるもの』や『トランスジェンダー問題』、『優しい地獄』はまだ少しずつ読んでいます…

2023年最初の読書は、モハメド・ムブガル=サール『純粋な人間たち』平野暁人訳(英治出版)でした。

過剰なまでに修辞を凝らした濃密な文体による主人公の独白が、徐々に自己の二分する内面に引き裂かれ、危険なほどの激情に苛まれてゆく中盤以降のドライヴ感に圧倒されて、ラストまで一気に読んだ。

語り手が選択する最後の「決断」からは、このラストをあえて描いた著者の激情も感じて、この物語がフィクションではなく現実世界の写しであることを改めて突きつけられる。広く読まれてほしい小説。

2022年ベスト本に挙げた10冊は順不同だけど、今年一番好きな語りだったのは、ケヴィン・ウィルソン『リリアンと燃える双子の終わらない夏』。

諦観して無気力なようでいて、胸底には割り切れない感情が燻るリリアンの、辛辣で低温なユーモアに満ちた語りが本当に良かった。
世の中の「普通」から外されて傷つけられてきた人間たちの痛みと煌めきが迸ってる。

2022年のマイベスト本、10冊。

◇『リリアンと燃える双子の終わらない夏』ケヴィン・ウィルソン

◇『星のせいにして』エマ・ドナヒュー

◇『血を分けた子ども』オクテイヴィア・E・バトラー

◇『ひとりの双子』ブリット・ベネット

◇『その丘が黄金ならば』C・パム・ジャン

◇『すべての月、すべての年』ルシア・ベルリン

◇『フランキスシュタイン』ジャネット・ウィンターソン

◇『その昔、N市では』マリー・ルイーゼ・カシュニッツ

◇『秘密にしていたこと』セレステ・イング

◇『私の名前はルーシー・バートン』エリザベス・ストラウト

ジャネット・ウィンターソン『フランキスシュタイン ある愛の物語』

メアリー・シェリーが『フランケンシュタイン』を書いた1816年と現代、この2つの時代を基点にして様々な時間軸を行きつ戻りつしながら紡がれてゆく中で、そこへ徐々に創作上の存在が紛れ込んでくるという一見複雑な構成なのに、混乱せずグイグイ読める。

あらゆる二元論を超越していく物語で、その語りが本当に魅力的で大好きだった。
現代における登場人物たちが単なる過去の焼き直しに終わらず、新たな道を進んでいるのが良い。

それとこの『フランキスシュタイン』のように、登場人物の台詞に鉤括弧が付かない書き方の小説は、読みながら思考と発語が渾然一体となって届くような感覚が個人的にはとても好きで、なぜか集中して読める気がする。
今年出た海外文学にもこのスタイルの小説が何冊もあったのだけど、どれもすごく良かった。

クリストファー・ノーランの『オッペンハイマー』、続報が届くたびにしんどさが増す……
そりゃ物語の方向性はまだ分からないけど、CGI使わずに原爆の爆発を再現できた!と嬉々として語ってる時点で無理すぎる。

エマ・ストーネクス『光を灯す男たち』も好きだった。

灯台から忽然と姿を消した3人の灯台守に、何が起きたのか。20年後、彼らの妻や恋人が当時のことを語り始める。
失われた歳月で胸に秘めていたものを、各人がほとんど独白に近い形でじっくりと語るさまが濃密で、人生の輪郭がはっきりと立ち上ってくるのがとても良かった。

残された女性たちには、昔も今も真相は分からぬまま。
ラストのヘレンの独白は悲痛だけれど、彼女たち3人がこれまでの歳月を経て、これまでとは違うお互いへの感情をもって並んで歩き出す兆しにじんわり熱くなる。

年末のミステリランキングの中に文芸作品が入っているのを見ると嬉しくなるのだけど、今年はエルヴェ・ル・テリエ『異常【アノマリー】』がランクインしていた!
エマ・ストーネクス『光を灯す男たち』やアンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を挙げている人もちらほらと。
この3冊は私もすごく好き。

過去にもマイケル・オンダーチェの『戦下の淡き光』や、ユーディト・W・タシュラーの『国語教師』や『誕生日パーティー』がランクインしていて、ミステリーというジャンルを広義的にみて文芸作品が入ってくると嬉しいし、もっと広く読まれてほしいな。

個人的に今年好きだったのは、エリー・グリフィス『窓辺の愛書家』。
女性でインド系イギリス人でレズビアンという、警察組織の中では三重にマイノリティである刑事ハービンダー・カーのシリーズ。彼女の物語をもっと読みたい!

前作『見知らぬ人』も今作も、ハービンダーをはじめ、苦手な相手だとしても意外な面への驚きや素直な受容がさらりと描かれていて、好意とは無関係に助け合う、ベタベタせずとも女性同士に普通に流れる緩いネットワークが底にあるのがとても良い。

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今年のミステリランキングは、クリス・ウィタカーの『われら闇より天を見る』が強かったのだなあ。
私は小説でも映像でも、ひどい境遇や状況にある少女が闘う物語がとても苦手なので、『われら闇より天を見る』も、話題の『グレイス・イヤー』(こちらはミステリではないが)も読めないまま今年が終わりそう…。

同じ理由で『ザリガニの鳴くところ』も『拳銃使いの娘』も『父を撃った12の銃弾』も『優等生は探偵に向かない』も、たぶん好きなのは分かっているのに読み出せず、買ったまま積んでしまっている…。

ホロヴィッツは『カササギ』シリーズでも、作中作の著者アラン・コンウェイを筆頭に何故か「邪悪なゲイ」を多く登場させてくるのがとてもキツイ。
著者のセクシャルマイノリティの描き方が危うくて毎回ハラハラするの、もう嫌だよ…。
特に2作目の『ヨルガオ』は相当にヤバかったと思ったが、誰も言ってなくない…?

『ヨルガオ』では作中作であるアランの小説の中で、障がいを持つ人物を変質者として描いていることに、主人公のスーザンが「障がいをよくないことと言っているにも等しい!」と、アランの本が偏見を助長することに憤っているのだが、それ、この『ヨルガオ』であなた(著者ホロヴィッツ)がセクシャル・マイノリティへ対してやってることでは!?と、今でも思い出すたびに新鮮にキレてしまう。

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年末の各種ミステリランキング本で毎年上位のアンソニー・ホロヴィッツ、今年の新刊『殺しへのライン』は、謎の散りばめ方も、登場人物たちの会話にも行動にも無駄な描写が何ひとつ無かったことに最後一番驚いた。
ミステリ小説の伏線(のように読める、というものも含めて)は全て回収されるべきとは思っていないけれど、ここまでキッチリしているのも凄い。
もはや腹が立ってくるほどに描写に矛盾も無駄も無くて、ここまで徹底してるミステリも珍しいと思う。

ただこの『ホーソーンとわたし』シリーズにおけるホーソーンのホモフォビア設定は、今後彼のどんな背景や過去が明かされようと絶対にダメだよ…。
「納得できる」ゲイ嫌いの「理由」が描かれるのかもしれないと想像するのもしんどい。
そこに触れる感想を全く見かけないので、新刊が出るたびに起きる絶賛ムードには毎度モヤモヤしている…。

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