上川多実『〈寝た子〉なんているの? 見えづらい部落差別と私の日常』
部落出身の両親と部落ではない地域で生まれ育った著者が、幼少期から日常の中で起こる周囲とのギャップに対して何を思い、どのように向き合ってきたのかが、つぶさに記されている。
差別とその矮小化への戸惑いと憤り、両親も属する組織としての運動内部の抑圧とその在り方への疑問、大きな運動を離れ別の方法を探し実践してきた過程、他の属性のマイノリティが受ける差別と自身のマジョリティ性を知ったこと、そして子育てにおいて二人のお子さんとの接し方など、誠意にあふれた思考と実践が丹念に綴られており、すごく力をもらった。
個人的に人生ベストに入る、素晴らしいエッセイでした。
うちの町会では例年、各家で一年持ち回りの班長さんが4月最初の土曜か日曜に町費を集めに周って来られるのだけど、私はこういった「不確定な予定」が苦手すぎるため、待つだけの時間が本当に苦しい〜
何事にも取るべき対応を先回りして考え準備せずにはいられないタイプなので、「(班長さんが)今日来るのか来ないのかも不明だが、確率的には来ると思われる」ような、自分からの行動はできずに宙ぶらりんな状態に置かれるタスクが一番苦手です……
佐々涼子『夜明けを待つ』
技能実習生が送り出し機関で学ぶ日本語学習は、スタンダードな「です・ます形」ではなく、現場で働くにあたり真っ先に必要な日本語の「どけ!」「やめろ」などの「命令形」「禁止形」であること。
日本語も母語も年齢相応の言語力に達していない「ダブルリミテッド」の子どもたちへの支援の現場では、文化の違いによる差異によって日本人に失礼な態度だと誤解されないための礼儀作法を教え込んでいること。
これら日本語学習における様々な取り組みを紹介するルポ内容の中で、支援現場の皆さんがあまりに「日本的ふるまい」を重視しているように思えて戸惑ってしまったのだけど、しかし私が「こんな悪しき“日本での常識”や“ルール”を身につけさせるなんてバカバカしい」などと感じても、それは今この国で実際に生活している「外国人」の助けには何ひとつならないのだということを突きつけられた。
自己責任論が蔓延るこの日本社会では、こうした処世術が言葉通りの意味で身を守る術となる暮らしの現実に対して、知識も実感もぜんぜん足りていなかった。
佐々涼子『夜明けを待つ』がとても良かった。
日本製紙石巻工場の震災復興のノンフィクション『紙つなげ!』や、『ボーダー 移民と難民』などの著作がある佐々涼子さんの、エッセイとルポルタージュをまとめた一冊。
技能実習生の現状やダブルリミテッドの子どもたちへの支援についてのルポでは、「日本人が心情的な鎖国を解かなければならない日がやってくる」と佐々さんが書く一連のルポは2013年のものだが、今も何も変わっていないことに暗澹たる思いになる。
身近な人たちの死と自分自身の死について思いを巡らせる本でもあったのだけど、著者のご病気とあとがきの内容が受け止められず、最後の文は未だにしっかり読めていません……
障害者の権利保障については、清水晶子、ハン・トンヒョン、飯野由里子『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』が良い入門書となると思う。
障害の「個人モデル」と「社会モデル」の考え方や、障害者の社会生活上の不利や困難を「思いやり・善意」で解消しようとする考え方の問題点、ならば「一般の人」に必要な視点とは何かということが、対話形式でとても分かりやすく理解できます。
「障害者差別解消法」で法律が変わっても、マジョリティの障害問題に関する受け止め方が相変わらず「思いやりと優しさ」であるため、「自分たちに余裕がない時にはしなくても許される」という感覚が広がったままになっている、という話も出てくるのだけど、この数日のSNSを見ているとまさにその感覚が全く更新されていないんだな……と思う。
1990年代のキャッチフレーズ、「心のバリアフリー」のまま。
BTの、「発端となった出来事を矮小化してその話が出来なくなる」空気が醸成されるしんどさ、すごく分かるし辛い。
差別に対して憤ると同時に自身の行動を省みる大切さも、誰かの行為の意図や内心を他者が決めつけることはできないのだから推測をもとに断罪すべきではない、という留保もすごく重要なことだけど、それらの意見がそもそも問題を軽視して「差別など存在しない」と主張する声にも寄与することになってしまう現状が本当に嫌になる。
元々の、その差別的行為を目撃した人の傷ついた気持ちやフラッシュバックが起きた辛さが置き去りにされてしまっていると感じる。
なにか差別事例が起きたときに「我々も違う構図で同じようなことをやっているのでは」と振り返るのは必要だし大切なことだけど、それによって発端となった出来事を矮小化してしまう、その話を出来ない雰囲気にしてしまうのはよくないんじゃないか。そこを注意しながら言わなければいけないんじゃないかと最近は思う。
ただ助演男優賞での振る舞いなど、想定外のところでショッキングなことが起きてすごい衝撃を受けた。
これ、事が知られるにつれて「切り取りだ」とか「恣意的な印象操作」とする擁護がめちゃくちゃ流れてきたけど、中継を観ていなかった人の擁護こそ「切り取ったシーンだけを見た意見」でしかないと思うのだが。
こっちはLIVE放送でずっと観ていて、プレゼンターが登場して受賞者が発表されスピーチをして全員でステージをはけていく様子まで全部見ていて、その上で大ショックを受けたんですよ。
単純に今年のトロフィー授与方法に問題があったのは事実そうなんだろうけれど、しかしLIVEであの瞬間を見ていた時のショックは消せないし、当人の気持ちは分からないが、周りが「偶然だ」とか「あれくらいのことは差別ではない」と矮小化することが一番問題だし、アジア人蔑視だと思う。
今日のアカデミー賞授賞式、パレスチナへの連帯が示されるか気になって朝からWOWOWの放送を観ていました。
一部の人からでも停戦を求める表明や支持があったこと、『関心領域』が国際長編映画賞を受賞したことが僅かな救い。
横道誠さんら5人の対話を収めた『ケアする対話』を買いに大型書店へ行ったら、何故か手話のコーナーに置いてあった。
福祉分野の書籍って、書店さんが内容を勘違いしているのか、「置く棚が違うのでは……?」と思うことが頻繁にある。
特にタイトルに「ケア」が入っている本は内容とは脈絡のないコーナーに置かれていることがよくあって、勿体ないなあと思ってしまう。色んなコーナーに分散設置してくれている場合は、すごく嬉しいのですけど。
この本のことではないですが、著者がアカデミアの人であっても、内容が専門書ではないエッセイよりの本の場合などには、エッセイの新刊コーナーにも置いてほしいなあといつも思っている。
新刊なのに最初から専門書棚に直行でひっそりと置かれていると、知る機会も興味を持つキッカケも失われているようで残念で。いろいろ難しいのだろうとは思いますが。
3月4日は国際HPV啓発デーだったらしく、子宮頸がん予防のHPVワクチンの無料キャッチアップ接種はあと1年で終了してしまうと知りました。
多くの人がHPVワクチンについての知識を得て、接種を望む人に届いてほしい。
マリーケ・ビッグ『性差別の医学史』で、英国やヨーロッパではHPVワクチン接種によって女性の浸潤性子宮頸がんの罹患率が大幅に減少した10年間の研究結果が示されていた。日本は何故これほどまでに遅れてしまったのか……。
それとHPVの保有・感染は男性のほうが多いにもかかわらず、社会においてHPVが「女性の病気」と語られ、生殖医療は女性だけが責任を負うものとされる問題も示されていた。
「裏を返せば、男性は検査も予防接種も受けられず、感染によって生じるがんのリスクも知らされていない」
読んだ本のことなど。海外文学を中心に読んでいます。 地方で暮らすクィアです。(Aro/Ace)