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『性的人身取引ー現代奴隷制というビジネスの裏側』シドハス・カーラ

 社会主義圏崩壊以降、加速する国際的「性奴隷」ビジネスを綿密な調査と資料精査によって明らかにした書物。昨年翻訳が出版された。

 性奴隷の供給源の一つは、社会主義崩壊以降、福祉が崩壊した旧東欧圏。ルーマニア、ブルガリア、ポーランド、チェコ、ウクライナ等から、「結婚詐欺」や文字通りの「誘拐」などによって大量の女性が西欧及び北米に拉致され、性奴隷ビジネスに従事させられている。

 また、アジアではタイ、フィリピンなどの児童買春に「ペドフィリア」の多くの「北」側の男たちが訪れる。ただ、最近は観光に来た白人家庭の子供が誘拐され、性奴隷にされるケースもあるようだ。

著者は、こうしたグローバルな調査を踏まえた上で、国境を超えた性奴隷制ネットワークが新自由主義グローバリズムによって可能になり、また急成長する分野になったことを指摘する。今や性奴隷ビジネスの「利益率」は麻薬ビジネスより大きい。

従って、著者は新自由主義グローバリズムの是正なくしては国際的「性奴隷制」の根絶はない、と主張する。(「朝日」では「性奴隷ビジネス」を「非合法化すべき」という「眠たい」書評出ていた。そもそも性奴隷制、「非合法」です)

関心の或る方、ぜひご一瞥下さい。 

「日本の選択」-「平和主義の放棄と真の軍事大国へ」

 米誌タイム誌の表紙に岸田首相がずる賢そうな「悪人」顔で登場。
 表紙では「数十年にわたる平和主義を放棄し、日本を真の軍事大国にすることを望んでいる」。

 記事では「WWII以降、最大の軍拡を公にした」とあります。

 外務省は表紙の文言に若干のクレームをつけ、電子版ではやや修正された、などという話もありますが、これは些末な話。

 正直、外務省が反応を見て、ある程度の修正を要求をする、という「シナリオ」が元々あった可能性もあります。

 5年間で43兆円分の軍事予算。これは国債発行だけでは到底足りません。そこで国立及び地域医療のための積立金、為替介入のための特別会計、コロナ予算の積立金、さらには東日本大震災復興特別税の「半分」を軍事費を回すことを政府は決定しています。

しかし、これだけでは「足りない」ので、社会保障全体の削減(これは確実)と消費税増税も選択肢となるでしょう。
 
すでに医療現場では看護職員の8割が「慢性疲労」、8割が「仕事を辞めたい」という状態にまで追い込まれています。

軍事費倍増、日米同盟のNATO化、そして今回の「悪人」岸田のパフォーマンスとすべて米国発。

この構図、対等の主権国家同士としてはどうみても「異常」です。

ロベール・ブレッソンの「抵抗」の1シーン。

ブレッソンはメルヴィルとともに「ヌーヴェル・ヴァーグ」の兄とも言える存在。

この映画は1943年にリヨンで囚われ、死刑宣告を受けたレジスタンスのメンバーが脱獄を試みる過程を追っていく。

これは実話に基づいており、当時リヨンには「レジスタンス」掃討担当者SS将校として、あのK.バルビーがいた。

しかし、この時期を扱った映画に限らず、フランス文学には「脱獄」のテーマが脈々と波打っている。

A.デュマの『モンテ・クリスト伯』やV.ユゴーの『レ・ミゼラブル』、バルザックのヴォートラン。『赤と黒』のジュアリン、『パルムの僧院』のファブリスは自ら「牢獄」への道を選択する。

 これは、つまり「世界」そのものを「牢獄」と見做し、そこからの「脱出」の試みを「生」と考える伝統とも言える。
 この場合脱出の試みが「散文」による「この」世界での出来事であり、ドイツ浪漫派のような「詩」でないことが特徴。
 こう考えるとカフカとフランス文学の「相性の良さ」にも得心は行く。(カフカの導入はサルトル・ブランショ世代だが) 

この伝統はカミュの『シジフォスの神話』へと続く。

ただし、1848年革命の挫折により、フローベールの「偽の散文」・「反文学」(サルトル)も現れるのだが。

 ロベール・ブレッソンの「抵抗」の1シーン。

 ブレッソンはメルヴィルとともに「ヌーヴェル・バーグ」の兄とも言える存在。

 この映画は1943年にリヨンで囚われ、死宣告を受けたレジスタンスのメンバーが脱獄を試みる過程を追っていく。

 これは実話に基づいており、当時リヨンには「レジスタンス」掃討担当者として、あのクラウス・バルビーがいた。

 しかし、この時期を扱った映画に限らず、フランス文学には「脱獄」のテーマが脈々と波打っている。

 A.デュマの『モンテ・クリスト伯』やV.ユゴーの『レ・ミゼラブル』、バルザックのヴォートラン。スタンダールにおいては『赤と黒』においてはジュアリンが、『パルムの僧院』においてはファブリスが自ら「牢獄」(修道院)への道を選択する。

 これは、つまり「世界」そのものを「牢獄」と見做し、そこからの「脱出」の試みを「生」と考える伝統とも描くこともできる。
 こう考えるとカフカとフランス文学の「相性の良さ」にも得心は行く。(カフカの導入はサルトル・ブランショ世代だが)

 この伝統を「わかりやすく」エッセイにしたのがカミュの『シジフォスの神話』とも言えそうです。

「パトリス・ルムンバのために」(下)

 まさに植民地主義の暴力の凄まじさ、そして冷戦における米国の役割の恐ろしさを象徴する出来事と言えるでしょう。

 J=P.サルトルは、このコンゴのクーデター、そしてルムンバ殺害に際して、「パトリス・ルムンバの政治思想」(シチュアシオンV)という長文の論説を書き、ルムンバを追悼しました。

 フランス本国では1962年にアルジェリア戦争は終結し、F.ファノンも世を去り、そして1962-66年にかけて「構造主義革命」(「歴史」を追放する)が演出されることで、植民地主義の暴力の記憶は本国白人の間では薄れていきます。そして1980年代には、ファノンの名はほぼ忘却された。

 しかし、1990年代には、「構造主義革命」というフェイク・ニュースを演出したP.ノラ的な「歴史学」を批判するJ.ノワリエルの「移民」史的なプロブレマティークが巻き返し始め、また高度経済成長を支えた移民労働者の2世・3世が声を挙げることで、状況は変化しはじめます。

 下はハイチの映画監督ラウル・ペックの『ルムンバ』(2000)です。ペックには他に米国のゲイの黒人作家J.ボールドウィンの遺稿を基にした「私はあなたのニグロではない」(2016)、「マルクス・エンゲルス」(2017)などがあります。

「パトリス・ルムンバのために」(上)
 
 ベルギー国王はつい先ごろ(2020年)、かつての植民地コンゴでの恐るべき暴虐行為について、「謝罪」しました。ただし、現在のところ「賠償」は拒否しています。

 また2022年ベルギー政府は、コンゴ独立の指導者パトリス・ルムンバの「歯」を遺族に返還し、「道義的責任」を認めました。

 何故、コンゴ独立後はじめての首相ルムンバの「歯」がベルギーに保管されていたのか?

 コンゴは1960年に独立後、選挙で選出されたパトリス・ルムンバは、米ソのどちらにも与しない「非同盟」路線を追求します。

 その「非同盟」の方向が、米国ケネディ政権の「逆鱗」に触れ、ベルギーと共同したCIAのクーデターによりルムンバは失脚、殺害されました。

 これがケネディの言う「進歩のための同盟」の華々しい成果、とされたのですから、「民主党リベラル」の「進歩」のほどが窺い知れます。

 この後、ケネディ政権はベトナム戦争への本格的介入へと舵を切り、1975年までベトナムは戦争の惨禍に晒され続けました。

 そして殺害されたルムンバの遺体はなんと硫酸で溶かされていた。ただし、「歯」だけが残っていたために、実行犯のベルギーの警察官を経由して、首都ブリュッセルに今まで保管されていた。

 

訂正と補足)
 ディエン・ビエン・フーの陥落は1954年、この年、仏、米国・ソ連・中国も参加したジュネーヴ協定において、北ベトナム側は中ソの圧力に最終的に譲歩して協定に調印。
 
 すでにこの段階では、米と中ソの地球スケールの「冷戦」の論理に植民地解放のベクトルは歪められつつありました。

 米国との正面衝突を避けたい中ソの圧力で、ベトナム政府軍はすでに国土の大部分を制圧していましたが、北緯17度線まで撤退。
 
 しかも、この合意を米国は土壇場で調印拒否。つまり最初から南の傀儡政権を支援して、「北」を倒す腹積もりだった。協定で定められた統一選挙も拒否(「北」が勝つのがわかっていたため)。

 しかし、南ベトナム政府は、米軍の膨大な軍事援助にも関わらず劣勢となり、ついに米国は1964年トンキン湾事件をでっち上げて直接介入を開始、最大時55万人の地上軍を派遣。また「北爆」には、B52が嘉手納から出動します。

 そしてインドネシアの「血のクーデター」が1965年です。まさに「グローバル冷戦」ドミノです。その上、この頃から中ソ対立が激化、ベトナム政府は間に挟まれて苦境に陥ります。
 しかし1975年、ついにベトナムは統一されました。
 下画像『ベトナムから遠く離れて』(ゴダール、K.マルケルなど)
 
 

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BT)欧州では1945年5月8日、ナチス・ドイツが降伏し、終戦。しかし同日に、アルジェリア北部のセティフとゲマラでは、独立を求める何千もの市民をフランス軍が虐殺します。

この「セティフの虐殺」からフランスは1962年まで続くアルジェリア独立戦争にまさに「切れ目なく」のめりこんでいく。

戦争は次第に拡大し、遂にアルジェリアに60万以上の兵士を投入、徴兵動員体制となる。ちなみにデリダとブルデューもこの際徴兵され、アルジェリアに駐屯している。

ゴダールの『勝手のしやがれ』、日本公開時は「刹那的」で「無軌道」な若者を描いた、とまるで「新人類」映画のような扱いだったが、これは「大義」が感じられない「戦争」に動員される仏青年の焦燥を背景にした映画。ゴダールの2作目「小さい兵隊」はさらに踏み込んでフランス軍の「拷問」を告発する内容になっている。

自由フランス軍に動員されたアルジェリア兵はFLN(民族解放戦線)と仏傭兵(ハルキ)側に分かれて殺戮し合うことになる。独立時には10万人以上の「ハルキ」が殺された。

仏はインドシナでも1965年まで旧SS隊員を大量に動員してまで戦争を継続、しかし要塞ディエン・ビエン・フーをグエン・ザップ将軍に攻略され、降伏。

この後、米国が10年に渡りベトナムに介入することになる。

「機械人間 machines」(インド、ドキュメンタリー)

インド、グジャラート州の、ある繊維工場と労働者たちを、映像としての完成度を徹底して追求しながらフィルムに収める。

インドと言えば、バンガロールなどのIT産業のお話しがよく報道されていますが、労働者の圧倒的多数は、むしろこの映画で描かれるような、労働法・労働規制を排除した19世紀的な環境に置かれている。

組合をつくろうとする試みが稀にあっても、リーダーたちは暗殺されること示唆されます。

劣悪な労働環境の中、子どもたちは化学物質にまみれながら、働いてる。エンゲルスが描いた19世紀における「イングランド労働階級」とほとんど相似的です。

グジャラート洲と言えば、2002年、時のBJP州政府、警察の暗黙の支持の下に行われた、ムスリムに対する「ポグロム」でも知られます。この際、少なくとも数千人規模の犠牲者が出ました。この時の州政府首相が現在、インド共和国首相のBJP党首のモディです。

マクロに見れば、新自由主義グローバリズムと極右原理主義との結合、というありふれたものでありながらも、危険きわまりないブロックが世界中でせりあがっていることになる。

このドキュメンタリー、それほど入手困難なものではないので、ご興味のある方にはぜひお勧めします。

「ウォーターゲート事件(ニクソン辞任)は何故可能だったか?」

スパルタカスくん、「ウォーターゲート事件告発をしたのはNYT」と書いているが、これは誤り。正しくは1972年にワシントン・ポストのボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインが「すっぱ抜いた」。

NYTは前年1971年に国防総省の機密文書(ペンタゴン・ペーパーズ)を報道した。

前者は『大統領の陰謀』、後者は『ペンタゴン・ペーパーズ』として映画化もされている。

「新左翼」気取りの、この東大准教授、この告発が可能であったのは「社員持ち株制」が云々と思いもかけぬ「ナイーブ」さを曝け出している。

この「告発」がニクソン辞任の大事件にまでなったのは、米国のもう一つの「エスタブリッシュメント」である民主党本部への「盗聴」事件であったため。また直接の工作員多数がCIA関係者であったこともあり、FBI副長官の協力も得ていた。1972年のフーバー死後のFBIとニクソンの関係も背景にある。

米共産党、ブラックパンサー、はてはキング牧師の個人電話まですべて「盗聴」されていたが、これは何の問題にもならなかった。

ブラックパンサーに至っては、パブリック・エネミー」としてFBIによる暴力的弾圧に晒され、指導部も含め、多くのメンバーが「違法」に殺害された。

また、ユーゴ含めロマン派は一般にプロテスタンティズムよりも、「原罪」の観念を希薄化したカトリックに近く、その点この映画はやはりアングロ・サクソン的。

社会理論として考えた場合、プロテスタンティズムはカトリックと異なり、「自己」論中心で「政治秩序」論は希薄。

(ただし、ロックを国教会「寛容派」理論と考えると別。またヘーゲルを世俗化した最大のプロテスタンティズムの思想家と見ることもできる。)

「危機の17世紀」にはカルヴァン派の「抵抗理論」や「寛容論」なども仏語圏では現れましたが、その後衰退。

ドイツのルター派はむしろ世俗の国家への服従を説きました。E.フロムやH.プレスナーは「ナチズム」の起源をルター派まで遡らせますが、これはやや無理があります。

いずれにせよ、プロテスタント諸国では世俗国家が社会を管理するようになり、国家論はこの地域では衰退した、とは言えます。

これに対し、カトリックは中世においては地域・国家・国際社会の秩序の管理者であって、個人の「信仰」は二の次。ローマ教会の高位者も「聖書」などは読んだこともない人が多数派、むしろ教会法に精通。

教会法、つまり当時の行政法の専門化、ということ。

であるから、仏で世俗国家とカトリックの対立が最も激しくなるのは自然の成り行きだったかも。

ヴィクトル・ユゴー「レ・ミゼラブル」について

 「レ・ミゼラブル」は今までに、何度も映画化されてきました。小説の映画化、はジャンルの違いもあって、成功するとは限らない。失敗の典型はトルストイの「戦争と平和」。しかし、「レ・ミゼラブル」はこれだけ、映画化されるのは、やはり人気が高いのでしょう。

 フランスでは大詩人とされるユゴーですが、日本では詩人としてというよりは、やはり「レ・ミゼラブル」の作者として知られている印象。

 私も、J.ギャバン、ベルモンド、ドバルデューなどがジャン=ヴァルジャンを演じたものを見てきましたが、最近の英語版ミュージカルも、わりにテンポよくつくられていた印象です。

 J=ギャバンのヴァルジャンはやはり少し年を取り過ぎていて、その点映画版ミュージカルのヴァルジャンは、活力、という点では、よかったのでは。

 この映画、最後ヴァルジャンの死の場面で、「現世の罪」から洗い流されて昇天する、というメッセージになっている。

 原作では、あるいはフランス版映画では、ジャン=ヴァルジャンは、社会的に「罪」を犯したとは本人も小説内でもされておらず、むしろブルボン王政復古と産業革命の進展によって生み出された「悲惨」と「不正」の犠牲者にして犯行者という位置づけです。

「核・原発と米軍」・・・東日本大震災の際、最悪のシナリオは米軍による日本再占領だった

 昨年、とある書評会でとりあげられ、たいへん好評だった本。

 東日本大震災の際、状況の展開次第では、350キロ圏退避(首都圏全部含む)、米太平洋軍司令官指揮・自衛隊下請けによる、軍政の可能性があったことが、当時の関係者への聞き取りによって明かされていきます。

 この過程で、いまだに日本が軍事的には完全に米国の管理下にあることが炙り出されていきます。

 ETV特集でも放映されたので、ご覧になった方もおられるかと思いますが、書籍化され新たな情報も追加されていますので、ご関心のある方はぜひお読みください。

 この本の中で、アメリカ側が「自衛隊は英雄的行為を示せ」、「英雄的精神が求められている」、というメッセージを送ってきたことが明らかにされています。これってつまりチェルノブイリの時のように、「超法規的」に自衛隊員が「全身被ばく前提で原子炉に突入しろ」、ということなのです。

 著者・NHKディレクターの石原大史さんは、大学院の時の後輩。修論は「鶴見俊輔と思想の科学」でした。

 今のNHKでよく生き残れたものだ。偉い!某プロデューサーも感心していた。

 しかし岸田政権、「原発全面回帰」法、何考えてる? 
 
 

WWII中のユーゴスラビアー坂口尚とE.クストリツァ(下)

 チトーのパルチザンは、ソ連の援助ゼロ(これはチトー=スターリン書簡でスターリン側が医療・食料援助も拒否したことが確認されています)という状況において、ドイツ軍8個師団、クロアチア軍、ブルガリア軍を引き受けることとなりました。

 この結果、ユーゴは東欧圏で唯一ソ連から自立した国家として戦後出発します。

 また「解放」後、連邦制として再編された新ユーゴスラビアを、クロアチア人であったチトーがまとめ上げることで、その後半世紀ユーゴは「連邦制」として「平和」を維持しました。

 その意味でも、以前の投稿で批判した「民族的個体性」に依拠した「ロマン主義的ナショナリズム」は、ユーゴスラビアでも、破滅的な役割を果した、と言ってよいでしょう。

 このような歴史を振り返るにあたっても、『石の花』は再読に値する、数少ない日本のサブ・カルチャーの作品の一つである、と思います。

WWII中のユーゴスラビアー坂口尚とE.クストリツァ(中)

ただし、安彦の場合、『神武』など古代を扱ったものは当然として、前述の『王道の狗』でも、妙な「平和主義」者「天皇」を「尊崇」するメッセージが常にあります。まあ、一種の『平成天皇、平和へのメッセージ』の漫画版、というところでしょうか。

『石の花』の方は、そうした疑問点はほとんどなく、いわば完全に「大人用の漫画」です。

強制収容所の長い描写のエピソードなどは、かなり「リアル」で、これは、「15歳以下」にはちょっときついかも、です。

それにしても、この漫画が描かれて5年余りで冷戦は崩壊。続いて、今日からは時期尚早であったとされるドイツの「スロヴェニア」、「クロアチア」独立承認からはじまった戦争によって、ユーゴスラビアは再び悲惨な内戦に突入、解体。

現在、経済的には完全にドイツの支配下に入ったことを考えると、感慨深いものがあります。

ちなみに、WWII中、ナチス・ドイツは「クロアチア」を「ユーゴスラビア」から独立させ、枢軸側に国家として「同盟」させていました。チェコから「スロバキア」を独立させたのも同じ文脈です。

クロアチア、スロバキアは、ハンガリー、ルーマニア、ブルカリアとともに、ドイツの同盟国としてソ連に侵入していました。(続く)
 

WWII中のユーゴスラビアー坂口尚『石の花』とE.クストリツァ『アンダーグラウンド』(上)

1939-1945年、大陸ヨーロッパ全域をナチス・ドイツが制覇する状況下において、ユーゴスラビアでのパルチザン闘争を扱った漫画。複数の「言語」、「民族」、「宗教」が、複雑に交錯する中での「抵抗」、「暴力」、「憎しみ」、「平和」などの様相をかなり丁寧に描いている。

扱っている時代的にはE.クストリッツァの『アンダ―グラウンド』中盤までとほぼ重なっている。

作品化にあたり、作者と「偶然」小学校で同級生であった、駒場のバルカン現代史の柴宜弘さんが、ユーゴの複雑な歴史に関して、かなり全面的に協力した、とのこと。

作者坂口尚は1946年生なので、1947年生の安彦良和とは、虫プロでのアニメ製作を経て、漫画に転じた、という意味では、ほぼ同じキャリアを辿った。

ただし、弘前大学全共闘のリーダー格であった安彦と異なり、坂口尚は、東京の下町育ちで高校中退。

安彦良和は、現在のアニメーターたち、例えば庵野秀明などと比較すると、一応「カウンター・カルチャー」的な要素もあり、明治初頭を扱った『王道の狗』などでは、朝鮮の「開化派」を利用した、日本の「アジア主義」や福沢諭吉の双方を批判する視点もある。(続く)

「イル・ポスティーノ」の監督マイケル・ラドフォードがアルパシーノ主演で撮った『ヴェニスの商人』【2004)

半世紀ほど前から英米文学では「ポストコロニアルスタディーズ」の方法が盛んになり、さまざな古典、特にシェイクスピアの再解釈が映画の演出にも応用されてきました。

特に多いのは『テンペスト』のキャリバンとプロスペロの関係。英ではD.ジャーマン、P.グリーナウェイの両人、米国ではプロスペロを女性とするバージョンもあります。

さて、この2004年の『ヴェニスの商人』では強欲金貸しのシャイロック(A.パシーノ)に対するヴェニスの貴族たちの「反ユダヤ主義」がかなり詳細に描かれます。

有名な「証文」へとシャイロックを追い込む、恥辱、法廷での「出来レース」などに焦点が合わせられます。

ユダヤ教の「正義」に対するキリスト教の「慈悲」の優位を説く「欺瞞性」にも光が当てられます。

最後はキリスト教への改宗を強制され、ユダヤ共同体からもキリスト教会からも排除されるシャイロック。

ヴェネチィアの「ゲットー」を破壊し、ユダヤ人を「解放」したのはナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍でした。

ライン川のフランクフルト、トリ―アなども同様。この「解放」からH.ハイネ、K.マルクスが次世代に登場するのです。

「ミッシング」(1982 )と「イル・ポスティーノ」(1994)ー「グローバル冷戦」下のチリ

以前投稿したように、1964年のブラジル及び1965年のインドネシアで確立された「ジャカルタ・メソッド」は、世界中で応用されていきます。

日本で有名な例は1973・3・11のピノチェトによるクーデターでしょう。

「ミッシング」は自身、冷戦下のギリシア軍事政権から亡命したコスタ=ガブラス監督のもの。米国・カナダ製作でカンヌでパルムドール。

「イル・ポスティーノ」は1950年代共産党員であったためにチリを追われたP.ネルーダとイタリアの子島の青年の交流を描いています。ネルーダはアジェンデ政権の下駐仏大使。1971年にノーベル文学賞
を受賞した後、72年に帰国。クーデターの際、急死(死因については諸説あり)。

『百年の孤独』で有名なコロンビアのガルシア=マルケスはチリ出身のシネアスト、ミゲル・リティンと協力した『戒厳令下チリ潜入記』を著しました(岩波新書あり)。

南太平洋の両岸での軍事クーデター、「アクト・オブ・キリング」、「ルック・オブ・サイレンス」と並んで、この二つの映画を観ることでより具体的にイメージできると思われます。

「敵こそわが友 K.バルビー」

 K.バルビー(1913生)、SS情報将校としてWWII中、ヴィシー政権の下、リヨン、ディジョンで「レジスタンス」組織の摘発、拷問、虐殺を担当。

 バルビーの指揮下で「自由フランス」国内最高司令官J.ムーランをはじめとする大量のレジスタンス参加者が拷問、銃殺された。

 WWII後、アメリカ陸軍情報部(CIC)は「反共」工作のため、バルビーを匿い、雇用。しかしフランスがそれに気づき、引き渡しを要求したため、バルビーはカトリックやイタリアの反共組織(旧ファシスト党)の手引きで、ラテンアメリカに亡命。

ボリビアで軍事政権の顧問となり、大きな役割を果す。1967年のゲバラ捕縛、処刑にはCIAとともに関与。

しかし1982年ボリビアで文民政権が成立すると同じ社会党政権である仏ミッテラン政権に引き渡される。

1984年からリヨンで公判で最高刑である終身刑(仏は死刑廃止)。

1991年刑務所内で77歳で死亡。

しかし、アイヒマン、バルビーはむしろ例外で、多くのナチス、イタリア・ファシズム関係者は亡命先のラテンアメリカで右派軍事政権の下、優雅な暮らしを全うした。

「別離」

ベルリン映画祭の金熊。監督、A・ファルハーディーは、現代を代表するシネアスト。「サラリーマン」や「浜辺に消えた彼女」などでベルリンやカンヌの常連でもあります。

かつて、イラン映画は当局の枠もあり、大人の社会の紛争、トラブルを描くことが難しく、結果として「子ども」の視点から見た優れた映画を輩出しました。

また皮肉にもアメリカと関係から、ハリウッド映画が入ってこれなかったことが、国内の映画産業を保護し、次の世代を育てることにも成功しました。

かつてのイラン映画は「地方」の農村を舞台にすることが多かったのですが、ファルハーディは、都市中産階級の「女性」(イランの女性大学進学率は極めて高い)と社会の軋轢を、カフカ風のサスペンス・タッチで描きだすのがうまい。軋轢の結果、法廷闘争が長く描かれ、イランにおける民事訴訟の在り方が垣間見えるのも興味深いです。

またイラン映画には、ドイツに出稼ぎに行っている人物が頻繁に登場するのも、ここ数十年のイランとドイツの移民労働の関係を背景にしていて、これもおもしろいです。

総じて、日本では「悪の枢軸」、女性を抑圧する「イスラム共和国」と決めつける米国のつくりあげるイラン像が強いですが、「別のイラン」を垣間見ることができるのは貴重です。

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