BT)欧州では1945年5月8日、ナチス・ドイツが降伏し、終戦。しかし同日に、アルジェリア北部のセティフとゲマラでは、独立を求める何千もの市民をフランス軍が虐殺します。
この「セティフの虐殺」からフランスは1962年まで続くアルジェリア独立戦争にまさに「切れ目なく」のめりこんでいく。
戦争は次第に拡大し、遂にアルジェリアに60万以上の兵士を投入、徴兵動員体制となる。ちなみにデリダとブルデューもこの際徴兵され、アルジェリアに駐屯している。
ゴダールの『勝手のしやがれ』、日本公開時は「刹那的」で「無軌道」な若者を描いた、とまるで「新人類」映画のような扱いだったが、これは「大義」が感じられない「戦争」に動員される仏青年の焦燥を背景にした映画。ゴダールの2作目「小さい兵隊」はさらに踏み込んでフランス軍の「拷問」を告発する内容になっている。
自由フランス軍に動員されたアルジェリア兵はFLN(民族解放戦線)と仏傭兵(ハルキ)側に分かれて殺戮し合うことになる。独立時には10万人以上の「ハルキ」が殺された。
仏はインドシナでも1965年まで旧SS隊員を大量に動員してまで戦争を継続、しかし要塞ディエン・ビエン・フーをグエン・ザップ将軍に攻略され、降伏。
この後、米国が10年に渡りベトナムに介入することになる。
訂正と補足)
ディエン・ビエン・フーの陥落は1954年、この年、仏、米国・ソ連・中国も参加したジュネーヴ協定において、北ベトナム側は中ソの圧力に最終的に譲歩して協定に調印。
すでにこの段階では、米と中ソの地球スケールの「冷戦」の論理に植民地解放のベクトルは歪められつつありました。
米国との正面衝突を避けたい中ソの圧力で、ベトナム政府軍はすでに国土の大部分を制圧していましたが、北緯17度線まで撤退。
しかも、この合意を米国は土壇場で調印拒否。つまり最初から南の傀儡政権を支援して、「北」を倒す腹積もりだった。協定で定められた統一選挙も拒否(「北」が勝つのがわかっていたため)。
しかし、南ベトナム政府は、米軍の膨大な軍事援助にも関わらず劣勢となり、ついに米国は1964年トンキン湾事件をでっち上げて直接介入を開始、最大時55万人の地上軍を派遣。また「北爆」には、B52が嘉手納から出動します。
そしてインドネシアの「血のクーデター」が1965年です。まさに「グローバル冷戦」ドミノです。その上、この頃から中ソ対立が激化、ベトナム政府は間に挟まれて苦境に陥ります。
しかし1975年、ついにベトナムは統一されました。
下画像『ベトナムから遠く離れて』(ゴダール、K.マルケルなど)