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 「ディアスポラ」研究、個人としては論文にはしなかったけれども、共同研究として2012年の『移動と革命』(論創社)として上梓しました。

 冒頭で中欧・東欧研究者の小沢弘明さんと中東研究者の栗田禎子さんとの長い討議。

 論考として、今や日本における仏語圏移民研究第一人者の森千香子さん、米国の黒人、生殖の政治のこれまた第一人者の兼子歩さん、森崎和江研究の第一人者・日本近現代思想史の水溜真由美さん、近代日本社会主義思想史の大田英昭さん、プルードン研究者の金山準さん(『プルードン:「反絶対」の探求』を近年上梓)、ベ平連など近現代日本思想史の神子島健さん、政治思想史の柏崎正憲さん、などなど多彩なメンバーが参加しています。

 金山準さんと神子島さんは、『ロシア・シオニズムの想像力』(東大出版会)の著者、鶴見太郎さんと東大駒場相関社会科学専攻の大学院のほぼ同期にあたります。

 しかし、この本、ほんとは遅くとも2011年には出版予定だったのになー。

 ともあれ、ご関心の或る方はご一瞥いただければ幸です。
 

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「ゴダール、アルジェリア戦争、サルトル」

 WWII後の映画史、1940年代後半がイタリア映画(ネオ・ネアリズモ)、1950年代前半が日本映画の時代だとすると、50年代後半から60年代初頭はヌーヴェルバーグの時代と言える。

 以前にも書いたように、アルジェリア独立問題はWWII直後からフランス社会を混乱に陥れますが、1954年ー62年まではついに「戦争」状態に入ります。

 仏は1945年からインドシナの独立運動を弾圧してきたが、54年ついにジュネーヴ協定によって独立を認めます。

 マンデス・フランスはさらにモロッコ、チュニジアの独立を承認するが、アルジェリア独立承認には失敗、58年には事実上クーデターによって第四共和政は倒壊。

 独立阻止のために仏本国でも徴兵が始まり、「大義なき戦争」に動員される若者たちの間には一種の「虚無感」が広がる。

 ゴダールの『勝手にしやがれ』は、この若者の焦燥感と虚無感をベースにしており、単に「洒落た」スタイルの映画ではない。

 ゴダールとトリフォーはサルトルの支持者であり、前者は生涯サルトルを「守護天使 ange gardien」とし、後者はサルトルの伝記映画を撮った。

 68年の「革命」に参加したサルトルの傍に、ゴダールとトリフォーの姿もあった。

 D.グレーバー・D.ウェングロウ『万物の黎明』、訳者の酒井隆史さんからご恵贈いただきました。ありがとうございます!

 しかし、これだけの内容と分量の本、お一人で翻訳というのは本当にすごい。

 内容的には、どうも私が先月書き上げた「自由主義・民主主義・社会主義」と問題関心が重なっているようである。

 4月刊行予定の拙論は、近現代を扱っているが、「自由にして平等」の実存様式、という点で、人類学が対象とする社会を重要な参照枠としている。

 またS.ピンガーなどの進化生物学・進化心理学をベースにした人類史を批判するという問題意識も私も長年、抱いている。

 日本語圏では、それほどでもないが、英語圏ではピンガー的言説は中道リベラルに広く共有されており、「21世紀の啓蒙」と自称さえしている。

 私としては、「21世紀の啓蒙」はピンガー的なものを批判することで可能になると考えている。
 

 昨日アパルトヘイト時代の日本人=名誉白人について書きましたが、ちょうど少し前に三井物産の当時の社内報がSNSで出回っていたらしい。

 「インド人は煮ても焼いても食えない狡猾さがあり、中国人はひっそり固まって住み、カラードは無知粗暴、黒人に至っては箸にも棒にもかからない蒙昧の徒」とし、それに対して日本人は「緑の芝生のある広々とした郊外の家」で「白人と親しみ」、名誉白人から実質白人へと地位向上しているのは「まことに喜ばしい」とある。

 うーん、これ驚天動地の表現とも言えるが、実は現在もあまり感性は変わっていないのではないか?

「中国人は固まって住み」とあるが、私の海外経験では日本の商社・マスコミ・外務省関係者はそれこそ日本人コミュニティに「籠城」し、現地との交流をひたすら回避していた(とくに仏)。

 ところで、例の神宮外苑の再開発は三井不動産、次世代戦闘機開発は三菱重工・電気、IHI(旧三井系)、消費税19%から「逃げるな」の経団連会長は住友化学、保険証廃止「納期守れ」は三菱商事。どうも三大企業集団、実質日本を支配しつつあるのでは?

 経団連2代会長の石坂泰三、第四代会長の土光敏夫は共にIHI。前者は原発を日本導入、後者は中曽根第二臨調で日本に新自由主義を導入した。

 

 連続BTした、昨日のNHKスペシャル、「”冤罪”の深層”ー警視庁公安部で何がー」、なかなかの評判です。

 この番組のディレクター、石原大史さんは、「原発事故 最悪のシナリオ」の制作者でもあります。

 今のNHKの中では最も、良心的かつ有能なディレクターの一人、と言えると思います。

 仄聞によれば、一世代上のNHKの人からは、「彼、よく生き残ってきたと思うよ」とのコメント。

 この石原さん、実は私の大学院の後輩で、修士論文は『鶴見俊輔と思想の科学』。しかし、この頃駒場ではポストモダニズム@JAPANの全盛期でもあり、石原さんはさまざまな「ハラスメント」に会い、博士進学を断念。NHKへの道を選択しました(同様の理由で同様の選択をした後輩も多い)。

 しかし、石原さん、NHK入社後、公害関係、原発関係、そして米軍の沖縄駐屯問題、さらに今回の作品と、この世代では、一人気を吐いている。

 一時、組織内でやや「干され気味」の時もあったようだが、そこは大学院での「ハラスメント」で鍛えられた石原さん、飄々と乗り越え、再び活躍。

 「原発事故 最悪のシナリオ」はNHK出版から書籍化もされています。ご関心の或る方はぜひご一読下さい。

 また昨日の番組も28日(木)に再放送があります。是非ご覧ください。

 今一つ、日本で「アカデミズム」が使われた背景があります。

 欧米での「アカデミズム」とは、特に19世紀フランスの、「技術的訓練はされているものの、何の創造性、革新性もない」官製絵画群のこと。マネを筆頭とした印象派の画家たちは、この美術界の「アカデミズム」からは完全に排除され、「独立した アンデパンダン」美術空間を創出します。

 ここから後期印象派、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホに至るまで、近代芸術の「主流」が生まれますが、作家たちの生活は、ルノワールのように中途から大衆趣味に迎合した例外を除けば、かなり悲惨。
 対して当時の画壇を支配していたアカデミズムの作家たちは、今日の美術史には名前も残っていない。

 ここから、大学内の業界で訓練は受けているものの、アクリュアリティには何の関心もない、学問の在り方を藤田省三・鶴見俊輔・久野収などは「アカデミズム」と批判したのです。
 ただし、彼らは知的訓練、思考の型、外国語の習得、それ自体を批判したのではない。ただ、それを自明視して業界の内に閉じこもること態度を脱構築した。

 さて、翻って現在の学問の現状は?
 新古典派経済学はまさに自閉的アカデミズム、メディアに出てくるのは絵に書いたような提灯学者ばかり。
 国際政治学者も右に同じ。
 法学についてはまた。

 A.ヒッチコック(1899生)、イングランド生れのアイルランド人。『暗殺者の家』、『三十九夜』、『バルカン超特急』などのイギリス時代を経て、渡米。第っ作『レベッカ』以来、サイコスリラーの巨匠としての地位を確立。

 このヒッチコック、実は1920年代、ドイツ表現主義の巨匠F.W.ムルナウの大きな影響を受けました。ムルナウの『最後の人』ーこれは現代に直結する悲劇を淡々と撮った映画史上に残る傑作です。

 ヒッチコックの初期の映画『メリー』(1931)、『ウィンナーワルツ』【1934)、特に前者はドイツ表現主義かと見紛うまがりの光と影、人物の表情の演出です。

 しかし、この頃からヒッチコック、カメオ出演をしており、さすがに若い。

 ヒッチコックはS.モームやJ.コンラッドを原作としてスパイ映画、『間諜最後の日』、『サボタージュ』なども撮っています。

 モームはMI6員です。MI6関係者はジョン・ル・カレにしろ、グレアム・グリーンにしろ、作家としてそれなりに評価の受ける人も多い。
 対してCIA出身の作家というのはあまり聞いたことがない。

コンラッドに戻ると、彼はポーランド出身で、海員時代の経験を基にした、多くの作品を英語で出版。
 E.サイードの最初の研究対象はコンラッドでした。
 

 ネグリ=ハート派の「マルチチュード multitude」とルソーの「一般意志」はまず相容れない。
 少なくとも、当人たちの理解はそうだ。

 またもし、マルチチュードと一般意志を和解させるとすると、それは「マルチチュード」理論は崩壊することになる。

 それにしても、佐藤嘉幸さん、廣瀬純さん、そしてスパルタカス君と面識がある人間ばかりが、東浩紀がらみで出てくるのはどういうわけだろう?

 スパルタカス君について言えば、現在リュシアンのように、鏡の前で「髭を生やす」ことを決意すべきか、どうか思案中、ということだろう。

 ところで、1930年代のフランスのファシズム・反ユダヤ主義、L.ブニュエルの「小間使いの日記」の主題でもあります。

 排外主義の言葉は現代のものとほぼ「同じ」であることに驚かされます。

 ルメイクもありますが、やはりブニュエルのそれが優れている、と言えるでしょう。

 ブニュエルは、トリフォー、ゴダールとともにサルトルのファンでもあり、ノーベル文学賞辞退の際には「ブラボー」と祝電を打ったとされています。 

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R.ブレッソンの「抵抗」

 ブレッソンはメルヴィルとともに「ヌーヴェル・ヴァーグ」の兄とも言える存在。

 この映画は1943年にリヨンで囚われ、死刑宣告を受けたレジスタンスのメンバーが脱獄を試みる過程を追っていく。

 当時リヨンには「レジスタンス」掃討担当者SS将校として、あのK.バルビーがいた。

 しかし、この時期を扱った映画に限らず、フランス文学には「脱獄」のテーマが脈々と波打っている。

 A.デュマの『モンテ・クリスト伯』やV.ユゴーの『レ・ミゼラブル』、バルザックのヴォートラン。『赤と黒』のジュアリン、『パルムの僧院』のファブリスは自ら「牢獄」への道を選択。

 これは、つまり「世界」そのものを「牢獄」と見做し、そこからの「脱出」の試みを「生」と考える伝統とも言える。

 この場合脱出の試みが「散文」による「この」世界での出来事として記述され、ドイツ浪漫派のような「別世界」への「憧れ」=「詩」でないことが特徴と言えるだろう。
 こう考えるとカフカとフランス文学の「相性の良さ」にも得心は行く。この伝統はカミュ『シジフォスの神話』へと続く。
 ただし、1848年革命の挫折により、フローベールの「偽の散文」・「反文学」(サルトル)も現れ、20世紀フランス文学を複雑にしていくのだけれども。

「別離」
 ベルリン映画祭の金熊。監督、アスガル・ファルハーディーは、今もっとも優れた映画の作り手の一人だと思います。「サラリーマン」や「浜辺に消えた彼女」などでベルリンやカンヌの常連でもあるのでご存じの方も多いと思います。

 かつて、イラン映画は当局の枠もあり、大人の社会の紛争、トラブルを描くことが難しく、結果として「子ども」の視点から見た優れた映画を輩出しました。

 また皮肉にもアメリカとの関係で、ハリウッド映画がほとんど入ってこれなかったことが、国内の映画産業を保護し、次の世代を育てることにも成功しました。

 かつてのイラン映画は「地方」の農村を舞台にすることが多かったのですが、ファルハーディは、都市中産階級の「女性」と社会の軋轢を、カフカ風のサスペンス・タッチで描きだすのがうまい。軋轢の結果、法廷闘争がわりと長く描かれ、イランにおける民事訴訟の在り方が垣間見えるのも興味深い。

 日本では「悪の枢軸」、女性を抑圧する「イスラム共和国」と決めつける米国製のイラン像が強いようにも感じますが、例えば、イランは女性の大学進学率はとびぬけて高い。それを背景にファルハーディの描く中産階級の女性たちもごく自然に登場するわけです。

 またドイツとイランの労働移動が必ず描かれており、これも興味深い。

『性的人身取引ー現代奴隷制というビジネスの裏側』シドハス・カーラ

 社会主義圏崩壊以降、加速する国際的「性奴隷」ビジネスを綿密な調査と資料精査によって明らかにした書物。

 性奴隷の供給源の一つは、社会主義崩壊以降、福祉が崩壊した旧東欧圏。ルーマニア、ブルガリア、ポーランド、チェコ、ウクライナ等から、「結婚詐欺」や文字通りの「誘拐」などによって大量の女性が西欧及び北米に拉致され、性奴隷ビジネスに従事させられています。

 また、東南アジアではタイ、フィリピンなどの児童買春に「ペドフィリア」の多くの「北」側の男たちが訪れる。ただ、最近は観光に来た白人家庭の子供が誘拐され、性奴隷にされるケースもあるようです。またパキスタン、バングラデッシュからも「性奴隷」が国境を越えて「輸出」されている。

 著者は、こうした調査を踏まえた上で、国境を超えた性奴隷制ネットワークが新自由主義グローバリズムによって急成長する分野になったことを指摘する。今や性奴隷ビジネスの「利益率」は麻薬ビジネスより大きい。

 従って、著者はIMFが社会主義体制崩壊後の東欧の「社会保障」解体に果たした役割を強調し、自由主義グローバリズムの克服なくしては国際的「性奴隷制」の根絶はない、と主張します。

 ご関心のある方は、ぜひご一瞥下さい

 「法廷」

 近年、新自由主義グローバリズムによる社会の変容(解体)に伴って、日本のみならず世界中で「極右原理主義」が台頭しつづけています。

 インドでのヒンドゥー原理主義の台頭には、私は2002年の「ジャラードにおける「ムスリム」に対する「ポグロム」にショックを受けて以来、折に触れて不気味な関心をいただき続けていました。

 このヒンドゥー原理主義政党(インド人民党)は、ある時期から国政を担当するようにもなり、一度下野しましたが、現在また政権に返り咲いています。モディ首相は、かつての「グジャラード虐殺」の際の州知事です。

 米英日などはインド国内の「原理主義」に対して、「寛容」を示代わりに、中国包囲網に加われ、と誘っているのが現状です。

 先日、 le monde でガンジーの暗殺者が、今やヒンドゥーの「英雄」として称揚されている、という記事を読んで驚きました。

 「法廷」という最近のインド映画は、上記のような状況を背景にしつつ、アウト・カーストへの不当逮捕・判決を淡々と描いた作品です。

 これは芸術的観点からも秀逸な作品で、昨今の世界レベルの映画風景では、トルコ、イラン、インドが先頭を走っている、という印象をも裏付けるものです。ヴェネツィア映画祭では2冠。

「サッコ・ヴァンゼッティ事件」

 昨日、8月23日は1927年に米国でイタリア系アナーキスト、サッコとヴァンゼッティが電気椅子にて処刑された日。
 これは、いわば米国の「国内テロ戦争」によって引き起こされた「冤罪」・見せしめ処刑でした。

 米国内ではドス・パソス、ドロシー・パーカーなどが「見せしめ」裁判に抗議して留置。国外からはA.フランス、A.アインシュタインが処刑に反対する立場を明らかにしました。

 この事件を題材にした映画に『死刑台のメロディ』(1971、イタリア・フランス)があります。音楽はE.モリコーネ、ジョーン・バエズの歌も印象的です。
 

「A.エルノーとJ.クリステヴァ」

 A.エルノー(1940生)は2022年ノーベル文学賞受賞。日本語訳もあり、2021年ヴェネツィア映画祭金獅子賞の「あのこと」の原作者でもあるので、あるいは現在の日本でもクリテヴァより知られているかもしれません。

 クリステヴァ(1941生)はルーマニアのユダヤ人、故国での共産主義青年団時代を経て、パリではL.ゴルドマン、R.バルトに師事。ラカン派精神分析と文化記号論を武器として、パートナーのF.ソレルスと1960年代から『テルケル』を舞台に華々しく知的舞台で活躍。

 他方エルノーは、ノルマンディーの田舎町に工場労働者の子として生まれ、大学で中等教育資格を取り、1974年作家デビュー。エルノーの小説は全て自伝的小説。

 この点でも「作者の死」を唱えたパリの「文化エリート集団」と好一対をなす。

 政治的には「文革礼賛」(わざわざ当時の中国に行った)から共和主義の「主権」(ラカンの父)に回帰したクリステヴァに対し、エルノーはフェミニズム、気候変動、反自由主義、反イスラエルなどの運動に参加する、典型的な「政治参加する作家Écrivain engagé」である。

 階級的背景という点では「フーコー伝」で知られるD.エリボン(ゲイ)とも共通している。

 2019年に出た、山内昌之・細谷雄一編「日本近現代史講義」、現在の政治史が如何にサントリー化しているかがよくわかる。いわば大学における「自由主義史観」である。
 
 麻生太郎会長の中曽根平和研究所の研究本部長、川島真氏は毎度の御登場。またサントリー理事の弟子筋の人多数。しかし、いくら何でも中西寛が結論とは「やばすぎ」だろう。

 明治維新を「立憲革命」とするのも従来の政治史の延長線上。

 いわば歴研的なものと対極にある。これはさすがに対抗「日本近現代史講義」が必要なのでは?

序章 令和から見た日本近現代史(山内昌之)
第1章 立憲革命としての明治維新(瀧井一博)
第2章 日清戦争と東アジア(岡本隆司)
第3章 日露戦争と近代国際社会(細谷雄一)
第4章 第一次世界大戦と日中対立の原点(奈良岡聰智)
第5章 近代日中関係の変容期(川島真)
第6章 政党内閣と満洲事変(小林道彦)
第7章 戦間期の軍縮会議と危機の外交(小谷賢)
第8章 「南進」と対米開戦(森山優)
第9章 米国の日本占領政策とその転換(楠綾子)
第10章 東京裁判における法と政治(日暮吉延)
第11章 日本植民地支配と歴史認識問題(木村幹)
第12章 戦後日中関係(井上正也)
第13章 ポスト平成に向けた歴史観の問題(中西寛)

 「美術の中の詩人 C.ボードレール par クールベ」

 「美術の中の思想家ープルードン par クールベ」

 後期印象派のカミーユ・ピサロ、実は生涯アナーキストだったのです。

 アンティルにポルトガル系ユダヤ人(セファラード、スピノザと同じ系譜)商人の息子として生まれ、パリに渡った後、モネ、シスレー、セザンヌ、ルノワールなどと交わりながら、自らの画法を確立していきます。

 同時代の文学領域でのアナーキストとしては詩人S.マラルメが挙げられます。

シェイクスピア史劇「嘆きの王冠」

 リチャード2世から、ヘンリー4,5,6世、エドワード6世リチャード3世まで、百年戦争末期から薔薇戦争までを舞台にしている。

 上左の写真はランカスター派を指揮するヘンリー6世の王妃マーガレット・オブ・アンジュー(マルグリット・ダンジュー)。黒人俳優であることは現代的演出と言えるのでしょう。(かつてピーター・ブルックは「ハムレット」で黒人俳優を主役ハムレットに起用した)。

 ただし、王妃マーガレットは史実上も、ランカスター派の軍事的指揮を執ったとされています。

 とは言え、王妃マーガレットがみずから前線で剣を振るい、血まみれになるところなどは現代的演出と言えるでしょう。

 しかし、このシリーズでは総じて暴力による権力闘争の空しさを強調する演出となっている。

 シェイクスピア史劇の映像化としては、総じて成功していると思います。私個人としては、マーガレット、それに最後の「リチャード3世」はとくに演技も含めてよかったと思います。

 逆に、若き日のヘンリー5世(ハル王子)を描いた「ヘンリー4世 第二部」は20歳くらいの時から、オーソン・ウェルズのものも含めて4回くらい見ているのですが、年をとるにつれて、「王族・貴族」の傲慢さへの嫌悪が募るのは不思議です。

『ダントン』(監督A.ワイダ、1983)

 このワイダのダントン、3度目か4度目だと思う。リマスター版であるから、画質はかなりいい。

 また元来が戯曲であることもあり、演劇的な撮り方になっているが、それが決してマイナスになっていない。

 ダントンとロベスピエールの権力闘争の最後の数日間であるので、ダントン、ロベスピエール、デムーラン、サン・ジュストなど限られた人物を近い距離からとっても不自然ではない。

 活人画的な場面などは、P.ブルックの『マラー・サド』を思わせる場面もある。

 ワイダは88年の『悪霊』の後、冷戦終結後は急速に緊張感を失ってしまった。

 『ダントン』における各人物の描き方は基本ミシュレ以来の伝統的なもの。ただ、この映画、俳優の演技がパワフルである。ちょうど30年経った今、やはり映画界全体の衰退を感じる。

 特に英米の白人男性俳優の演技のレベルが劇的に下がった。これはもう「時代」の問題だろう。

 ところで、この映画を観た仏大統領ミッテランは非常に「不機嫌」だったとされるが、何故だろう?

 ミッテランは青年期極右団体「火の十字団」のメンバー、ペタン崇拝者。個人的にダントンは愚かロベスピエールに親近感をもっていた筈もない。

 ただ「ナショナリスト」故にということかも?

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