ネグリ=ハート派の「マルチチュード multitude」とルソーの「一般意志」はまず相容れない。
少なくとも、当人たちの理解はそうだ。
またもし、マルチチュードと一般意志を和解させるとすると、それは「マルチチュード」理論は崩壊することになる。
それにしても、佐藤嘉幸さん、廣瀬純さん、そしてスパルタカス君と面識がある人間ばかりが、東浩紀がらみで出てくるのはどういうわけだろう?
スパルタカス君について言えば、現在リュシアンのように、鏡の前で「髭を生やす」ことを決意すべきか、どうか思案中、ということだろう。
ところで、1930年代のフランスのファシズム・反ユダヤ主義、L.ブニュエルの「小間使いの日記」の主題でもあります。
排外主義の言葉は現代のものとほぼ「同じ」であることに驚かされます。
ルメイクもありますが、やはりブニュエルのそれが優れている、と言えるでしょう。
ブニュエルは、トリフォー、ゴダールとともにサルトルのファンでもあり、ノーベル文学賞辞退の際には「ブラボー」と祝電を打ったとされています。