壁抜随筆 さんがブースト

深作欣二監督『上海バンスキング』放送予定
BS松竹東急 2024年9月19日(木)午後8:00~10:22
amass.jp/177573/

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ダメからバカへ。

ダメなやつから見ると、世の中バカばかり。とてもやってられない。
だが、バカなやつから見ると、自分以外はみんなダメ。あわれなやつらよ。おれを見ろ、このおれを。
ダメな自分から、バカな自分へ。
johf.com/memo/050.html#2024.9.

《速度への鋭い配慮、これを欠けば創造はあり得ないであろう。辛抱強く作り上げられた芸術作品というものに対して、湧き現れるものが対立する。それは歴史もなければ根もなく、即席的で時間の外にあり、突如生じたという様子をもつだけに一層明証的である。このような展望のなかにあっては、すべてを破壊することは修正を加えることにまさる。》――ミシェル・レリス『獣道』
johf.com/memo/050.html#2024.9.

深作欣二監督『上海バンスキング』放送予定
BS松竹東急 2024年9月19日(木)午後8:00~10:22
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なぜ、折口信夫ではなく、柳田国男を出したのか

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柳田国男博士が、黒い円形のボール紙のようなものを取りだして、しんとくに言う。

《これを、
ぴったり壁に貼りつけると、そこから壁の向こうへもぐっていける。
これ一つで、
世界中に出口ができる。
ゴムのように、
のびちぢみ自在、
持ちはこび自在、
こうして、小さくたたんで
のぞき穴にすることも、
床の上にひろげておいて
おとし穴にすることもできる。
ホラ、こうやって、
地面におくと、それでもう、
下へ降りてゆくことも
できるのだよ。》――寺山修司『身毒丸』

《一方の足に重傷を負うという目にあった事故のあと数年間は、人はジャコメッティがステッキをついて歩く姿をしか見なかった。そして、ある日彼はこの道具なしに歩くことを決心した。こう決めるとすぐ彼は支えなしに身体を動かした。同様に、彼の彫像もつねに、ステッキや松葉杖なしで立っている。》――ミシェル・レリス『獣道』

金谷治「芭蕉における荘子――江戸期の老荘受容と対比して――」
ajih.jp/backnumber/pdf/30_02_0

「荘子受容の歴史のうえに占める芭蕉の地位の重要さ」と論文末尾にあり。

他の関心もあってミシェル・レリスの『獣道』(後藤辰男訳)を取り寄せた。
原題は「Brisées」。巻頭にフランス語辞典の一節が掲げてあり、邦題の「獣道」とはかなり意味がずれている。

このずれについての訳者の弁は次のとおり。
《語義的忠実さからすれば、「折り枝(標識用の)」というのが穏当かもしれない。だがこれでは語義の一つの背後にある猟犬を使っての狩猟のもつ緊迫感、殺意、現実に起るであろう虐殺の印象は伝わりにくく思われ、Briser→Brisé→Brisées(折る→折られたところの→折り枝)という音が含む切迫感、不可逆的印象も何か間遠くなるように思われたのである。》

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けもの道だな、おれの。
二、三度来ただけだが、おぼえはある。
だが、どこへ行こうとしたのか。
そこへは行けたのか、行けなかったのか。
そもそも、どこへ行くつもりもなく、ただ来ただけか。それなら、いかにもおれらしいが。

ふと見ると、赤いカラスウリの下がった茂みのむこうに、別のけもの道。
人のにおいも混じって、どこへ行くのか行かないのか。

人は誰も過去を作り出す。ただ思っただけにすぎないのに、その思ったことをもって、過去もそうであったと思い込む。
記憶とはそのようなもの。
寺山だけが過去を創作してしまうのではなく、誰もが過去を創作する。

《記憶なるものの凡てが想起という経験を擬似的に説明するための形而上的仮構なのである。当然その想起以外に記憶の証拠となるものはない。こうして虚構に導いたものは想起経験の中で経験される過去性である。つまり、過去として何かが経験される、という想起経験の本質が自然に過去という実在を想定させてしまうのである。》――大森荘蔵「言語的制作としての過去と夢」

過去の創作は、基本的には無意識的に行われるが、意図しても行われる。
寺山の場合、意図的な過去の創作は文章作法の一部。エッセイでも、論文的なものでも、論旨を支える要所に、創作された過去が置かれている。

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《私が迷路に興味を持つようになった動機は、半人半牛の男が、螺旋状の中心でもの思いにふけっている一枚の画であった。
射手座生まれで、人馬宮に属する私にとって、この男(すなわちミノタウロス)の運命は、そのまま自分のことのように思われたのである。(……)何の科もなく半獣半人として生まれたばかりに殺されてしまうミノタウルスが気の毒でならなかったが、それは私自身の生まれ月(ホロスコープ)のせいと言うべきだろう。》――寺山修司『不思議図書館』

上半身が人間で下半身(性)が馬のケンタウロス。
上半身が牛で下半身(性)が人間のミノタウロス。
前後をあわせ読むと、寺山はケンタウロスとミノタウロスをいっしょくたにして、上半身が人間で下半身(性)が牛のミノタウロスをイメージしていたように見える。
記憶を創作する際の手抜かりといったところか。

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Googleアラートに「上海バンスキング」を登録しておいたら、こんなのが届いた。
x.com/chihokumada/status/18097

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