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少なからぬ日本人にとって、漢文は学習コストの最も小さい外国語ではないか。
千年、二千年前の文章でも、全体の9割がた、いや、それ以上だな、大部分は知ってる文字で構成されている。
難しさのほとんどは教養に関するものであって、文法的に難解なのではない。名詞の格変化もなければ、動詞の時制もない。その点では現代日本語よりやさしい。
漢和辞典を引きまくれば、とくに勉強しなくてもかなりの程度まで理解できるのではないか。――

と、安易にまとめてみたが、現実はそうもいかない。
宿題。次の文を訳せ。

方外之與方內,其不相及亦遠矣。穆王,方之內者也;化人,方之外者也。西方主金,金為從革,故化人之來必自西極也。物本非有身,原太虛化人造物之主也,六合所不能拘,五行所不能役,故可以撮乾坤于黍米之中,促劫運于須臾之內,綽綽然猶有餘地,至于入水火,貫金石,反山川,移城邑,變物之形,易人之慮,皆平常閑事爾。
ctext.org/wiki.pl?if=en&chapte

『列子』にある壁抜け男のことは前に書いた。
fedibird.com/@mataji/111303871
fedibird.com/@mataji/111311452

これらの話に、「金石を貫く」「金石を游(くぐ)る」とあるのを壁抜け術と解したが、まったく同じ表現が、唐代の出来事として唐代の書『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』に出てくる。

《張魏公在蜀時,有梵僧難陀,得如幻三昧,入水火,貫金石,變化無窮。(……)僧不欲住。閉關留之,僧因是走入壁角,百姓遽牽,漸入,唯余袈裟角,頃亦不見。(……)僧已在彭州矣。後不知所之。》
zh.wikisource.org/wiki/酉陽雜俎/卷五

蜀の地に難陀というインド僧がいて、水火をくぐり金石を貫き、そのほかさまざまな幻術や予言をした。ある時、成都で僧を供養した者がいたが、僧が逗留をきらったので部屋を締め切って引き止めると、僧は壁の中に逃げ込んだ。しばらく僧の姿が壁に残っていたが、しだいに薄れて七日目に消えてしまった。そのとき僧はすでに彭州にいた。その後のことはわからない。

紀元前10世紀の出来事と唐代の出来事が、同じ「入水火、貫金石」という表現で伝えられることをどう考えるか。
人が壁を通り抜ける。これは誰もが思いつくことなのか。

[参照]

戯曲「身毒丸」の先生とまま母は同一人物か。
まま母が先生に化けているのか。
この話が少し怖い。

フィクションに対して野暮な言いがかりだが、先生がしんとくに先回りして自宅に帰り、まま母にもどって夕飯のしたくまで終えている。そんなことは物理的に無理。ということは、先生とまま母は別人でなければならない。
先生とまま母が別人なら、この世にまったく同じ造形の人物が二人いることになる。
ということはドッペルゲンガー?
いや、そうではないだろう。ドッペルゲンガー現象には主体が欠かせない。ある人がどこかで、月夜の海岸だったり劇場のロビーだったりで、自分を見かける。そんなことが二、三度も続くと、そのある人はまもなく死ぬという。死ぬか死なないかはともかく、この「ある人」が現象を認識する主体である。
ところが「身毒丸」のケースはドッペルゲンガーもどきであって、自分を見かける主体がない。どこにも自分がいない。
いわば主体なきドッペルゲンガー。そこのところが少し怖い。どこにいるんだよ、自分。

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しんとく「ぼくのまま母は先生によく似ている。」
先生「……」
しんとく「もしかしたら、先生の正体はぼくのまま母なんじゃありませんか! ぼくのほんとの母は髪がみじかく、日なた草のようにいつもあたたかかった。ところが先生も、まま母も、真っ黒く長いぬれ羽色の髪の毛をもっている。」
先生「よめたわ、しんとくさん。あなたの狙いは、せっかく家庭におさまったお母さんを、なんとか追い返そうという魂胆なのですね。」

寺山修司の戯曲「身毒丸」の教室の場面。
先生がしんとくのズボンをぬがせ、鞭をふりあげたところで他の生徒もふくめ教室全体がストップモーションに変わる。
変調した学校唱歌が遠くから流れてくる。
しんとく一人が、ふいにストップモーションから抜けて走り出す。

しんとく「今だ! いま、大急ぎで家へ帰れば、僕の方が早く着くだろう。そうすりゃ、先生に化けたまま母の正体がはっきりするのだ。」

ところが家に帰り着くと、しんとくの父、まま母、その連れ子のせんさくがちゃぶ台を囲んでいる。どう先回りをしたのか、まま母はすでに家にもどって、晩ごはんのしたくを終えていたのだった。
(この件、つづく)

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人類最初の探偵はアダムだとする説。

《ある日、アダムは脇腹が痛むので目をさました。
「ヤッ、これは……」と彼は叫んだ。「誰かが、私のアバラ骨を盗みやがった……」(人類初の窃盗事件)
「ここにあるわよ」
と、背後で甘い声がした。(人類最初の手がかり)
アダムは素早くふりむき、美しい女を見た。(事件に登場した最初の女)
「お前が?」とアダムは苦しそうにあえいだ。
「そうか、そこにあるのが私のアバラか……だが、これは一体……?」(人類初のミステリー)
「ええ、私がもっているのが、あなたの失くしたアバラ骨よ」(人類初の告白)
「馬鹿な!」とアダムは舌打ちした。
「おまえの名は何と言うのだ?」(人類初の尋問)
「私、イヴ(夕方の意)よ」
と、女が答えた。アダムは、首をかしげた。
「おまえは、どちらかというと、夕方でなく、モーン(朝の意)って感じだよ」(人類初の事実誤認)
そこでイヴは頬を赤らめて去り、モダンなイチジクの葉を着けてもどってくる。(人類初の変装)》――寺山修司『幻想図書館』

ニュートン・ニューカークというたぶん実在しないミステリー・マニアの説という。

推理小説における探偵の本質的三枚目性を補うもの。

シャーロック・ホームズとワトソン博士の関係は、本来ホームズが担うべき三枚目性をワトソンが肩代わりし、ホームズにおいて露呈するのを防いでいる。
探偵小説の創始者とされるポーの作品では、探偵オーギュスト・デュパンがまとうべき三枚目要素を、語り手の「私」が肩代わりする。それに加えて「盗まれた手紙」では警視総監が大々的に三枚目を演じる。
筆名をポーにならった江戸川乱歩の場合、肩代わり役もポーにならって「私」がつとめ、明智小五郎を引き立てる。
横溝正史の作り出した金田一耕助は、事件が決着するまでつねに事態に先行される。肩代わり役がいないため、三枚目性を自身が担う。

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推理小説の特殊性。
ほとんどの推理小説は、作者が壁を通り抜けてから書きはじめられる。
事態に先行する作者 vs つねに遅れて現場に駆けつける探偵。
推理小説の仕組みを知らされないまま、壁の手前で苦労させられる三枚目、その代償としての探偵の名声。

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安岡章太郎は『私説聊斎志異』を書き上げることで壁抜けを果たした。
これは特別なケースか。
むしろ、小説一般、創作一般に言えることではないか。
意識的にしろ無意識にしろ、創作という営為は壁を通り抜けようとして行われる。通り抜けたらそこで完成。抜けられなければ未完、あるいは失敗作。

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自分が自分の他人になること。

《どこへ行っても私がいる。
どこへ行っても他人がいない。畜生。ハンフリー・ボガートめは、うまいことしやがった。
あの人は映画の中でも死ぬことができた。映画の外でも死ぬことができた。地球を二つに割って、その片方に腰かけて、もう一つの片割れがスクリーンの中をゆっくり浮遊するのを見ながら自分で自分の他人になることが出来たんだ……
だが、私は私自身の他人にはなれない。私にはスクリーンがない。
私が映画の中で死ねると思いますか?》――寺山修司「さらば、映画よ」

「さらば、映画よ」は二人の同性愛者の会話からなる戯曲。雑誌『悲劇喜劇』で1961年発表、改稿を経て1968年初演。

1974年、映画『Les Autres』、カンヌ映画祭に出品。監督ユーゴ・サンチャゴの制作ノートによると悪評だったらしい。
1974年、寺山修司脚本・監督の『田園に死す』公開。
1975年、エディンバラ映画祭の「寺山修司特集」にあわせて寺山現地へ。

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シーン44

ヴァンセンヌの森。翌朝。
ヴァレリーが女友達の一人と馬に乗っている。彼女は笑いながら、おしゃべりをしている。一人の若い騎手がギャロップで近づいてきて、急に立ち止まり、彼の馬が荒い息をしているあいだ、ヴァレリーを見つめている。(彼が遠ざかって行く前に、われわれはその人物がマチューに似ていることを認めた)ヴァレリーの友人は笑い出す。――同前

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同じく、スピノザの述懐。
前にも見たが、前後を追加して再掲。

《私があの男たちだったのだ。私が鏡のなかに現れた男だった。私が魔術師だった。私がヴァレリーをたたいた狂人だった。私がヴァレリーのもう一人の愛人、騙された愛人もこの私だった。息子の死後、私は一人の人間から他の人間に変わった。それから、また別の人間に。私の存在は何の意味もなく、すべてが向こうからやってきて、私を奪い去った。とつぜん、私は他人になった。あんたにはこのことがみんな分るはずだ。あんたがその目撃者だったのだ。はみだした男であった私が何を望んだのか、私はしらない。どんな他人が私を待っているのか、私は知らない。ここにいるスピノザ、この私自身も他人なのかどうか、私はしらない。》――同前

「はみだした男」とあり。
これは「les autres」の訳語。映画『レゾートル(Les Autres)』の邦題でもある。

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映画『レゾートル(Les Autres)』の主要人物スピノザの述懐。

《私が子供だった頃、いちどサン・ジュリアンに行ったことがあります。私は迷子になろうとして、一人で砂丘を歩いた。私は砂の中で生まれ、砂の中で死ぬだろうと考えていましたよ。(間)たいへん気分がよかった。だから、これなんだ、これが生きることだ、そして、それは何でもないことだと思っていたのです。(間)今こそ、私はそこへ戻らなくてはいけないんです。》――山崎剛太郎訳

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《パリには、私の好きなホテルがいくつもある。
中でも、かつてヘンリー・ミラーが愛したクリシーの安宿のベッドが印象に残っている。
娼婦と行きずりの男が、一夜だけの愛をかわした記念に、
イニシアルを彫りこんだり、拷問具をくくりつけたり、枕の下に拳銃をかくしたりした、無頼漢の思い出の残るベッド。
そして一人旅の長い夜をもてあまして、とうとう一睡もせずに、
シムノンのメグレ警部ものを読みあかしてしまったベッド。
東洋人の双生児の姉妹が心中した、といういわくつきのベッド。
ベッドの一台ずつに人生のドラマが沁みついている安宿で…》――寺山修司『幻想図書館』

自分の書くものに少なくとも一つ嘘を混ぜ込んでおく。
そういう習慣はどうだろう。
そうしておけば、
資料とか、論理とか、かならずしも本質的でないことに気を使わなくてすむ。

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小説家である私は、長編小説を書くために寺にこもるが、ついに書けずに終わる。――というのが安岡章太郎が自身を題材に書いた『私説聊斎志異』のストーリー。
ということは、私は小説を書き上げたのである。してやったり。一種の壁抜けを安岡はやってみせたのではないか。

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ヘンリー・ミラー『暗い春』の「私」は、自分が何度も死に、何度も生まれ変わったことを肯定的にとらえている。
fedibird.com/@mataji/111167994

それに対し、上で引用した映画『Les Autres』の主人公スピノザの台詞は、この限りでは否定的なものに聞こえるが――
この人物について、ある評者は、
《偽りのアイデンティティー、書物、普段の身振りから抜け出るに従って、また自分に出会うのだ。》
として、次のように言っている。
《スピノザは神秘的で荒々しい輝ける複数の人物、他者(はみだした男)に姿を変える。(……)スピノザがみずから分解してゆくにつれ、彼の眼差しもいきいきとしてくる。そして彼はアルゼンチンの海辺のようなアキテーヌ地方の海辺の風のなか、ピカソが描く以前にクラナッハが描いたような身体を持つ一人の女の傍にいて幸福に近づくのだ。》――アラン・トゥレーヌ「他者たち」(千葉文夫訳、『夜想#16』)

なるほど、この映画も自分を捨てて他者になることを肯定してるわけだ。
で、どうしよう。シナリオの訳文は『夜想』に載ってるし、映画もYouTubeで見られそう。成り行きにまかせてこちらを少し追ってみるか。それとも切り上げるか。

[参照]

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上の引用は、天井桟敷「レミング」の制作と上演について書いたものの一部。
たんに「他者」で済みそうなところを「レゾートル(外部の人)」としてるのが気になって調べてみると、脚本J・L・ボルヘス+A・B・カサーレス、監督ユーゴ・サンチャゴの「Les Autres」という映画があり、エディンバラ映画祭で見て刺激された寺山は、サンチャゴ監督から送ってもらったシナリオに基づいてこの映画を論じたという(『夜想#16 特集・ボルヘス/レゾートル――はみだした男』)。寺山の使った「レゾートル」はこの映画に由来すると見ていい。

映画「Les Autres」の主人公スピノザの台詞。
《息子の死後、私は一人の人間から他の人間に変わった。それから、また別の人間に。私の存在は何の意味もなく、すべてが向こうからやってきて、私を奪い去った。とつぜん、私は他人になった。》――山崎剛太郎訳

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地図の上で私は江戸にいる。暦の上では今は19世紀の半ば。
だが事実を言えば、私は江戸にいるのでもなく、今は江戸時代でもない。
私は女装して、鎌倉時代の鎌倉にいる。
もと江ノ島で年季勤めの稚児あがり。
枕探しにはじまって、見よう見まねの白波さ。

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マルセル・エイメ「壁抜け男」の主人公について、寺山修司の論。

《デュチュールにとって、個人的な内面生活など、どうでもいいことであり、ただ単なるレゾートル(外部の人)として、三級役人の勤めを全うすることだけが、日常の現実だった。
 しかし、彼が「壁抜け男」として他人に認知されたときから、彼の生活の内面化がはじまるのである。壁は、壁として了解されたときから、三級役人デュチュールの中で解釈され始める。そして、とうとうデュチュールは壁を通り抜ける途中で壁の厚さを了解し、能力を失って、壁の内部に閉じこめられてしまうのだ。》――寺山「壁抜け男の神話学」

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