道士からもらった薬を飲むと障子を通り抜けられるようになった。――
という壁抜け術のバリエーション的な話が『聊斎志異』にあるのをみつけた夢。
薬の名前がローマ字で書いてある。
17世紀の中国の書になぜローマ字が混じってるのか。
訳者の注などから思うに……
https://johf.com/memo/023.html#2022.6.22
同名の原作『八犬伝』は、『南総里見八犬伝』のストーリーと作者・滝沢馬琴の実生活を交互に書き進めて、馬琴の創作過程を追った山田風太郎の力編。
読みどころのひとつに、江戸文化の爛熟期を代表する巨人たち、滝沢馬琴、葛飾北斎、鶴屋南北が、中村座の舞台裏(奈落)で創作論を交わすくだりがある。映画にしにくい場面だからどうなるかと見ていたら、三者の会話がかなり忠実に再現されていて、納得。原作とは出入りの大きい脚色だが、この場面はやはり大事にしたかったのだろう。
映画では言及がなかったが、馬琴と北斎を南北のいる舞台裏に案内した人物は、原作では鼠小僧次郎吉。まったくの脇の人物なので、三巨人の会話とは逆に、フィルムを費やしたくなかったのだろう。
『八犬伝』本予告
https://www.youtube.com/watch?v=TXGAj0ld5fI
山田風太郎の原作をどう映画に仕立てるか。そんな興味で映画版『八犬伝』を見てきた。
映画公式サイトはこちら。
https://www.hakkenden.jp/
小説では描ききれないスペクタクルをVFXを駆使して展開、中でも利根川を見下ろす楼閣の屋根で犬塚信乃と犬飼現八が戦う芳流閣の場面は上々の出来。予告ビデオでもその一端がうかがえる。
《クロ現「虎に翼」の脚本家吉田恵里香氏。寅子を彷彿とさせる、竹を割ったような方だと感服。「マジョリティーでいる以上必ず誰かを傷つける」ゆえにマジョリティー側が社会を変えなくてはならない、と。》
https://x.com/yuu_iwatsuki/status/1838900856298619148
米津玄師 - さよーならまたいつか! Kenshi Yonezu - Sayonara, Mata Itsuka !
https://www.youtube.com/watch?v=-wb2PAx6aEs
《強さとは何ぞやと考えたとき、そこはキレなきゃいけないよなって。どうあがいてもキレる必要がありますよねということを、この曲に宿すべきだと思ったんですよ。初の女性弁護士として、獣道をかき分けながら、先頭に立っていろんな道を整備してきた人たちの生き様を振り返ると、そこには並々ならぬエネルギーがあったんだろうと思うんです。お行儀よく、誰の気分も害さないような、優等生的に機会を待って様子を見ながら生きてきた人では決してないと思う。むしろ「知るか!」と言って、「私はこうありたいんだ」ということを人に示す力がある人たちが、そうやって道を切り拓いてきたような気がするんです。》
――米津玄師「さよーならまたいつか!」インタビュー|“キレ”のエネルギー宿した「虎に翼」主題歌 - 音楽ナタリー 特集・インタビュー
https://natalie.mu/music/pp/yonezukenshi26
ブログ名を「壁抜雑誌」に変更
ダメからバカへ。
ダメなやつから見ると、世の中バカばかり。とてもやってられない。
だが、バカなやつから見ると、自分以外はみんなダメ。あわれなやつらよ。おれを見ろ、このおれを。
ダメな自分から、バカな自分へ。
https://johf.com/memo/050.html#2024.9.15++
《速度への鋭い配慮、これを欠けば創造はあり得ないであろう。辛抱強く作り上げられた芸術作品というものに対して、湧き現れるものが対立する。それは歴史もなければ根もなく、即席的で時間の外にあり、突如生じたという様子をもつだけに一層明証的である。このような展望のなかにあっては、すべてを破壊することは修正を加えることにまさる。》――ミシェル・レリス『獣道』
https://johf.com/memo/050.html#2024.9.9
金谷治「芭蕉における荘子――江戸期の老荘受容と対比して――」
https://ajih.jp/backnumber/pdf/30_02_03.pdf
「荘子受容の歴史のうえに占める芭蕉の地位の重要さ」と論文末尾にあり。
人は誰も過去を作り出す。ただ思っただけにすぎないのに、その思ったことをもって、過去もそうであったと思い込む。
記憶とはそのようなもの。
寺山だけが過去を創作してしまうのではなく、誰もが過去を創作する。
《記憶なるものの凡てが想起という経験を擬似的に説明するための形而上的仮構なのである。当然その想起以外に記憶の証拠となるものはない。こうして虚構に導いたものは想起経験の中で経験される過去性である。つまり、過去として何かが経験される、という想起経験の本質が自然に過去という実在を想定させてしまうのである。》――大森荘蔵「言語的制作としての過去と夢」
過去の創作は、基本的には無意識的に行われるが、意図しても行われる。
寺山の場合、意図的な過去の創作は文章作法の一部。エッセイでも、論文的なものでも、論旨を支える要所に、創作された過去が置かれている。
《私が迷路に興味を持つようになった動機は、半人半牛の男が、螺旋状の中心でもの思いにふけっている一枚の画であった。
射手座生まれで、人馬宮に属する私にとって、この男(すなわちミノタウロス)の運命は、そのまま自分のことのように思われたのである。(……)何の科もなく半獣半人として生まれたばかりに殺されてしまうミノタウルスが気の毒でならなかったが、それは私自身の生まれ月(ホロスコープ)のせいと言うべきだろう。》――寺山修司『不思議図書館』
上半身が人間で下半身(性)が馬のケンタウロス。
上半身が牛で下半身(性)が人間のミノタウロス。
前後をあわせ読むと、寺山はケンタウロスとミノタウロスをいっしょくたにして、上半身が人間で下半身(性)が牛のミノタウロスをイメージしていたように見える。
記憶を創作する際の手抜かりといったところか。
Googleアラートに「上海バンスキング」を登録しておいたら、こんなのが届いた。
https://x.com/chihokumada/status/1809783095232761989