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「ケイコ 目を澄ませて」を観た。たいへん良かった。荒川区のボクシングジムを舞台とした、生まれつき聴覚に障害のあるケイコという名のプロボクサーのお話で、川辺の景色のザラっとした質感と抑制された音響が印象深かった。ケイコがデジカメを操作しながら母親の撮った自分の試合の記録写真を確認するシーンで、徐々にカチカチというボタン操作のSEがなくなりやがて無音になる演出や、ケイコの友人同士の手話でのお喋りには字幕がつかず、一気にこちら(非手話発話者)が内容を推測して「読む」側になるという転換も面白かった(たぶん手相の話題で盛り上がっていた)。言語によって世界が複層的にあるという手触りと、川の上を高架の首都高が走る墨田や荒川の景色がなんとなく響き合っているようにも見えた。北千住や浅草の見慣れた街並みがたくさん出てきて荒川区のヒーローとしては様々な感情が忙しく動いたし、最後のシャウトは涙が出た。ケイコにボクシングの才能はないと記者に語る会長発言は我々に生まれながら所与のものとして与えられた「やっていくしかなさ」にも言い及んでいると感じたし、俄然やっていくしかないだろう。帰ったら私も爪を塗りたいと思った。

今年からcore of bells(以下コアオブ)とhonninmanの共同企画「限りなく退屈に近いハイ」がスタートするので元日から告知を頑張っている。ただ正月は告知に向かないと後から聞き完全に「しまった」と思っている。コアオブはハードコア・パンクバンド、かつアーティスト集団で、私がこの世で最も尊敬している人達である。特にドラムの池田武史氏の影響は絶大で、私の思考も嗜好も氏の受け売りだらけで「それはそれでどうなんだ」という声がそろそろ聞こえてきそうではある。そもそもは大学のトーク・イベントに現代美術作家の小林耕平氏をお招きした際、小林氏と一緒に創作をしている面白い人達としてコアオブの名前が出たのが彼らを知るきっかけだった。その後、2014年に今は亡き六本木SuperDeluxeで一年を通じて行われたコアオブ主催の伝説の月例企画「怪物さんと退屈くんの12ヶ月」にボランティア・スタッフとして参加。そこから9年を経て、一緒に企画が作れるのだから感慨が深すぎる。第一回は2/11に早稲田RiNenで開催。ゲストはなんと解体ザダン壊の相棒uamiさんで、座組みがかなりの最高さなので全員来て欲しい。

帰省もせず紅白も観ず、かと言ってイベントなどにも足を運ばず、自宅でぬるっと年を越してしまった。紅白の放送中、あいみょんとhonninmanの誕生日が同じという有益情報をツイートする重要な義務があったのだが、忘れた。だいたい毎年言っているが、去年もずっとずっと楽しかった。いくつか新しい事も始められた。ただ、できたのにやらないままにした事も多くあり、それについては後悔で、やっていくしかない。今日は珍しくテレビをつけっぱなしで過ごしていて、さっきまでは芸人の旅番組が、今は地球ドラマチックが流れており、渡辺徹のナレーションがいい。故人であれ録音されてあればその声は何度でも聴けるので、「再び生きると書き再生」とはやはりうまい。今年は私もたくさん吹き込みたい。年末も特に何もしなかったが、30日に会社の友達とバーガー屋でお茶をして、2時間喋った。昔は会えば本や映画や音楽の話ばかりをしたのが、最近は家庭の問題とか、仕事の話とか、だいたいそんな感じで「ちくしょう、人生ばかりではないか」とは思うが、俄然やっていくしかない。この日報はとりあえず200日ほど続ける事にしているので、今年もよろしくお願いしたい。

3年くらい前に書いた劇場版honninmanのオープニング・ロールを(今読むと『そうかあ?』と思う部分も多いが)供養する「効率至上主義が蔓延る21世紀初頭。溢れ返る情報。加速する世界。忘れっぽくなる人類。広告効果も自尊心も全ては数値化・定量化。細切れになった時間の中、コスパの高低は世の最大の関心事。個人の興味は細分化され、見たいものだけしか見ずとも生存可能なインフラは整備済み。そこでは文脈や歴史の読み込みより、感情移入と没入こそが至高。表層だけを凝視すれば何かが言えた気持ちにインスタントに到達可能な考察コンテンツは大いに便利。お笑いマナーと効率至上主義は結託し、即効性や有用性が低いと見做されし思考と語りを速やかに退場させる。やがて人間の感応レンジは狭まりゆき、機微喪失の時代が訪れる。到来する、セグメンテーション・ディストピア。効率性の度合いに指標を持たない別様の思考の粘度を日々高め、スベる・スベらないに回収されない語りの強度を鍛錬し、感性の摩滅から遠ざかった地平にきっとあるって信じたい、幻の未来を勝ち取るが為、荒川区でひっそりと『本人再生塾』という私塾を開く男がいた。彼の名は本人マン」

夜中に「メン・イン・ブラック2」を観ていたら、故ビズ・マーキーが田舎町の郵便局で働いていて驚いた。ウィル・スミスと何故かヒューマンビートボックス言語で会話をしていて、流石はビズ・マーキーだと思った。宇宙人は人間社会に密かに溶け込んで暮らしていて、その事を地球人の大半は知らずに生きている、という本シリーズの基本設定は、ひとつ間違えると差別扇動的な側面があるのでは...?と幾つかの危うげな描写を観ながら素朴に思ったりもしたが、歴史的には「隣人はもしかして宇宙人?」に類する恐怖や想像力が、アメリカを生きる人々には長らく身近なものとしてあり、フィクションの世界でそれは繰り返し反復されてきた、みたいな話なのかなと思う。前作に引き続き、登場するガジェットのデザインはどれも気が利いていて楽しいし、レンタルビデオ屋の会員証の履歴情報に事件解決の手掛かりが刻まれているくだりはなんらかのロマンがあって良かった。このところ地上波で幼少期に観たか観ていないかの記憶が絶妙に曖昧な、90-00年代のアメリカ映画を寝る前にぼんやり観るのが習慣になっていて、人間の晩年、或いはちびっ子の冬休みっぽい気持ちになっている。

10年以上昔の話だがインドに1ヶ月ほど滞在し、そのうち3週間をインド東部はシャンティニケタンにあるサンタル語族の村に通って過ごした。サンタル語族は少数語族で独自の文化を今に残して生きている。土壁で出来た藁葺きの家が建ち並ぶ、電気もガスも水道もないその村で体験した様々な出来事について、過去に幾度かトーク・イベント等で話してきたが、ハイライトとなるのはどうしても、滞在初期に遭遇した食や排泄に纏わる諸々の文化的相違についてのエピソードである。これを食べるのですか?これを飲むのですか?ここで、それを、するのですか?所変われば何から何まで暮らしは違う。ところで「アバター」を2作続けて観たが、ナヴィ族の排泄を描けとは言わずとも、彼らの食文化も遂にわからず、自然との卓越した共感能力ばかりが繰り返し描かれるのは流石に妙だと感じる。え!?これをここで食うんすか!?と言ったシーンひとつなく、無闇に理想化・美化・神秘化された先住民の暮らしは、それはそれで文化を収奪してきた側の上から目線による表現なのでは?と思ってしまう。「第9地区」との比較論の昔から、ずっと言われてきた事とは思いつつ、改めて感じたので書く。

「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」を観てきた。あえてイケてないレビュー風に書くと「転勤で知らない土地に家族皆で移ってきたら、息子達は学校でイジメにあったり自治会長の娘と恋に落ちたりで毎日てんやわんや!お父さんはあちこちに気を遣ってばかりでもう大変!お母さんもイライラしっぱなしで肩身が狭い!やっと新しい暮らしに慣れてきたと思ったら、昔の上司が地の果てから追いかけてきて死ぬほどしつこい!」というお話で、ひたすら家族とはかくあるべし、父とは、兄とは、自然との接し方とは...等々、なんらかの「かくあるべき」規範を示され続ける怒涛の3時間12分だった。家父長制的な家族のあり方を疑ったり、「〇〇に生まれたならこうあれ」と言った役割の呪いに縛られない生き方を示したり、古い規範を再生産してきた物語をもう一度検証しようとする手つき等は一切なく、かくあるべき正しさについてのご高説を賜る作品で壮絶だった。個人的には父親がずっとトーン・ポリシングをしているのが気になった。誰かが感情的になるとすぐに「まずは、冷静に」などと言っていて、「やめとけ」と思った。昔の大作ってこうだったなぁ...と再び思って帰った。

年の瀬なので自己啓発をする。honninmanには大事な事をとにかく後回しにする悪癖(※半ば病的)があり、それが身の回りの各方面でとっくに限界を迎え激しく軋み倒しているのでいよいよなんとかする。いや「なんとかする」では何も変わらないので問題を分解し具体的な解決フローをきっちりと描き、そのように動く。動くしかない。遥か太古の記憶だが、三次曲面のある立体を、パネル材を用いて制作する方法について、目上の方から教わった事がある。カップヌードルの容器をそのまま巨大化させたようなシンプルな造形物ではあるが、完全に平面の板の集積からそれを削り出すのには当然ノウハウがいる。図面の引き方からパネルソー、電ノコやサンダーの扱い方から仕上げまで、手取り足取り教わった。教えてくれた方曰わく、パネル材による三次曲面制作の醍醐味は、途中から自分が予め決められたフローを淡々と処理していくマシンと化す事にあると言う。「その感覚、実際やってみて、自分、めっちゃわかったっす!」と調子のいい事を言っていた当時の自分を思い起こし、山積された人生のあらゆる問題の解決フローを描いて真顔で粛々とやっていくしか本当の本当に道がない。

「アバター」を12年ぶりに観たがとことんまで男性キャラが阿呆だった。公開当時は「第9地区」の方が偉くて「アバター」は駄目、という一部論調があったような記憶だが、男性の阿保さに関しては「アバター」も大健闘だと思った。阿保だけど憎めないとか(ピュアis正義問題)、そこに自己投影が出来てこちらも救われる(ボンクラ自己肯定問題)とかでもなく、全員ひたすら腹立たしい阿保さ加減なので、序盤は観ていてしっかり男性が嫌いになる。しかも、なんせ白人酋長モノなので、結局白人男性が世界を救う結末で、やっぱり男性にちゃんと腹が立って終わる。ナイーブですぐにエモくなる傷つき易いナルシスティック男性さえ1人も出てはこず、あるのはマッチョばかりであり、まともな人間は全て女性である。その雑なステレオタイプ自体がそもそもどうなんだという話も当然あるし、お前も男性だろうが!というブーメラン含みではあるが、久々に観たら気になる部分が昔と随分違っていた、という話である。前半は楽しいが、後半のしつこさは大変なものがあり「だいたいわかった」からが本当に長い系の作品で、昔の大作ってこうだったなぁ...となる。新作は観に行くと思う。

竹内洋の「教養主義の没落」という本に、和辻哲郎が、対話体のエッセイの中で、教養の浅い若者にゴリゴリの教養マウンティングを仕掛けるくだりが紹介されていて面白い。若者は自分の創作がやってみたい、しかし和辻哲郎に「その前にまずは世界の無数の傑作の前にひざまずき給え」と一喝され、「文化の重み、わかってきたっす...」とこぼして若者は創作意欲をクールダウンさせる。私自身がまさに見えざる教養主義者を勝手に内面化させ、「もっと万事に通じてから作り始めなさい」との内なるゴーストの囁きを、自分の臆病さの言い訳にして何年も何も作らず微睡んでは人生を空費した、リアル山月記さながらの実績があるので、この辺りの話は割と刺さる。教養主義については様々な議論があると思うし、実際難しい話ではあるが、私の場合は「この人には逆立ちしても敵わない」という一人の先輩からたいへん多くの事を教わった、ありがたくもハードな時間がなければきっと作れなかった物、感じられなかった事が山とあるので、もののけ姫のサン風に言えば「教養豊かな某先輩は好きだが、マウントをとる人間は許せない」というスタンスになるかも知れないしならないかも知れない。

上京後ほんの暫く関西弁を使っていたがすぐにやめ、関西弁話者と話す時以外は標準語を標準にして生きてきた。理由は幾つかあり、上京してまもなく頻発した自身の「作品プレゼン」というデス・イベントの際、関西弁を使用すると「和み度」や「ウケ度」的にチート感があり、これが癖になるといけないと思いやめたのがひとつ。もうひとつは藤原紀香エフェクターを過剰に踏み込みたくないという思いがあった。これは説明が難しく、かつ藤原紀香さんに失礼なのでとても申し訳ないのだが、関西弁話者である事を関東圏でことさら強調する関西弁の運用の事を「藤原紀香エフェクターを過剰に踏み込んだ状態」と私は呼んでおり「自分は藤原紀香エフェクターを踏み込みたくない→非関西弁話者からすれば藤原紀香エフェクターを踏み込んだ状態か藤原紀香エフェクターを踏み込んでいない状態かの同定は困難→自分は藤原紀香エフェクターを踏み込んでいないと自認していても周囲からは藤原紀香エフェクターを踏み込んでいると思われる可能性もままある→藤原紀香エフェクターの前に配置された関西弁エフェクターをそもそも踏まない」という逡巡と決断のプロセスの果てに関西弁を私はやめた。

7年前の12月はスター・ウォーズの事ばかり考えていた。新作「フォースの覚醒」の公開に世界中が熱狂しているように見えた。就職したばかりの年で家庭の問題もまだ抱えておらず経済的に余裕があった。やりたい事も特になく、オタクになりたくて雑な散財をした。公開初日に観て、すぐまた大スクリーンで観て、その後も何度か劇場で観た。なんなら大阪のエキスポシティにある、当時日本で唯一と言われた次世代レーザーIMAXシアターまでわざわざ出向いて観たりもした。アートブックやおもちゃも買い、イラストを描いてinstaに投稿したりと「大人になったら子供になろう」を実践していた。しかし次作の「最後のジェダイ」がかなりの問題作でドン引きしてしまい、シリーズ最終作「スカイウォーカーの夜明け」が公開される頃にはヒーロー活動も始めており忙しく、物語もあまりピンとこないままサーガは完結、「レイさんかわいい」くらいの感想しかその時は特に出なかった。その後量産の始まったドラマシリーズも追えておらず、数年のうちにスター・ウォーズを完全にやめてしまったが、代わりに偉大なるhonninmanサーガを毎日更新しているので少しも寂しくない。

友人の劇作家と沖縄料理屋でご飯をした。劇作家が音楽をやってみたいと言うので、絶対にやった方がいいと思うと力強くヒーローは答えた。何かのスタートに遅いも早いもないので、こういうのって、つまりはやっていくしかないんですよねとhonninmanは真剣な調子で繰り返し、2軒目の、豆電球みたいな灯りしかない江戸時代の夜のような暗さの店で、知らないクラフト・ビールを通の如き顔で注文してへべれけになったりした。店の向かいにレコード・バーの店舗があり、劇作家がインターネットで口コミを即座に調べたところガタガタに酷評されていて、東京は怖いと思った。演劇界の抱える構造的な問題について、老いた親のケアと社会的包摂性のこれから、書き言葉と話し言葉の差異、コロナ禍初期に乱立したZOOM演劇の再考、保守の身体性とヤンキー、来年の抱負、菅刈に巨大邸宅を持つ野望など、割としっかり真面目な話を沢山して良いお年をと互いに言い交わして別れた。気が大きくなっていた。帰りがけ、別の友だちの名前が街の巨大な街頭ビジョンにバキバキに映し出されているのを見て、honninmanよ、お前こそやっていくしかないだろうがよ...と思った。

断水が夜まで続き「復旧の目処がこのまま何日も立たない場合、生活に支障もあるだろうから、最悪こちらでホテルを手配するのでその時はよろしく」と管理会社に言われ恐ろしくなり、気を鎮める為スーパー銭湯に行く。入館料は高めだが、サウナから食堂、仮眠室から整体までの揃った巨大施設が近場にあるのはありがたい。大浴場の湯けむり濃度は少し異常で、視界のほとんどゼロな空間から全裸の知らない男性がぬるっと出現しがちで気は抜けず、サウナではマツコ・デラックスの番組が流れていて口が悪い。塩サウナでは明石家さんまの番組が流れており、色恋のあけすけな話ばかりでこれがまたしんどい。露天では大学生風の若者がかなりの下衆な話題でたいへん盛り上がっており居場所がない。潔癖ぶりたい訳ではないが、とりあえずサウナには北欧の哲人気分で入りたいのでダンジョン・シンセなどを流して欲しい。「しばらく銭湯通いになるか...」と暗澹たる気持ちにうなだれながら、閉館ギリギリまで湯船で身体をほぐしてダラダラと帰宅、試みに蛇口を捻ったところ水道は完全に復旧しており肩透かしもいいところで、「ありがてえ、ありがてえ」と独りごちながら用を足して寝た。

朝から水が止まっている。水道局に電話をかけたが支払いに問題はなく、管理会社によれば原因不明の断水でありごめんなさいとの事。洗濯がしたかったので悔しいし、原因がわからないのは怖い。部屋でぼんやりしながら、現在は廃墟となった亡父のアトリエは井戸水で、使い過ぎるとすぐに水が枯れ難儀だった事、などを思い出す。古めかしい造りの日本家屋の、北西の角にある深い井戸は、蛇口を捻るとけたたましいモーター音を響かせて、家のあちこちに水を届ける。そこは土間で、ひんやりといつも暗く、吊ってある緑の傘の電灯は寂しく、甲高いモーター音は異様な鳴りをして恐ろしい。最近「IT」の原作をダラダラ読んでいるが、アメリカの子供が地下室を怖がる感覚ってこんな感じだろうか、と適当な想像をする。怪談やホラーに井戸がつきものなのもわかるような気がする。怪奇と言えば、庭の流しで、掘り起こした野菜を洗う為に、山の猿たちが勝手に蛇口を捻って水を使い、井戸を枯らした事もある。夏には冷たく、冬には温かい井戸水だが「枯れる」という概念が今では遠くに感じられ、不思議な感じがする。とりあえず私はトイレに行きたいので一刻も早い復旧が全力で望まれる。

「インプットとはアウトプットありきである」とは若き日のhonninmanの名言だが、音楽を沢山作ると聴ける音楽が増える、みたいな事は実際あると思う。それは稚拙な創作物であれ数を作れば自分のこだわりどころが勝手に増設され耳が開く、みたいな話で、それを文章でもやってみたくて毎日書いてる。「スーパーサイズ・ミー」方式でこのひと月の身体変化をまとめると、文芸誌っぽいzineが面白く読めるようになったので割と凄い。なんだかんだで自分は権威のお墨付きのある本ばかりを好んで読んでいたのだな...と気付き、そりゃあ親が岩波文庫をとりあえず推奨してくる家庭環境の影響も大ではあろうが、実際はみんなめちゃくちゃ自由に各自の文体でそいつの表現を気ままにやっているではないか、と思うに至り、読むという行為が今更楽しくなっている。もちろん1日500文字なんて日頃から文章を書く人達からすればまるで大した量ではないとは思うが、私のようなやるやる詐欺界の大御所、かつ生粋の筆不精からすればいろいろな意味でちょうど良いサイズ感であり、マストドンありがとう(Twitterは脳がネタツイ脳にしか行きつかないのでうんざりである)。

3年前の12月はひと月に10本近くライブがあり、ライブハウスで真っ当に曲を演奏するライブから、勉強会ライブ、無理問答のライブ、自作の戯曲のリーディング公演や、即興ミュージシャンが複数人入り乱れる恐怖のオールナイト・インプロ・イベント、そして切り餅の配布からスタートする史上最高のカウントダウン・ライブなど、毎度性質のバラバラなライブが続き目まぐるしかった。とは言え音楽の合間にフィギュアスケートや書道、生け花や家電の実演販売のライブをしている訳でもなく、「全部音楽みたいなもの」とも言えるし、そう言った方が音楽家っぽくて格好もいい(ちなみにcotto centerさんはライブ中に本当に生け花をするので必見である)。当時は普通に出勤もしていたのだから何をどう誤魔化して生きていたのか不思議だが、オフィスの片隅でこそこそ打ち込みをして備品のテプラで物販を作り、夕方頃に人知れず姿をくらまし平日夜のライブハウスに立つ生活はヒーローっぽくて面白かった。今年の12月のライブは1本だけで、さっき終わった。懐かしい人が沢山いて、終わって雑談をした。来年もよろしくお願いしますと挨拶をして、年の瀬をとても感じた。

親ゆずりの頼まれると断れない性分で膨らんだタスクに潰された結果失踪などをして大迷惑をかけた事が過去に幾度かあるので人間性に問題がある。いい加減この病理と向き合わねばと人生で最初に思った頃、立ち寄った本屋に勝間和代氏の「断る力」なる本が平積みされていて見なかった事にして速やかに店から出た事がある。やがて就職をして、会社はアラートを出すのも仕事のひとつと教育され相互にリソース状況の確認を行い合うのでタスク圧死はほぼないが、なるほど何かを抱え込んだり、頼り不精、または断り下手は人間に広く遍くある性向で、その陥穽回避の仕組みがいろいろあるのだなとわかって気が楽になる。売れているヒーロー達はそれぞれ自分の守る世界の範囲が基本的には決まっていて、それは銀河全体から地球、住んでいる町やほんの隣人に至るまで縮尺は様々であり、時にスケール感の違う強敵を前にし無力感に苛まれるが、その都度ヒーロー同士で適当に団結をしてなんとかしているらしい。honninmanは集団への適応能力にも難があるので、自分のキャパをしっかりと把握し荒川区のアンブレイカブル・ビジランテとしてただ林の中の象のようにやっていくしかない。

友人とSFごっこをして遊んでいたらなんらかの催眠状態に没入し目から涙が止まらなくなり危なかった。設定は未来から来た友人が幼少期のhonninmanに話しかけるというもの。ごっこ遊びは大好きなのでどんな設定にも乗るし役になりきるし楽しみきるが、その性分も時に諸刃だなと流石に感じた。幼少期の自分になりきって、未来の自分の容姿や未来における家族の生存の有無、自分がどこでなにをしていて25年後の世界はどうなっているかを未来人に尋ねていたら、蓋をしている様々な記憶がいっぺんに開陳され泣き出してしまった。知らないはずの未来を何故か全て知っているという倒錯した感覚に突然なり、今は大好きで仲の良い家族の構成員が次第にいなくなり、家族愛などへの距離感をやがて自分が抱くようになるまでのプロセスを圧縮して受け取ったような気持ちになった。そんなものは受け取れるはずのない代物なので感情が決壊を起こしてしまいあわや大惨事であった。友人も心配していたが怪しげな商売をたくらむ人からすればhonninmanは大変陥落させやすい人間であり、自衛の為にもヒーローとしての確たる意志をさらに再内面化させていく必要を強く感じた。

友だちと3人でご飯をして、久しぶりに飲み過ぎてしまい終盤は大変だったが(かなりの迷惑をかけたが)ずっとずっと楽しかった(マッコリ美味しかった)。飲み会でこんなに楽しい事ってあるんですか!?と目を見開くほどの楽しさだった。コロナ禍以降、酒の席は皆無となり、帰りの電車で「12月と言えば忘年会だらけで過酷そのものだったな...」と、まるで前世の記憶を手繰るように通勤時代を思い出していた。ソルジャー系の営業マンと飲む時は、仮設の連帯感を嘘でもでっちあげるゲームに無理やり参加させられる場面がたまにあり、そういう空気が好きって訳でも特にないのでしんどい時はしんどかった。上裸で踊って奇声をあげてカラオケをしてその瞬間は周りに面白がられても、明け方訪れる虚無はなかなか巨大でこれって自傷の類では?と思う事もしばしばあった。honninman活動を始めてからはさっぱり飲みの誘いを断るキャラになり、honninmanはそうした意味でも自分を救ってくれたヒーローであり崇拝してやまない。心底優しい人達と飲んだらこんなに安全でこんなに楽しくこんなに傷つかないのだなと、昨日は終始ひしひしと感動しながら嘔吐していた。

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