幸洋子監督「ミニミニポッケの大きな庭で」という作品に、音楽で参加している。本作は8月のロカルノ映画祭を皮切りに、世界各地の映画祭で上映され、来春には日本での劇場公開も控えている。幸監督はほとんど唯一と言っていい私の「大」のつく親友であり、日々膨大な量のやりとりをチャット上で繰り広げており、それを死ぬ間際までは続ける約束をとりあえずしている。映像に音をつけるのは初めてで、普段なら「必ずドラムの打ち込みから作曲をする」というマイ・ルールが一応あるが、今回は打ち込みをほとんどせず、大部分を絵を見ながらの演奏と声の多重録音だけで仕上げた。プロデューサーの山村浩二氏も交えた最初の顔合わせからMA(音響の最終調整)までを含めると5ヶ月弱の制作だった。総トラック数は450を超え、ミックスをお願いした滝野ますみ氏には大迷惑をかけた。自分の作った音楽が5.1chサラウンドに再構築される経験もまた初めてで、それが劇場で流れるのも当然初体験であり、舞い上がっている。ただ私が雑に「本作の音楽は本人が担当しています!」などと告知をするので幸監督本人が音楽を作ったと思ってる人が実際結構いるそうなので気をつけたい。
昨日書いた「世界との軋轢や葛藤から個人の文体は生まれる」というくだりは、大塚英志の「感情化する社会」で紹介される江藤淳の「文体論」の完全な剽窃である。第六章「機能性文学論」の中に「作家と社会や『現実』との軋轢が発する徴(しるし)が『文体』」と書かれてあるのを見て、若きhonninmanは「これだ!」と思ったのだ。実際のところ、自分が「文体」とは何かを語れるほど「文学」をわかっているとはとても思えないが、これを「声」に置き換えると少しだけわかる事がある。私は変な声の人が好きだ。しかしこれは「生まれながら変な声の人」ではなく「変な声を出す必要があった人」を指す。私は子供の頃から自分の声がとても嫌いで、様々な発声法を長年試してきた。そのうち地声を日常生活では全く使わなくなり、発声に合わせて抑揚やリズムも変化した。「現実との軋轢が生むノイズがギターのディストーションなのである!」などと書くと途端に文体がロッキング・オンめいてくるが、世界と向き合う中で、自分を疑ったり、自分を歪めた形跡があるパーソナリティや表現についてはやはり好きだなと勝手に思う。地声で朗々と歌える曲ができたのはごく最近である。
会社で使用しているslackというチャットツールがある。一時期の私は社内でも最上位の月間投稿数を誇る、病的なヘビーユーザーだった(冗談ではなく実際に投稿数ランキングを確認できる機能がある)。当時はslack上に個人が自分の「分報」と呼ばれるチャンネルを持つ事が静かなブームとなっていた。分報上に現在の業務の技術的な問題点を書くと、その分報に参加している同僚が時に知見を分有してくれて、テックによるスムーズな課題解決が実現!といった利点が分報サーガの始まりだった。やがて分報ユニバースは急拡大し、課題解決目的というよりは、早速人類補完計画のようなものに変容。お互いがお互いを気にし合い、目配せをし、「エアリプかすめ合うも多少の縁」とhonninmanもかつて歌っていたが、完全な「お気持ちお察し」空間となる。私は絶対に分報は作らないと誓い、「世界との軋轢や葛藤から個人の文体は生まれるのだ」と豪語、頑なにオープンなチャンネルでのみ発言をしていたが、同僚に勝手に作られた自分の分報を使い始めたらハマってしまい、24時間リアルタイムで現在の心象を猛烈なタイピング量で書きつける活動に明け暮れた結果、病んだ。
今年の5月、難波ベアーズでUltra Fuckersとの対バンがあった。終演後、メンバーの皆様とお話をした。voの河合さんはなんとGruxの友達で、彼が来日する際はいつもアテンドをしていると聞き驚いた。Caroliner のライブの手伝いで奇怪な衣装を着た話、Faxed Headが演奏中に開けた天井の穴の話など、面白い話が沢山聞けた。個人的にずっと気になっていた、私の同業でもあるアントマンの映画に、Faxed Headのメンバーが「アントマンのバイト先の店長役」で出演していた件についても、経緯をなんとなく知る事が出来た。Neil HamburgerことGregg Turkingtonは、遊び半分で漫談のカセットをリリースしたところ、これが大いにヒットしそのままスタンダップ・コメディアンとなり、以降俳優としても活躍、今ではアントマンの雇用主、という事らしい。凄い話である。この日の対バンは他にPULASEIやsato♡shinという奇天烈なメンツで楽しかった。もし大阪に住んでいたら年中ベアーズに入り浸ってはヘラヘラしていた可能性が大だが、荒川区の治安維持の為にも為すべき事を為すのみである。
先日面と向かってある方に「もしかして多動症?或いはADHD?」と言われた。対人ストレスが過剰にかかると落ち着きがなくなるのは事実で、また逆に落ち着きを自らなくす事で一部の対面コミュニケーションが可能になる部分もあり、この辺りはなんとも説明が難しいので黙ってしまった。後日親友とこの話題で盛り上がり、その人にとっては「もしかして左利き?」ぐらいの感覚なのかも、という解釈も出た。仮にそうだとして、同じ理屈で身体的特徴から性自認、性的指向、疾患、思想・信条までの指摘全てを「もしかして左利き?」感覚で言えてしまうとしたら、それはどうなのか。と言うか左利きの人も右利き社会で生きる大変さがとてもある。ちなみに私の親戚は、私が髪を伸ばしているだけで「もしかして、ジェンダーか?」という奇妙なイジりをしてくるが、母親もそれに「私も実はそのケがあると思っておりまして(笑)」という乗っかり方をしてきて良くない。もちろんこの話は冒頭の話題と少し問題の性質が別とは思うが、「自分はそれを奇異なものとは捉えていませんよ?」というポジションからのつもりの発言も、当事者からすれば受け取り方は様々であり、気にした方がいい。
祖母の十三回忌があった。終わって親戚と、亡父のアトリエを今後どうするかについて話した。京都の外れの山奥の、小さな村落の片隅に建ち、老朽化は近年著しく、ある日突然誰も来なくなったまま時が止まって廃墟となったこの家は、小学校時分までは毎週末遊びに行けるささやかな別荘めいた自慢のスペースだった。近くに田んぼがあり、そこで捕まえた沢山のカエルやイモリを父と育てた。いやほとんどの世話は父がした。もっと小さい頃は森でカブトムシを捕まえた。さらに幼い頃は犬がいた。年老いた犬は嵐の夜に死に場所を探して脱走したが、父が一人森へ分け入り何時間もかけ探し出して帰ってきた。やがて犬は死に、もう少し山を登った茂みの奥に彼を埋め、そこに丸くて大きな石を置き墓とした。その石に油性マジックで「ムク」と私が書いた気もするし、書いていないような気もする。生きていると交代で死んでなくなる命が沢山ある。形で残ったアトリエは、今では解体費用に頭を悩ます巨大な遺物だ。屋根が抜け空が覗くほど朽ち果てたこの家に、誰も二度と住めない。週末遊びに行く場所でもない。いつの間にこんな事になったのかと驚くが全てが現実であり先に進むより他ない。
新文芸坐のオールナイト上映に行く。3年ぶりである。2016年頃はかなりの頻度で通っていて、人が人を食べる映画だけの4本立てから人の身体が溶ける映画だけの4本立てまで、広範にわたる様々なプログラムを当時は観た。私は非喫煙者だがオールナイト上映の日だけは喫煙者に擬態、今は無き喫煙コーナーにて交わされる映画オタクの深げな会話に聞き耳を立てるのが楽しかった。毎回見かける老婆がいて、陣取る席は決まって左側前方、お土産袋を沢山抱えており、どんなジャンルのプログラムであれぽつんと一人座ってそれを楽しむ不思議な人だった。同僚にその事を話すと「未来のあなた自身と思いますよ」と言われた事が一度あるが今回は見かけなかった。朝方上映が終わると劇場の側の一蘭に行き麺を食べて帰るのがルーティンで、久々にそれを実践したが店内はおぞましい混み方をしておりかなりの池袋だった。知らない人達で集まって、スクリーンに反射する光をぼんやり眺めて朝まで過ごすのは奇妙で好きだし、驚天のB級作であっても稀に万雷の拍手が起きたりと、まばらであれ仮設の一体感が発生するのもいい。ただスナックの販売が終了しているのでそこだけは気をつけたい。
果てしなく昔の話だが、大学のイベントにある社会学者の先生をお招きした事がある。書いた企画書が通って実現した。著作もいくつか読んではいたが、専門性の高い大学の中で創作しながら自閉して、いつしか世捨て人となる学生達にひとつ社会学的な視座を実装する契機をば...といった風情の、いかにもな企画概要をびっちりと書いた記憶がある。トーク後、楽屋で少しお話をして、出身地や方言の話題でささやかに盛り上がる。ゼミの発表でウケがいいからという理由で関西弁を使っていたのが、ある時期からそれはチートなのでは?という発想になり封印したという話は、当時の私も作品のプレゼンで似たような経緯から関西弁を封印したばかりだったので面白かった。いつでも連絡してねと渡された連絡先はびびって一度も連絡しないまま時間だけが膨大に過ぎたが、本当に世の中何があるかわからないのでこういうものはサクッと連絡するべきと今回思ったし、暴力は悪だ。私も当時とは考え方や感じ方もまるで違うが、あらゆる選択や決断を先延ばしにして可能性の温存と根腐れに邁進していた上京間もないあの頃の自分にとって、とても刺激的なトークであり1日であり、思い出していた。
「NOPE」をやっと観た。目が合った対象を捕食する空飛ぶ謎の巨大不明生物をなんとか記録しようと奮闘するが、生物の出現時に電気機器が使用できなくなる為、それならばと手回し式のIMAXカメラを持ち出し果敢に撮影に挑む展開が冗談みたいで良かったものの、生物側からすればたまったものではないお話でもあった。目を合わせない工夫と言えば先日文学フリマに行った時、出店者の方と目が合うと、ついつい長くお話を聞いたり無分別に商品を買ってしまう自分の性質に気付き「初めに目、合わすべからず」の誓いの実践者として卓上の商品だけを凝視して会場を回るなどの強硬策に出たが、もったいない事をした感もある。以前中目黒で警官に「目が合ったから」という理由で職質をされたが失礼過ぎた。演劇等で客席が囲みの場合、対面の客とばっちり目が合う事があり「観にきたのに見られている」状況というのもある。ジャルジャルのZOOMネタで「今私の画面上のお前と目が合っているという事は、お前はお前のPCのカメラを見て話しているのであり、お前はお前の画面上の私と向き合っておらず、お前の謝罪に誠意はない」とキレ出すコントがあるが、視線はいろいろ難しい。
「スピってるチンピラ」という概念がある。アーティストの瀬尾夏美さんが初出の言葉だが、私は勝手に曲中などでも使いまくっており訴えられたらまずい。これはこの国の為政者って結局「スピってるチンピラ」ばかりなのではないか?という瀬尾さんの慧眼に基づく概念で、略称を「スピチン」と言う。このところヤンキーについても考えていて「ヤンキー=反骨っぽく見せて実際は権力も服従も縦社会も大好き(by core of bellsの池田さん)」な彼らは一体なんなんだ、そして我々はなんだかんだ言って割と結構ヤンキーが好きなのでは?といったあたりも気になる。先日久々に「シグルイ」を読んだら「男はみな傀儡(くぐつ)」と書いてあってヒヤっとしたが、権力に自己を同化させずに個であり続けるにはどうしたら良いだろう。以前あいトリの件で文化庁前のデモに参加した時、小泉明郎さんが「アートや表現は最終的に個に向かう」とスピーチをされていてよく覚えているが「『個』ってなんなんですかね...」って事も作ったり生きたりしながら考える事がずっと出来たらきっといい。とりあえず今住んでる街にはヤンキーが多いのでしっかりと注視していこうと思う。
岡林信康さんのライブを観た。吉祥寺Star Pine's Cafeは2階席まで満席で、ステージ上にはフォークの神様が実体となって降臨している。なんせ神である。荒川区のローカルヒーローなどからすればアスガルドの民のようなものだが、何を隠そう死んだ親父の旧友で、その親交は40年続いたというからスケール感が違う。岡林さんの新作「復活の朝」に「冬色の調べ」という曲がある。旧友の訃報を受け取った当時の気持ちについてを歌った歌だ。この曲の演奏が始まると、冷酷無比と言われた流石の私もさめざめと泣いたが神も恐らく泣いていた。終演後にご挨拶をさせてもらったが、そこでも私はぼろぼろと泣いてしまい「ヒーローと言えどやはりひとりの弱い人間なのだな」とその場に居合わせた全員が思ったと言う。考えてみれば親父が死んだ直後は目の回る忙しさで、悲しみそびれたまま2年が経った感もあり「あんたもがんばりや」と神に肩をポンと叩かれれば感情が制御不能になるのも無理からぬ事である。76歳になってもhonninmanが出来たらいいなとは思うが、ヒーローは次々と襲名していくものでもあり、神とはまた違った道を粛々とやっていくしかない。
疲れてくると怪談本ばかり読むようになる。Kindle Unlimitedはたくさんの怪談本が気軽に読めるのでもはや半分くらいは怪談本の為に登録している節がある。怪談本は読むと感覚が鋭敏になりちょっとの物音や気配にも素早く反応可能となり簡単に言えばビビりになる。読んだ内容は端からほとんど忘れてしまうが心細い感じやソワソワとした心の不安定さだけが身体に残りしばらく続く。しかし全体としては鎮静効果のようなものがあるから不思議だ。そんな話を尊敬する某先輩にしていたら「残穢」が未読なのは問題だと言われ慌てて買って読む。先輩の周りでは「残穢」を読んでから赤ん坊の声が聞こえるようになった人もいるらしく「残穢」エフェクトは実際怖い。もちろん「残穢」自体がそうした伝播する恐怖についての物語であり決して馬鹿には出来ない。ちなみに私は「残穢」読了後、いわゆる「縊死」についてを調べたり考えたりする期間がしばらく続いたので本って凄い。最近疲労やストレスが溜まると唇がパンパンに腫れる事があるのだが、怪談本を読み耽っている時期に唇が腫れると「呪い」感が強く嫌な気持ちになるのでそこが重ならないようにだけ気をつけたい。
友達に最近で一番面白かった映画は何かと聞かれ少し考えたが「TITANE/チタン」と答えた。ここ3年で劇場に足を運ぶ回数も減りサンプルは少ないが、「チタン」ははっきりと良かった。どんな内容かと尋ねられ簡易的なエクストリーム映画テラーを実践して説明したが、友達は痛そうな映画が苦手らしく、確かに「チタン」の痛そうさは異常だし、しかしこの痛みをお前たち男性は知らないだろと言われている気持ちにもなる。好きなシーンがあり、主人公がバスに乗り込むと、いかにもホモソーシャルな振る舞いをする男性客数人に、ポツンと1人乗り合わせた女性客が執拗なセクハラ発言を浴びせかけられているが、主人公がここでホモソ成敗を実行するのかと思いきや、全くそんな事はなく、すぐに静かにバスを降りる。ここで成敗ルートを夢想する自分の浅はかさや、そうした展開にいかに慣らされているかについて思う。言えなかった瞬間や何もできなかった後悔、或いは加担の自責の履歴など、生きていればヒーローだっていろいろある。「チタン」が刺激する痛みは肉体的な痛みに限らず多岐に渡り、しかし劇場を出る頃には活力が充填されていてモッシュをした日の帰りに似ている。
ジャルジャルアイランドは好きでよく観る。「役者の夢を諦めたくない奴」というZOOMネタがありとてもいい。バイトをしながら役者の夢を追いかけ劇団の雑務をこなすAと、会社員として安定した暮らしを送るかつての同級生Bのリモート会食コントだ。全編で展開されるBのロジカルな詰めは鋭利で、Aの俳優活動は定量化され現実直視の辛い時間が続く。そこから、実はBが仕事の空き時間で趣味の絵を描き、SNSのフォロワーはなんと12万人、学生時代の画家という夢を働きながら叶えている事実が明かされ、Aも就職して土日限定の俳優となり活動の場も劇場からSNSに移してみては?と提案される。このコントではその後のAの行動までは描かれないが、とても重要な話をしている。私は就職して随分経ってから音楽を始めたので(家庭の事情で生活が安定している訳では全くないが)、Bの言う事はわかる。会社員が素晴らしいと言う意味ではなく、やりたい事を続ける為の方法を限定し過ぎるべきではないという意味に於いてわかる。そしていつかインタビューなどを受けた時「会社員しながらヒーローやってる人なんて海外にはいっぱいいますよ(笑)」と言うのが私の夢である。
最近18時ごろから微熱が出る。毎日出るがぼんやりしているうちに気付くと治まる。通勤していた頃も18時台は魔の時間で謎の倦怠感や微熱の進攻をポイフルのやけ食いなどで食い止めていた。中学〜高校時代も夕方はだいたい微熱や頭痛に苛まれ、そう言えば夕方とは定期的な対立関係が生まれがちである。「You've Got Mail」と「夕方滅入る」で韻が踏めると思ってやり過ごしていた時期もあるが解決には至らず、今も「水分を多めに摂る」「ストレッチポールで伸びる」「楽に考えてみる」などの主体的実践に勤しんでいる。慢性的な肩こりや首の痛みも含めた総合的な対処がいよいよ必要であるだろう。ところで先日試したある肩こり薬は圧倒的で、こりがほぐれるどころかプールの授業のあとの午後並みの脱力感がいきなり到来するので怖くなって封印した。平山夢明はドラッグは才能の前借りと言っていたが肩こり薬も脱力の前借りでしかない。「honninmanの全身は就寝中も含め無駄な力みでいっぱいである」とはかつての整体師の言葉だが、我々を過剰に力ませる社会が確実に悪いので絶対に変えてみせるつもりだしその前に一旦針やお灸も試してみようと思う。
学生時代、本当に何も作らず人とも交わらず無気力に腐っていたので映画ぐらいは知っておこうと一時期集中的に映画を観た。とは言え参照先がタマフル〜映画秘宝周辺の文化圏という事もあり、自意識をこじらせた男性のセルフ慰撫的な映画への自己投影が専らだった。先日10年ぶりに「ハングオーバー!」を観て、流れで続編と続々編も観た。続編以降は初見だったのだが、こういう「ダメな大人がダメなまま何かを成し遂げる・救われる」系のコメディ映画が大好きだったかつての自分を思い出す。各所で似たような遍歴を持つ大人達の大反省会も盛んに行われているように思う。ところで本作にはアランという人物が登場する。彼は場の空気というものが一切読めず、デリカシーのない冗談を常に言い放ち、あらゆる社会活動は不能に近く、しかしピンポイントな特技や才能、天才的な閃きを持ち、ここぞという場面でそれを発揮し物語を無理やり駆動させる役割を担う。ダメな大人にとって一番の救いとなる人物造形と言えばこれである。3作連続で本シリーズを観て、一番好きなキャラクターは誰かと問われれば私はアラン一択の可能性があり結局自分は何も変わってないではないか、とも思う。
SNSは恐ろしいツールで、最近は自分以外の全人類が放映中のガンダムの新作に熱狂しているように世界が見えており、ぼちぼち内容が気になって仕方がなくなってきてはいる。自分の会社にもガンダム部という公式の部活があるが、ガンダムにやけに詳しい人はそこかしこに偏在していて文化の厚みを感じる。私は映画「逆襲のシャア」が大好きで、主人公アムロ・レイの「世界に人の心の光を見せなきゃならないんだろ!」というセリフを自分の曲でサンプリングしていたりもするが、巨大な隕石の地球への落下を敵味方隔てなく阻止をしようと躍起になる感動のラストシーンで、敵陣のパイロットが機体の崩壊も省みず、果敢に隕石を押し返そうと奮闘する際に放つ「やってみる価値はありますぜ!」もまた名ゼリフ過ぎてライブのリハだろうが仕事のやりとりだろうがお構いなしに日常的に使いまくっている。ちなみにPlayStationで遥か太古に発売された同タイトルのシューティングゲームもなかなか好きでそれなりにやり込んだ記憶があるが、当時本屋で手に取ったクソゲー年鑑的な書物にしっかりと代表的クソのゲーとして記載されていて「馬鹿にして...!」と思った事がある。
ハードコア・パンクバンドcore of bellsの、今年から始まった「NON-PLACEでつかまえて」という連作パフォーマンスに出演させてもらっていて、今日はそのvol.3の本番だった。今回のテーマは「新自由主義ボディ・スナッチと『遊星からの物体Xの回想』」との事で、全力で新自由主義ボディ・スナッチと「遊星からの物体Xの回想」を演奏した。この作品では毎回、メンバーの池田さんが制作したペーパークラフトのお面を被ってパフォーマンスをする。vol.1は猫、vol.2は豚、そして今回は映画「遊星からの物体X」に出てくる例の「犬」のお面だ。このお面のクオリティがさらりと凄い。池田さんから教わった事は大量にあるが、そのひとつに「うまさの尺度が既に誰かに決められた範囲内でシコシコ磨くうまさは本当のうまさではなく受験勉強みたいなもので、そいつだけしか見つけていないうまさや道具の使い方を磨いていく事が大事なんだよ」というのがあるが、お面に溢れる工作技術の独自開発感を見るにつけ、この言葉を思い出しては「う、うめえ...」と毎回こっそり唸っている。連作はまだまだ続くのでコアオブ未体験の方は観に来て欲しい。
遠い昔、遥か彼方の浪人時代、「不特定音源多重反復装置: サウンド・リピート・キャリアー」という大仰なネーミングの作品を作った事がある。おもちゃの掃除機の吸い込み口にマイクを仕込み、中身をくり抜いたボディにデジタル・ディレイのエフェクターとミニアンプを組み込んだこのローテク・マシンを担いで街に繰り出し、吸い込んだ路上のあらゆる音を反復・多層化させながら持ち歩く、パフォーマンスも込みでの作品である。1号機の完成をもってこのプロジェクトは停止したが、今振り返ればサンプラー等と合体させてフィールド・レコーディングと作曲・演奏を並走的に行う楽器方面への展開など、いろいろとその後の発展もあり得たのでは?とも思う。ところで当マシンのプレゼンをある気難しい大人達の前で行った時、ひと通りの作品説明をし終えた後、1人の面接官に「街の音を録音して楽しみたいのなら、この世には『ICレコーダー』という便利な機械があるよ?」と謎の慈愛に満ちた目で言われ、余りの概要の伝わっていなさ加減に愕然としたが、「お互い理解し合えるのはほとんど『点』なんだよ」って寄生獣のミギーも言っていたので言葉を尽くしてやっていくしかない。
ヒーローには弱点がつきものだ。honninmanは先天性の卵アレルギーと思って生きてきたが、この春血液検査をしたところ、卵アレルギーは見つからず、代わりに甲殻類やスギ・ヒノキ、そしてダニとゴキブリのアレルギーだったと分かり、これまでの人生を取り返すべく卵かけご飯を連日食べるなどの活動をしている。件の卵アレルギー、大人になれば自然と治ると子供の頃は聞かされていて、心ない友人からは「人生半分損をしてる」などと言われた事も多々あるが、中学にあがる頃には給食のたまごスープくらいはどうやらOKとなり、緩やかな解禁ムードが漂うも、修学旅行で立ち寄った横浜中華街で、おかわり自由の蟹玉スープを調子に乗って大量接種したところ、翌日目鼻の凹凸がなくなるほどの顔の腫れに見舞われ、「トラウト・マスク・レプリカ」のジャケットのような顔面となり果てた息子に、姿を見るなり母親も「あんた、誰...」的なリアクションをとる程の騒動にまで発展、この体験がトラウマとなり、以来卵料理は遠ざけて生きてきたが、冒頭の血液検査を経て、この横浜の一件も「原因、蟹だったのでは...」と歴史学者の間では見解の一致を見ていてとても悔しい。