お知らせ

死んだ父親が陶芸家だったのですが、BASEに父の器の買えるお店がありまして、本日、そこに7点の新商品を追加しました
このお店、長らく放置してしまっていたのですが、今日から再稼働です

ふくろうのペーパーウェイトが7点、大切な人への贈り物に是非です

器が好きってお友達がもしいたら、紹介して頂ければです
よろしくお願い致します
dodangama.official.ec/

短編アニメーション「ミニミニポッケの大きな庭で」が、2月末までロカルノ映画祭の特設サイトで無料配信中なのでこの機会に是非です
(※honninmanが音楽と声を担当しております)
locarnofestival.ch/media/vod/l

高熱で寝ていた。5月8日から職場環境がかつてない大激変(※具体的には親会社への出向)という事で、ひたすら戦々恐々としていた矢先の発熱だった。新たなる上長に「今日5月8日なんすけど、発熱なんで休ませて欲しいんすけど」と電話でILL-BOSSTINOばりに申し上げるところから新生活はスタートした。激しい喉の痛みと寒気、そして高熱にやられ、何も出来ないのでSystem of a DownのB.Y.O.B.を繰り返し聴き苦痛をやり過ごす。肉体の衰弱により精神が丸腰になっており、"Why do they always send the poor?"の一節に涙が止まらなくなり大変だった。熱が落ち着いてからも咳は止まらず、尋常ならざる全身の虚脱っぷりを理由に結局今週の平日全てをまるっと横倒しのまま黙って過ごした。幸いコロナではなく「ただの風邪」と診断されたが、ただの風邪であれヒーローを停止させるには充分であり、健康はこの稼業の必須条件ではある。しかし発熱タイミングのあまりのジャストさ加減から、自らの運命への体を張ったボイコット運動であったとの解釈もあり、そうだとしてもこれはやり過ぎだぞ、と正直思う。

去る1/27〜1/29の3日間、池袋の名画座・新文芸坐で「『幾多の北』と三つの短編」が上映された。これは山村浩二氏の新作長編と新作短編、そして氏のプロデュースした短編2本の計4本からなる特集上映プログラムで、私が音楽と声を担当した幸洋子監督の短編アニメーション「ミニミニポッケの大きな庭で」も流れた。全日完売というから凄い。足繁く通った新文芸坐で自分の関わった作品が爆音で上映という事で、喜び勇んで3日間とも劇場に通い、手前味噌ながらしっかり感動して家に帰った。本作の音響は滝野ますみ氏による5.1chミックスが施されており、一般的な映画やアニメでは座席の位置による体験の差が生じ過ぎないよう、そこまで極端なパンニングは行わないそうなのだが、今回はその辺りのセオリーは一旦取っ払ってみよう!という滝野氏と監督の意思から、全体にとても大胆な音響設計がなされていて、全方位からhonninmanがぎゃあぎゃあしていてなかなかの高密度本人空間となっている。今後は名古屋や福岡、京都などでも順次上映されていくそうなので、もし良かったら劇場の贅沢な音響設備で観れる時に観て欲しい。久々の日報だけど宣伝、でした。

屋根裏ハイツの新作「父の死と夜ノ森」を観た。演出は中村大地。松田正隆の同名戯曲はwebから読む事ができる。福島県の富岡町を舞台に、人が病死したり、人が人を殺したり、家が燃えたり、そういう事が余白だらけの戯曲の中で淡々と起きる。マレビトの会による過去の上演映像も観たが、観客と終始正対して台詞を発し、特定の動作を抽出して反復させたようなマイムを繰り出す人物達の、情動の流れは遂によくわからない。逆に言えば日頃どれだけ余白の埋められた、情動の流れの読み方の定められた物語を受け取っているのか、という話でもある。一部のカオティック・ハードコアなどの、情動の導線がちぎれちぎれになった音楽が私は好きだが、一人の人間の中で起きている事も、大抵常にちぎれちぎれ、あるいは着地のない宙吊りのようなものか?などと雑に思うし、断定口調や論破話芸が持て囃されるのも、そうした不安を背面から照射しているのかも?と、これまた雑に思う。さて、合計20人が登場するこの戯曲に中村大地は7人の俳優で挑むというから凄い。感想は後日、世界に類例のない形式で公開する契約なのでここには書けないが、未見の方も楽しめると思うので観て欲しい。

honninmanという名前には「本人でありさえすれば誰だってヒーローになれる」というとても素晴らしいメッセージが込められている。古今東西、様々なヒーローが存在するが、彼ら・彼女らがヒーローになるまでの経緯もまた様々であり、持ち前の財力やテクノロジーを投入したパワードスーツで戦う者もいれば、なんらかの事故や実験の影響から期せずして超人化してしまう者もいる。他にも戦時中の特殊工作員の生き残りや、生まれながら神々の血を引く者など、みんなそれぞれの出自がある。しかし、飛び抜けた財力や技術も、過酷な生い立ちや不遇な事故の履歴も、苛烈な訓練の経験も絢爛たる家系図も、一切なくて構わない。本人でありさえすれば、誰だっていつだって、ヒーローになれる。あなたも私も、honninmanなのだ。...という話を会う人会う人に説明してきて、これまでにごく稀にとても関心してもらえてきた実績がある。語りの勢いを削いだ状態で冷静に活字で読むと、途中から丸め込んでくる感が強く、読み方によっては謎に同化を迫ってくる危うさもあるが、ある種の置き換え可能性のようなものは自分にとって結構大切なので素性を勝手に晒さないでくれ。

つい先日も書いたが、ある機関に私の明かしていない本名を無許可で広報使用された事について、ずっと怒っている。謝罪が伝言ゲームのようにしか伝わってこないので、こちらも先方の無責任さや無理解さを憶測ベースで妄想し続けてしまい、それがまた身体に良くない。「事情を知らなかった」や「祝福のつもりだった」は経緯説明としては悪手で、「そちらの活動への影響は度外視してでも、こちらの宣伝に都合良く使いたかった」だけではないか?などと、いよいよ思い始めてしまう。過去にも旧知の人から「正体なんてみんな知ってるでしょ(笑)」「え!隠してるつもりなんだ(笑)」といった言葉は度々頂戴してきたが、これらはhonninmanとしての活動を始めてから築いた私の人脈や活動基盤を軽視する発言でもあり、毎回イヤな気持ちになってはいる。しかし今回はそういうレベルの話でもなく、犯罪者でもないのにアーティスト名と本名を勝手に併記して拡散されたらたまったものではない。なんの疑問も抱かずそれが出来てしまう思考や制度を再考して欲しいし、理解とはお気持ちの問題ではなく知識の問題なので、こういう感じ方をする人が存在する事も知っておいて欲しい。

昔、偉大なるジョン・カーペンターの功績を好事家達がひたすら語り合う系の某イベントで、ある登壇者が「この時代にモノ作ってる人間でゲームやってない奴は信用できない(※カーペンターは高齢なのに最新のゲームを息子と一緒に遊んでいて偉い、という文脈)」と発言し喝采を浴びていたが、honninmanには自らが非ゲーマーである事のコンプレックスが長年あり、この時もしっかりそれは深まった。同僚にもらったPS4をTVに繋いで闇雲に頑張っていた時期もあるが、ゲームを楽しむ回路が自分には全く存在せず、コンプレックスの克服は無限に持ち越しされてきた。しかしコロナ禍初頭、YouTubeでゲームのプレイ動画というものを初めて観て、上述のコンプレックスがあっさり滅却していて驚いた。「この世には、自分がやってみないと気が済まないタイプの憧れと、他人がやっているのを見て気が済むタイプの憧れの、2つの憧れがある」という天啓を受けた。自分にとってミュージシャン憧れはきっと前者で、ゲーマー憧れは恐らく後者であったらしいが、「からすまAチャンネル」への憧れは俄然前者っぽい気がするので今年はゲーム実況なども始めてみたい、と思う。

The Vinesのクレイグが昔ライブ後の疲労感を「宇宙船から降りたみたいな疲れ」と例えていた記憶があるが比喩がうまい。私もこのところそんな感じの異様な疲労感に取り込まれておりメンタルの具合が良くない。CxOxBの池田さんも言っていたが、昔の音楽雑誌は絶妙な比喩や形容が跋扈していて面白かった。紹介されている音源の大半は余程の文化資本がない限りすぐには聴けず、音源は音そのものよりテキストからまず出会うのが通例だった。あやふやな記憶で正確な引用ではないのだが「不死鳥のようなアルバム」とか「大気圏に突入しながら座禅を組んでドストエフスキーを通読しているようなアルバム」とか「高速で回転する発動機にビー玉を一つ放り込んだようなアルバム」とか、そんな言葉が並んでいた。今ならレビューをしっかり読むより先にサブスクで即日聴いてしまうだろう。先日、友人と自分の作品を他の何かで例えられる時の気持ちについて話したが、まるで関係のない憶測の影響元を並べられ「〇〇みたい」と言われたら嫌な時は嫌だが、大気圏に突入しながら座禅を組んでドストエフスキーを通読しているみたいな作品などと言われたらちょっと嬉しい、と思う。

以前も書いたが禁断の肩こり薬というのがあり、ここ3日ほど、いけないと思いながらも服用している。一時的にプールの授業のあった日の午後のような脱力感を全身にもたらし苦しみを散らす狂乱の脱力前借りドラッグだ(薬局で売ってます)。そもそも慢性的な肩こりや首の痛みには長年苦しめられており、これまで整形外科に整体、整骨院など全て試したが特段よくもならず、最近はしかし身体の不調がメンタルにもいよいよしっかり影響を及ぼし始めたのでこれはまずいと思い焦っている。かつて整体師にはこの世で一番肩がこっているのは旅客機のパイロットで、二番目が歯科医師、そして三番目がhonninmanと言われたほどの実績があるが、それならパイロットと歯科医師に次ぐレベルの収入があってもいいのでは?と切実に思う。常に上体が異常な緊張状態にあるらしく、また腕のこりの凄まじさはタイピングのし過ぎとの指摘もあり、彼方より音声入力の呼び声が聞こえてくるようだ。おまけに新規オプションで腰痛が追加されつつありヒーロー廃業の恐れまでチラつき始めたので冗談が言えるうちに対処しないとやっていくしかないですね...とも言ってられなくなるな、と思う。

友人に促され、iPhoneの「ヘルスケア」というアプリを初めて開いてみたところ、毎日の歩いた歩数や距離が何年にも渡り勝手に記録されていて衝撃を受けた。このアプリの存在すら本当に知らなかった。最古のログは2014/11/22。実に8年ぶんの記録が知らぬ間に蓄えられていたのだからとてつもない。先月は平均で1日8,463歩、距離にして1日平均5.67kmを歩いていたという。急いで調べたところ、これは健康維持の為には理想的な歩数という事で、得意げな顔で現在文字入力をしている。年明けすぐの1/3はなんと20,992歩・13.7kmも歩いているが、何をそんなに歩いたのか謎ではある。有楽町で1本映画を観て、その前後に適当に周囲を散歩したが、それにしたって歩き過ぎだ。歩きながら想念を端から独り言しまくる趣味があり、恐らく15年は続けているが、その日は13.7kmぶんの独り言をしていたのだと思うと流石に友達を作れと言いたくなる。さらに調べたところ、1日10,000歩を超え始めると今度は早死にの遠因にもなるらしく、林の中の象のように1日8,000歩くらいで孤独な歩みを止められるよう心がけていこう、と思う。

様々な理由から素性を隠して表現活動をやってる人は沢山いる。というか古来よりそんな人は無数に世界にい続けたはずである。別人格の希求、安全上の理由や職場環境的な理由、属する界隈の慣習やブランディング、またはもっとずっとパーソナルな理由から、いろんな形に名前を変えて皆それぞれの活動をやってきた。私であれば「ヒーローは素性がバレたらお終いだから」というhonninmanのヒーロー設定に合わせた説明を人前ではよく話すが、言わないだけで他にも幾つか別な理由が当然ある。さて、ある機関にhonninmanの名前に続けて隠している本名をわざわざ併記した形で活動の紹介をされたので抗議した。経歴や実名についてはこれまでかなり慎重に秘匿して活動してきただけに大迷惑である。先方から「事情を知らなかった」との回答を頂いたが、他のアーティストを紹介する際も毎回本名を併記するのだろうか。だとしたらリテラシー的に問題があるだろう。とりあえず「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」のラストで、スパイダーマンの正体が全世界に拡散されピーター・パーカーが涙目になるシーンをご担当者様には今一度観ておいて頂けると非常に助かる。

09年からテレビを観ない暮らしにしたので帰省のタイミングでいろいろ吸収をしている。俳優名や現行のお笑いに関しては母親の方が詳しい。一応自分のヒーロー活動について説明する事もあるがピンときてもらえる事はほぼない。楽器も弾けず楽譜も書けない私でも作曲行為が可能というDTM概念がまずわかってもらえず早い段階で躓く。またスーパーの店内BGMで聴くJポップしかポップミュージックとの接点がない為なかなかグラインドコアの話などには行き着かない。ただ「編曲」という言葉への反応は他とは違い大きく、昨年初めて編曲の仕事をしたよと伝えたら驚きながら喜んでいたので良かった。しかし人から息子が何をやっているのか聞かれて答えるのはなかなか困難らしく、確かに「息子は荒川区の治安維持の為に素性を隠して自警団をやっておりましてね、全く何やってんですかね(笑)」などと聞かされたら誰でも不安になるだろう。母親は私に「となりのトトロ」の糸井重里のような大人になって欲しかったらしいが似ても似つかぬ仕上がりとなった。何者にでもなれるという気楽さと大抵の事は取り返しがつかないという小心、二つ我にありという感じでやっていくしかない。

朝から大阪にいた。昼間にライブの出番があった。1日がかりでミュージシャンとお笑い芸人が交互にパフォーマンスをする珍しいイベントで面白かった。関西のお客さんはリアクションが大きくこちらも楽しい。どのアクトもかっこよく、最後までいたかったがハイボールが非常に濃厚で体力的にも途中で厳しくなってしまいお先に失礼しますをした。こういう時に時間と体力をうまく配分し友だちと遊んだり美味しいものを食べたり観光をしたりする能力が致命的に皆無で、リハを終えてからオープンまで暫く時間もあったが公園でハトを眺めるなどの活動しか出来ず、目撃した人には「知られざるヒーローの素顔を見た」という印象を強く与えただろうと思う。朝、会場に向かう途中の路上に「あみだ池はあちら」という看板がありこれは上方落語に出てくる例の池ではないかと盛り上がったがその後立ち寄る時間も作れず帰る頃には精魂も尽き果てておりトボトボと駅まで歩きなんらかの定食を食べ無心で帰った。戦士のようにスケジュールを組める人にはなれないが、そうこうしているうちに人生も終わる気がするのである程度は努力をして見たいものくらいは満足に見れるようにはしようと思った。

これから帰省なのだが実家が近づくにつれ左目が痙攣し始めるのだから大変なものである。不機嫌は最大の悪徳と若い頃のウェルテルも言っていたが自分の機嫌は自分でとれ系のスローガンも時に呪いの言葉染みる事がある。精神衛生の確保に最大のリソースを割かねば身がもたない時、これまではひたすら高速の独り言をし倒す事で乗り越えてきたがこのところは文字を打ち込みなんとかしている。ただ実家に纏わるストレスの根源が自分の怠惰と無責任さにあるのも事実で気付くと自己啓発めいた結びになりがちではある。自らの人生のままならなさに驚愕する事だらけだが、世の中がまずめっちゃくちゃではないかと思ってみる等のテクニックを駆使して一度自分を相対化する時もある。使えるものはなんでも使ってとにかくやっていくしかない。複数ある問題を絡まったケーブルの塊のような状態からバラしていくのが肝と友人から教わったが本当にその通りである。どんな秀才も筆記テストは一問一問解くはずで、家庭の問題の解法などはいくらでも前例と参照先があるのだから全部早々に片付けて荒川区の治安維持に注力できるよう今年はしっかり動こうと思う。と、こんな事ばかりを書いている。

2年と少し前、心の不調に見舞われ心療内科で診てもらった事がある。人間の心はゴムのような素材で出来た柔らかい壺であり、ストレスの流入口と排出口がそれぞれ上下についていて、ストレス流量が壺の容量を超えた時、自己防衛として強制終了を起こすのだと医者から説明を受ける。対策としてはストレス流入の遮断がベストという事で、当時の私はLINEアプリを早々に削除して、少女漫画とTikTokだけを眺めて暮らすなどの緊急措置を執った。心が柔らかい壺である以上、ある一定のストレス流量も確保されていないと器としての形を保てないので気をつけてとの説明もあったが、知らぬとばかりにとにかくなんでもかんでも遮断して、ストレスフリーな環境整備に尽力した。相談出来る親友や代わりに諸々のやりとりの窓口に立ってくれた人が近くにいたのが救いだが、これを独りで全て抱えていたらと思うと恐怖である。「ここで逃げたら次はない」系の不安の大半は、自らの思い込みの城の中だけにある妄念で、自分の心が危なくなったら守る事に徹しないと手遅れになる。人から似たような相談を受けたら極めて慎重にではあるが、この時の話を誇張や脚色なく話すようにしている。

昔、客席アンケートのアンサーをトーク内でお返しするという企画でドラッグの是非について聞かれた事がある。私は当時、ドラッグは楽をして頭をおかしくする行為なので、ちゃんと勉強したり調べものをしたり考えごとをしたりをたくさんして頭をおかしくしていかないとズルだと思うと返したが、ズルかどうかは別として今もまぁ大体同じような事を思っている。ベンチャー企業の飲み会は無茶苦茶をしてナンボという空気があり破天荒自慢に余念のない界隈が実際あったりするが、酒を飲んで破壊的になるのはごく普通の事なので「破天荒っすね!」は「ごく普通っすね!」に言い換え可能であり、ドラッグも似たような話かと思う。随分前だが生賴範義の回顧展に行った時、順路に並ぶ無数のクライアントワークの最後に生賴氏がライフワークとして取り組んでいたオリジナル作品が展示されており、それらのあまりの異様さに圧倒された。膨大なインプットとアウトプットを繰り返す中で、脳内でこんな事が起きるまでになっていたのかと驚いた。「ドラッグは才能の前借り」と平山夢明も言っていたが、どうせなら生賴範義のような事に一生かけてなれたらいいし地道にやっていくしか基本ない。

VHSデッキは今も持っているが繋げられるモニターがない。若い頃、オタクに憧れてDVD化されていない80年代のB級ホラーを中古屋でちまちま集めていた時期もあったが一昨年の引越しの際ほとんど捨てた。廃墟となった父親のアトリエの屋根裏部屋には大量の録画VHSも眠っているがとっくにカビてどうにもならない。気取ってラベルには「映画」の2文字とナンバリングだけを書き、ノートかなにかで録画内容を管理していたマメなのか痛いのかよくわからない記憶がある。基本は3倍録画なのでうまくすれば1カセットに3〜4本映画が入った。深夜の地上波はいろいろな映画を昔はさらっと流していて、高校時代はとりあえずなんでも録って土日に観た。そう言えば「ポーラX」や「海を見る」なども地上波で観た。当時の衝撃はかなりのもので、4トラックのカセットMTRでノイズっぽい何かを作り始めたきっかけの一つは恐らく「ポーラX」だった。ネットも名画座もまともな本屋もなく、体系も口コミも映画好きの友達も皆無な中で、新聞のラテ欄に名前があるから何も知らないけれどひとまず観る、というような営みからは今、随分遠ざかった生き方をしているな、と少し思った。

映画館でポール・バーホーベンの新作の予告が流れた。予告の中でバーホーベンの代表作が「エル ELLE(2016)」という事になっていて、80代で自らのキャリアを更新しているバーホーベンはとんでもないなと思った。「エル」は公開当時六本木の劇場で観て、推察だが客席には外国籍の方が多く、場内はドカドカにウケまくっていてバイブスが凄かった。その話を友人にしたら友人が観た回は客席が大変に鎮痛な空気になっていたそうで、それはそれでわかるなと思った。バーホーベンと言えば初めてVHSデッキがわが家に届いた10歳の誕生日、父親に頼んで借りてもらった「ロボコップ」が思っていたのと全く違う血みどろのバイオレンス映画でしっかりトラウマになった。「特捜ロボ ジャンパーソン」のようなお話だろうなと思ってワクワクしていた幼少期のhonninmanは人生の厳しさを知った。地上波でよく流れていた「トータル・リコール」の眼球飛び出し描写も幼い頃のトラウマで、バーホーベンにはかなりやられてきた。60手前で「スターシップ・トゥルーパーズ」を撮っていると知りhonninmanもまだまだやれるではないかと思ったし、新作も観に行く。

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