ダイアナ・ロスで踊って優勝したというThe D Sorakiという若い人のダンス動画を何度も見た。心から楽しそうに踊ってて、見る目を楽しませる。ダンスってそういうものだな、ということを再確認しています。振り付けではないですよね(だからポカリ的なやつが苦手なんすよね)。
https://www.youtube.com/watch?v=HKKEJOQQ0hA
大好きなダンスだなあ。
俺は基本的に、アカデミアに対して敬意を持っているつもりだし、ツイッターでも、マストドンに来ても、立派な学識とそれに裏打ちされた見識をもっておられると思い、尊敬している人は何人もいる。
しかし、コメンテーターとしてテレビなどに登場し、炎上を重ねるような人に、そうした学識を感じることはほぼ皆無で、例えば古市憲寿が出てきた時も、学問的には、なんかちゃんとしたペーパーを書いているとか言われているのを見かけたし、三浦瑠麗だって、その博士論文は、着眼がいいとか言われているのを読んだけど、彼らの発言にそうした学問上の積み重ねというようなものを感じたことは一切ない。彼らのコメントからは、単に個人的な偏見がだだ漏れになっていると思うのみだ。
成田悠輔も立派な経済学者だというのなら、その「集団自決」発言になんらかの経済学的な根拠でも示せば良いのに(無論、示せるならばということですが)、決してそんなことはなく、今これを言えば、受けるだろうというような、小賢しい打算を感じるばかりで。
学問的な研鑽というものは、人格・識見を陶冶することもあれば、そうでないこともあるんだなあと残念に思う。
比較言語学の射程は、概説書によれば6000年前くらいまでいけるというから、たかだか1200年前などは「新しい」とさえ言えるという言語学からの批判も当たらなくはない。日本語の歴史研究から書き改められた「国語史」は、どうアップデートされるだろうか。そのとき「国語教育」のなかで日本語の歴史を学ぶことは、どんな意味を持ち得るだろうか。近代国語の制度設計は、日琉祖語をどう扱うだろうか。などと疑問が尽きない。
私がそういう学び方をしてきたからだと思うが、どうも言葉の学問を実体的なものとして見ず、観察者による構築的なものとして見るきらいがある。科学的な手法によって実体的な真理を突き止める手法は旧来の人文学にはあまり好まれないようにも思う。もちろん比較言語学的手法は観察者に委ねられているのだが、文献だけでなくリアルに存在している方言によって強く根拠づけられる話にどこか衝撃を受けたのだった。この方面の発展が、国語教育にもそういう衝撃を与えることになるかどうか。(4/4)
ところで釘貫先生が『日本語の発音はどう変わってきたか』という本を出された。未入手だが、上代特殊仮名遣いに触れるところがあり、国語学では伝統的な説明によっていて8母音説を採っているという。私も日本語史の授業では国語学で広く受け入れられているこの説を採る。しかしこれが言語学研究者から鋭く批判されている。比較言語学に基づく知見からは6母音説が定説であり、8母音説は旧態依然とした国語学の悪弊であるというような切り口である。
言語学研究者による国語学批判は、辟易とすることも正直ないではないが、真摯に受け止めなければならないと思う。国語学は国語の学でもあって、大学世界では国語の教員免許を出す課程に必須の学問領域でもある。だから暗黙裏に国文学の問題設定、文献に記された言葉をその時代的な出発点に置く、ということを共有している。いわば国語教育と密接な関係を持ちながら存立しているわけだから、国文学の出発点にある記紀万葉を(せいぜい考古学的出土物を加える)上代語の根幹に置けば、描かれる知的世界も当然その限界のもとにあるわけだ。(3/n)
よく概説レベルで言われる、イ段乙類の成立に関わる話は、フィクショナルに感じられていた上代母音の区別が生きた日本語のことと感じさせられた意味で、自分にはこの上なく新鮮だった。「月(tuki2)」「木(ki2)」のki2はどちらも所謂イ段乙類だが、「月(tuki2)」〜「月夜(tukuyo)」のようにi2〜uに変化するものと、「木(ki2)」〜「木陰(kokage)」のようにi2〜oに変化するものがあることから、両者のより古い段階の形に*uiと*əiを想定する…などというのは知的操作としては理解できるもののリアリティは感じられなかった。しかし琉球諸方言には上代日本語で同じだった2つのki2が、きちんと対応する形で現存するとなると話は別。改めて考えるまでもなく、比較言語学の考え方に沿っている「だけ」のことでもある。しかし文献日本語学の側にどっぷり使っていた自分には、とても新鮮に感じられたのだった。(2/n)
学部時代に上代特殊仮名遣いに関わる知見、そのなかでも中国語音韻学でいう重紐から音価推定に迫る手法に興奮したのがこの道に入ったきっかけの一つだった。ただ古代文献同士を比較して推定していく方法に、どこかフィクショナルな印象も抱いていた。上代文学の先生が「上代特殊仮名遣いなどというが誰がそんなものを見てきたんだ」といって、旧国語学を笑うこともあって、なおその印象を強くさせていたように思う。
特に2010年代以降、海外の研究にも育てられて琉球諸方言の研究が飛躍的に進んだ。琉球諸方言の音韻対応から、比較言語的手法によって琉球祖語が仮定され、さらに上代日本語と共通の祖語である日琉祖語(Proto-Japonic)の研究も進むことになった。服部四郎『日本祖語の再建』が出版されたことも相まって、上代日本語のアップデートも待ったなしの状況である。服部四郎が難しいことをやっているという程度で済ませてきたのが、日本語音韻史の書き換えにまで影響が出てくるとこちらもちゃんと勉強しなければならない。一段低く見がちなWikipediaも重要な知的リソースの一つとなりつつある。(1/n)
@GabbingDog いつかやってみます、ありがとうございます!
@GabbingDog 緑茶を焙じると焙じ茶になるんですね!茶葉から直接しか行けないと思い込んでました。
これもいまさらだが最近ロバート・キャンベル編『日本古典と感染症』を読んだ。古来、パンデミック、災害が訪れるたびに、怪異のせいだの天罰のたぐいだのという流言飛語が出てくる。我々が人の手ではどうにもならない苦しみに出会ったときに、人を超えた存在を作り出して、その都度安寧を得てきたことがよく分かる。
素朴に『すずめの戸締まり』を見れば、茂木氏が先のリンクで述べるような天譴論的思考であるとは言えるだろう。しかしそれが批判として成立してしまうのは、歴史物語には当事者性が伴わないからであって、今もまだ被災の記憶が生々しく残るなかでは、「人の不在によって怪異が起こる」だの「人の心の重みが土地を鎮めている」だのという与太はまだ早い。(1/2)
東北の知人がガッツガツに批判していたけど、その気持ちは分かるような気がした、ザワザワした上映時間でした。ようやく見た。
新海誠監督『すずめの戸締まり』レビュー:「平成流」を戯画化する、あるいは〈怪異〉と犠牲のナショナリズム(評:茂木謙之介)|Tokyo Art Beat
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/suzume-tojimari-movie-review-2022-11
見終わったあと妻が一言、「消費されるって感じ?」とのことで、僕も一言で言うならそういう感情です。新海誠お得意の美しい風景のカット、回復の物語、ただのエンタメではないよ、でも感動させたいよという弾幕に耐えながら感じていたのは、そんなんじゃねえよという違和感でした。
つってその時東北に生きてはいたけれども、直接の津波の被害者ではないし、当事者マウントを取りたいんじゃない。でも、安全な場所から「生きていていいんだ」と言われても、お前に言われたくないな、という内なる声がどうしても喉元まで来る。「消費されるって感じ?」というのは、理屈や名分は横に置いておくとして、この映画に対するクソでか感情にジャストミートです。
その上感動ポルノの体だからもう陵辱された感じがどうしても拭えない映画でした。「でも面白かったんでしょ?」と問いただされるなら、そこまでセットの暴力だよねとは思った。面白かったです。
今回の広島行きには個人的な宿題もありました。実は原爆ドームに行ったことはまだ一度もなかった。
もう20数年前、初めて学会で広島を訪れたとき、だいたい勉強半分、観光半分な気持ちで先輩達と宮島に遊びに行きました。時間がなくて原爆ドームにいけなかったことを、当時の私の師匠にこっぴどく叱られたのでした。広島に来たのに最初に原爆ドームに行かないとは何事か、と。
女性研究者としての師匠は自身の誕生日がひめゆり慰霊の日でもあることから、誕生日を祝わせないとおっしゃることもあって、沖縄の学会では全員を慰霊碑に連れて行くような方でした。学問とは別に、人間として尊敬できるような方でした。
以来、広島に行く機会はなかったけれど、今回は慰霊碑の前に立つことができました。その頃はまだなかったと思われる、亡くなった方の顔写真をデータベース化した鎮魂の施設も訪ねました。私たちもデータベースの研究だったので、記憶され検索可能となる装置が鎮魂となることへの奇妙な共感もありました。亡くなった方たちの膨大な記憶を移り変わるモニタを静かな空間で見つめながら、戦争の悲惨さと失われた人生の計り知れなさにただ圧倒されたのでした。
ひとつ長く抱えていた宿題が終わったような気がします。
今回借りた広島のラボは、通常はカフェスペースとしても機能しているようで、明るく良い場所でした。そこに1辺2メートル強の大きなモニターがあって、HDMIでつなぐことができる。
参加者はZoomや、僕が持ち込んだスイッチャーで自身のPC画面を共同モニターに切り替えながら、事例を報告したりする。
いわゆる学会・研究発表と違って、研究未満の進捗状況や悩み事を共有し、相談できる会としていたので、立って歩いて色々相談しあえたのが新しい感じがしました。若い研究者とベテランの研究者に挟まれて、とても実りのある時間が過ごせたような気がします。
私が所属する学会ではこういうイベントは見たことがないけれど、別の学会ではやっているのかな。7名というサイズ感もよかったのだと思う。
さて広島での研究会から戻った翌日。疲労がどっと押し寄せて一日ほぼぐったりしていた。しかし研究の方向性などが新たに見えてきて、気持ちはやや高揚しています。
研究費をいただいて数名でやっている研究ですが、収録するデータが8万を超えるともうエクセルで操作するレベルを超え始めてきた。さらに新たなメンバーを迎えて準備中のデータを入れると、20万字を超える見込みも出てきました。量というのはある時点を過ぎると、こちらが黙っていても雪だるまのように一気に大きくなっていくもののようです。面白い、が良くも悪くも個人の手に負えなくなっていく感覚があります。
http://www2.mmc.atomi.ac.jp/~katou/KanjionDB/index.html
こうなると文献日本語史が大事にしてきた個別例への目線とは別に、量的な目線が立ち上がってくる。これまで言われてきた当たり前のことも量的に確かめられると、そこからまた新しい研究が生まれてくるのではないか。研究グループのあり方も考えなければならない。
そろそろ私も50を迎えるので、気が早いとも思いますが、研究の終わり方を考えることも出てきました。少なくとも行き当たりばったりに生きてきたこれまでのようなやり方では、きちんと終われないような気がする。残りの年数で何ができるかをちゃんと考えないといけないなと感じます。
日本語学の研究者です。漢字音史、漢語アクセント史を文献ベースで狭くやってます。自己紹介的な論文に、「アニメ『ドラゴンボール』における「気」のアクセント─漢語アクセント形成史の断線から─」(日本語学2022年6月号)あり。データベース作ったり、自転車に乗ったり、珈琲を飲んだり、ジャム作ったりしています。https://researchmap.jp/read0135868