韓国SF作家連帯が声明を出していて知ったのですが、チョン・ジドン(1983-)という作家が、元交際相手に告発されたそうです。
プライベートで話した体験談(ストーカー被害や親との確執)が複数の小説に割とそのまま使われている。しかも下の名前やイニシャルまで使われている。共通の知人にどこまでが事実かと聞かれさえしたと。
当該作家はSF作家ではないけれど、問題の作品のひとつにSFっぽい短編があるようです。
https://sfwuk.org/notice/?q=YToxOntzOjEyOiJrZXl3b3JkX3R5cGUiO3M6MzoiYWxsIjt9&bmode=view&idx=83604075&t=board
その理由はと言えば、ラテン・アメリカの作家達の政治的立ち位置を理解せず、80年代ポストモダニズムの衣装として消費されたことに尽きる。
「魔術的リアリズム」という言葉が独り歩きし、大江や中上に影響を与えたとされるが、これは間違い。単に翻訳から、表面的な技法を少しばかり模倣しただけ。
というのは、ラテンアメリカでは先住民、黒人、白人、支配層(白人)が、実際全く違う「時間」と「空間」で生きており、これを「リアル」に表現しようとすれば「魔術的」になる。
日本の80年代は真逆であり、全てが政治性を消去した消費社会の「凡庸」さに解消された時代である。中上などは民俗学と魔術的リアリズムを混同し、挙句の果てに韓国に民俗学の効用を説教に赴いて、在日の知識人に厳しく批判される始末だった。
ところで、1963年生の星野智之はと言えば、ラテンアメリカ文学の翻訳に携わった野谷文昭の所に出入りしていた筈であるが、やはり結局何も学ばなかったらしい。
正直、兄とも仰ぐ島田雅彦(1961生)に釣られて「誰でも言える」極右批判を少しした所で、島田が極右論壇誌の標的にされ、「恐れをなした」という所ではないか?
島田はと言えばこれも軽佻浮薄を絵に描いた男ではあるが、頭は星野よりはるかにいい(小説家としての才能はないが)。
ガルシア・マルケス『百年の孤独』が文庫化されたことがちょっとした話題になっているようだ。
ガルシア・マルケス(コロンビア)、カルロス・フェンテス(メキシコ)、オクタピオ・パス(メシコ)、マヌエル・プイグ(アルゼンチン)、フリオ・コルタサル(アルゼンチン)、バルガス・リョサ(ペルー)などのラテンアメリカ文学は、1959年のキューバ革命を機にパリで大きくクローズ・アップされ、その余波は日本にも及び、1980年代にはこの世代に先行する、アストゥリアス、ボルヘスなどととも多くの作品が翻訳され、一種の「流行」ともなった。
しかし、これらのラテンアメリカの作家達は、みな米帝国主義に批判的だった。というのも、ラテンアメリカはWWII中に英国の非公式の植民地から米国の非公式の植民地に移行、多くの国では大土地所有者を中心とした少数の支配層と軍部が結託して、USAの現地代官となっていたからだ。後にバルガス・リョサなどは右派に転向したが、ガルシア・マルケスは最後まで左派としてアンガジュマンを続けた。ピノチェトによるクーデター後のチリに潜入した映画作家M.リティンに協力した「戒厳令下チリ潜入記」などは岩波新書に翻訳され、私も高校の時読んだ。
しかし80年代の日本における流行は総じて表層的なものに留まったと言える。
人身事故の話
亡くなった夫が家から往復2時間近くかかる病院に入院し、その介護と仕事と息子の世話が重なって何がなんだか分からなくなった時期があって、とにかく何もしない人だから洗濯だのなんだので世話しに病院行かなくちゃならないし行ったら気に入らないことだらけで怒鳴られるしその合間にソーシャルワーカーさんと話ししたり学校からも呼び出しあったりで、もう毎日疲れ切って時々病院に行くために駅のホームで電車を待ってる時なんかにどうしてもふーっと楽になりたいなと考えてしまうことがあって、そういうことをどうしても思い出してしまいます。もう何年も前の話で、なんというか私自身の状況は楽になったけど、社会状況に関してはあの時よりもずーっと苦しくなってて今ここに自分が居る、という選択に対しても本当にそれが良かったと言える確信がなく、ただ私には色々と責任があるのでそれに関しては果たさないとならないので生きていて、何を書きたいのか分からなくなってしまいましたが生きている人は今生きているという選択に喜びがあるといいなと思いますし、亡くなった人には安らぎがありますように、とか、そういうことを考えています。
最近は、「宮崎駿が愛読」などとしての言及されることが多い、
作家・堀田善衞に『広場の孤独』という小説があります。
朝鮮戦争、赤狩りのときの新聞社を題材にしているこの作品で、
堀田は1951年の芥川賞を受賞しています。
新聞社で働く主人公が、
戦争を記事にするときに、米国からの情報をもとに、特定の側を「敵」として報道する、ということをしてしまっていいのか、という疑問をいだくところから話が始まります。
戦後わずか数年、再軍備の話が出始め、アメリカの戦争に荷担していく日本で、
「コミットメントする」ことの意味を考えつづける主人公の物語は、決して過去の話になっていないと思います。
今回、再読してみて、この時点でおきている問題は何も終わっていないし、むしろどんどん解決が難しくなっている・・・と感じました。
国会図書館に登録していれば
ここから読めます。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12481027/1/154
(これで読みにくい場合は、地域の図書館か、最近出ている文庫版などもあるみたいなので、お好きなバージョンで、ぜひ)。
映画と読書と漫ろ歩きを愛する氷河期世代