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「エモい」という形容詞が近年使われていることをはじめて知る。

「キモい」と類義語かと最初思ったけれども、それでは意味が通らない。

 調べて見ると、「エモーショナルな」、「情動を喚起する」に近いようだ。

 しかし、「情動を喚起する」と「エモい」とでは、どうも私にはピンとこないのである。

今週巷で話題になった星野智幸氏の文章、内容自体は「問題外 out of question」の外、むしろ、政局に利用しようとする思惑だろう、と推測した。

どうもこの「推測」、当たっていた模様。

というのも、星野氏は2年前にブログで「政治について」という文章を掲載しており、そこで「共産との同盟」という「毒饅頭」を選択した「立憲民主」に愛想が尽きた、とすでに堂々と書いているからだ。

ここで星野氏は「アベノミクス」を「真っ当なマクロ経済政策」と評価し、民主党はこれを上回る政策を打ち出すべき、としている。要するに、例の「バラマキ・キャンペーン」の一味だった訳だ。

さらに星野氏は共産との同盟を「ジリ貧の左派政党同士で組むこと」と罵倒し、安倍政権が無党派中道の受け皿になった、と無茶苦茶なことを言っている。

ところで、今立憲民主は総裁選真っ最中。野田は維新・国民民主との共闘を主張。これに消極的な枝野に対して圧倒的な優位に立つ。

ただ、東京を中心として共産票がなければ当選がおぼつかない議員も一定数いる。

そこで維新広報紙の「朝日」がダメ押し効果として、一面全部使って「正義に依存する」云々を掲載したのだろう。

しかし津田大介といい、いざとなると共産排除を唱える「リベラル」が必ず滑り込んでくるのは興味深い。

三宅 芳夫 さんがブースト

無罪判決が確定した男性が国に対し、捜査時に採取された指紋やDNA型などを警察庁のデータベースから抹消することなどを求めた訴訟の控訴審判決が30日、名古屋高裁であった。長谷川恭弘裁判長はデータの抹消を命じた1審・名古屋地裁判決を支持し、国側の控訴を棄却した。また、原告が求めていた国や愛知県の賠償責任を棄却した1審判決を支持する一方、暴行を受けたと虚偽の証言をしたとして、建設会社の従業員と会社に計220万円の損害賠償を命じた。

無罪男性のDNA抹消請求、国側の控訴棄却 名古屋高裁、1審を支持 | 毎日新聞
mainichi.jp/articles/20240829/

三宅 芳夫 さんがブースト

BT

「無罪男性のDNA抹消請求」、1審に続いて原告側の主張が認められたみたいで、よかったです。

これ、「マンション建設に反対していた人へのいやがらせ逮捕」という性格がある事件で、
nagoya-kyodo.com/info/kokubaik

冤罪であることがはっきりしたのに、国側が指紋やDNAのデータを消さないという、すごく問題がある話だったので、「DNA抹消」が認められてホッとしました。

もし、こういうふうに「被疑事実あやしいけど、とりあえず逮捕してデータ取る」「容疑が晴れたけど警察はデータ持ったまま」が当然のこととして横行したら怖いですよね。

そうならなくて本当によかった・・・。

 来年度の予算概算要求が公表。軍事費は、8兆5389億円。これは11年連続で過去最高を更新、ついに文教費の2倍に達しました。

 しかも、その内容はと言えば「敵基地攻撃能力の強化」として極超音速誘導弾の開発に3161億円、「衛星コンステレーション」(宇宙戦争用)に、3232億円、小型攻撃用ドローンに30億円、と憲法はおろか、完全にかつての政府見解の「専守防衛」はかなぐり捨てられている。

 その上、米軍再編に伴う経費は金額を示さない「事項要求」としており、総額はさらに膨らむ。

 これで、年金・社会保障は削減ありき、大学には税金を突きこんでゴールドマンサックスに投機を運用させる、というのだから、市民の「生活安全保障」は崩壊の一途である。

 消費税増税は政治的に当面不可能だが、社会保険料負担や高齢者医療負担は増え続けているのだからたまらない。

 この上、物価上昇、賃金は上がらない、預金金利ゼロと来て、ついにNISAをきっかけに家計の貯蓄から投資へと流れが始まったのだろう。

 実際、2000年くらいから頻りに「貯蓄から投資へ」の掛け声はあったのだが、長く「笛吹けど踊らず」。

 政府・銀行、マスコミの大広告キャンペーンでついに決壊した、というところか。

 今大騒動の兵庫県の百条委員会を「衆愚政治」、「デマゴーグ」、「無惨」と他人事のように論評している大阪維新の上山信一氏が副学長を務める予定のZEN大学についての文科省「認可」が28日発表されたらしい。

 結果は留保(継続)審議。形式的な手続きのことはよくわからないが、現在オンライン上でのトラブルが収束してもいない組織に、2025年開学を「許可」するとしたら、これは大変奇妙なことである。

 10月に再審査の結果がでる、とのことだが、なにやら政局が収まるのを待っているのでは、と邪推もしたくなる。

 とはいえ、筋論としては選挙の結果に大学の許認可が左右されるなどあってはならないことは言うまでもない。

 このあたり、文科省の「説明責任」が問われる所になるだろう。

 

「ソフィストについて」

 ソフィストと聞くと、ソクラテスに論破された「詭弁家」というイメージが強いと思います。
 これはプラトンが対話篇において、そのような役割を割り振ったため。日本の高校倫理や欧米でもWWIまでは、そうしたイメージが一般的でした。しかし事はそう単純ではない。

 それぞれの国家が「正義」を掲げて大量殺戮を行い、その実態はと言えば帝国主義列強のヘゲモニー闘争だったWWI語、哲学の世界でもプラトンの「真・善・美」のイデア論への懐疑が高まり、ソクラテス以前の言説への関心が前景化する。

 これは思想的には真っ向から対立するハイデガーとポパーの両者に共通する。

 実際プラトン、アリストテレスは「奴隷制」を自明の前提としていたが、ソフィスト達の多くは「人は皆平等である」として奴隷制を否定。アルキダモスなどはその典型です。

 「万物の尺度は人間である」で有名なプロタゴラスはペリクレス派の民主政支持者だったが、ペロポネス戦争後アテネ民主政が崩壊すると追放された。ちなみにプラトンは反「民主政」派である。

 また同じくプラトンのテクストで懐疑論者として描かれているゴルギアス。彼は人には普遍妥当的な「正義」の認識は不可能ととしたが、一方合意形成による「正しさ」の共有は不可欠とした。

 

意外なことに星野智幸の文章が波紋を広げているようだ。

 少し確認しておくと、この文章の肝は、
 「ずっと社会派を期待され続けて、嫌になったりしないんですか?」

 という「友人」の言葉である。

 その後はお定まりのリベラル=左派=「正義のカルト」というクリシェ(紋切り型)である。

 これは遡れば1983年のコムデギャルソン論争の吉本隆明の主張であり、元新左翼の広告屋達が扇動し、消費社会への批判を「封じる」ために用いたレトリック。

 この論理に従えば、男女平等、ジェンダー規範の批判を主張するフェミニズムも当然「正義のカルト」となる。

 実際星野が所属する文壇は、日本の数ある空間の中でも、最も「ミゾジニー」が爆発している所でもある。

 女性、マイノリティーの小説家も多いのでは、と思われる方もいるかも、だが、「評価の権力」を握っている「批評家」はほぼ日本人男性に牛耳られている。

 1980-90年代は柄谷を筆頭としてこの「批評空間」的なもののヘゲモニーは圧倒的だった。浅田彰の口癖は「女の浅智恵」である。

 であるから、ここからプロデュースされた東浩紀が消費社会全肯定のネトウヨ大王であるのは、自然の流れである。

 このハビトゥスを朝日が政局に利用しているという構図だろう。
 
 

三宅 芳夫 さんがブースト

自宅で死後1か月以上たって発見 半年で4000人近くに 警察庁
www3.nhk.or.jp/news/html/20240

“警察庁は、ことし1月から6月までの半年間に、全国の警察が遺体の検視や調査を行った10万2965人について、年齢や居住の状況を調べました。

およそ3割にあたる3万7227人が『自宅で発見された1人暮らしの人』で、
このうち年代別では
▽85歳以上が7498人でもっとも多く
▽75歳から79歳が5920人
▽70歳から74歳が5635人
などと、65歳以上の高齢者が全体の7割以上を占めています。”

すごい数だ。。。

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 その理由はと言えば、ラテン・アメリカの作家達の政治的立ち位置を理解せず、80年代ポストモダニズムの衣装として消費されたことに尽きる。

 「魔術的リアリズム」という言葉が独り歩きし、大江や中上に影響を与えたとされるが、これは間違い。単に翻訳から、表面的な技法を少しばかり模倣しただけ。

 というのは、ラテンアメリカでは先住民、黒人、白人、支配層(白人)が、実際全く違う「時間」と「空間」で生きており、これを「リアル」に表現しようとすれば「魔術的」になる。

 日本の80年代は真逆であり、全てが政治性を消去した消費社会の「凡庸」さに解消された時代である。中上などは民俗学と魔術的リアリズムを混同し、挙句の果てに韓国に民俗学の効用を説教に赴いて、在日の知識人に厳しく批判される始末だった。

 ところで、1963年生の星野智之はと言えば、ラテンアメリカ文学の翻訳に携わった野谷文昭の所に出入りしていた筈であるが、やはり結局何も学ばなかったらしい。

正直、兄とも仰ぐ島田雅彦(1961生)に釣られて「誰でも言える」極右批判を少しした所で、島田が極右論壇誌の標的にされ、「恐れをなした」という所ではないか?

島田はと言えばこれも軽佻浮薄を絵に描いた男ではあるが、頭は星野よりはるかにいい(小説家としての才能はないが)。

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ガルシア・マルケス『百年の孤独』が文庫化されたことがちょっとした話題になっているようだ。

 ガルシア・マルケス(コロンビア)、カルロス・フェンテス(メキシコ)、オクタピオ・パス(メシコ)、マヌエル・プイグ(アルゼンチン)、フリオ・コルタサル(アルゼンチン)、バルガス・リョサ(ペルー)などのラテンアメリカ文学は、1959年のキューバ革命を機にパリで大きくクローズ・アップされ、その余波は日本にも及び、1980年代にはこの世代に先行する、アストゥリアス、ボルヘスなどととも多くの作品が翻訳され、一種の「流行」ともなった。

 しかし、これらのラテンアメリカの作家達は、みな米帝国主義に批判的だった。というのも、ラテンアメリカはWWII中に英国の非公式の植民地から米国の非公式の植民地に移行、多くの国では大土地所有者を中心とした少数の支配層と軍部が結託して、USAの現地代官となっていたからだ。後にバルガス・リョサなどは右派に転向したが、ガルシア・マルケスは最後まで左派としてアンガジュマンを続けた。ピノチェトによるクーデター後のチリに潜入した映画作家M.リティンに協力した「戒厳令下チリ潜入記」などは岩波新書に翻訳され、私も高校の時読んだ。

 しかし80年代の日本における流行は総じて表層的なものに留まったと言える。

三宅 芳夫 さんがブースト

朝日の記事がざわついているが、朝日には炎上をチェックする部門があるのだそうで。

雑誌「地平」9月号で、吉田調書の記事の全文取り消し処分に遭った当該記者2人が寄稿。恐ろしい内実だと思った。
政府からの報道機関へのプレッシャーが強まっていた頃。記事の取り消しは通常、明かなフェイクニュースや剽窃の場合にだけ用いられるそうだ。立て続けに「リスクの高い」記事が同じ時期に3つ出た。吉田調書の記者はそうした状況下で潰された。朝日の社員の中には、取り消し以来挨拶をしても避けがちに返す人がいたり、巻き込まれないように我先に逃げる人がいたり。

その1人宮崎知己記者ふくむ表舞台から立ち退かされたメディア関係者たちが、9/14に話す。
基調講演:長井暁(元NHK-ETV2001番組担当デスク)
報  告:宮崎知己(元朝日新聞「吉田調書」報道担当記者)  
コメント:大森淳郎(『ラジオと戦争』著者)
     金平茂紀(ジャーナリスト)
     白石草(OurPlanet-TV)
司  会:七沢潔 (中央大学法学部客員教授)
申し込み:peatix.com/event/4090838/?fbcl

三宅 芳夫 さんがブースト

確かに欧米の「正義」、パレスチナの子どもをイスラエルがドローン攻撃機(クワッドコプター)で殺す「正義」、沖縄の米軍基地建設の「正義」、こそ批判すべき対象で、それが身の回りの正義のカルト化に矮小化されてしまうのか、というと、やはりでかくて不当で圧倒的な暴力による正義のほうが怖いからだよね。

三宅 芳夫 さんがブースト

最近は、「宮崎駿が愛読」などとしての言及されることが多い、
作家・堀田善衞に『広場の孤独』という小説があります。

朝鮮戦争、赤狩りのときの新聞社を題材にしているこの作品で、
堀田は1951年の芥川賞を受賞しています。

新聞社で働く主人公が、
戦争を記事にするときに、米国からの情報をもとに、特定の側を「敵」として報道する、ということをしてしまっていいのか、という疑問をいだくところから話が始まります。

戦後わずか数年、再軍備の話が出始め、アメリカの戦争に荷担していく日本で、
「コミットメントする」ことの意味を考えつづける主人公の物語は、決して過去の話になっていないと思います。

今回、再読してみて、この時点でおきている問題は何も終わっていないし、むしろどんどん解決が難しくなっている・・・と感じました。

国会図書館に登録していれば
ここから読めます。
dl.ndl.go.jp/pid/12481027/1/15

(これで読みにくい場合は、地域の図書館か、最近出ている文庫版などもあるみたいなので、お好きなバージョンで、ぜひ)。

 おやおや、星野智幸氏の「朝日」のエッセイに「コメント+」の6人が一斉に賛意を表明している。
 ま、これはこういう時に「飼っている」訳だから当然ではあるけれども。

 しかし、少しだけ真面目に相手にすると、この人達の言う、「リベラル」=「正義のカルト」とは日本の極右自民政権を批判する人達のこと。

 この人達には何の法的強制力もない。であるから、「息苦しく」なったのであれば、離脱すればいいだけのこと。

それに対して現在、「正義」を掲げて暴走している「リベラル」の親玉と言えば、何と言ってもUSAである。

USAの「正義」の観点から「テロリスト」と一旦決めつけられれば、地球上に逃げ場所はない。

パレスティナの人々は「テロリスト」の支持者とされて、一方的に大虐殺されている。女性・子供中心に死者4万人を超え、性暴力はもはや把握不能なまでに吹き荒れている。死者4万と言えば、人口比で言えば日本では300万になる。

 また沖縄の人々は日本政府の「法と正義」に組み敷かれたまま。
 朝日文化人はみんな「自分」を被害者と見立てているが、立憲民主=リベラル=正義の暴走などと眠たいことを述べ立てる前にまず、この構造を批判すべきだろう。
 いやなら別に公論から退けばいいだけこと。ただ、それは「文学」とは何の関係もない。

 日本の現存の作家では池澤夏樹(1945生)は、マチネ・ポエティックの福永武彦の息子として、少なくとも「リベラル」としての筋は通している。

 先日の東京新聞のエッセイでも沖縄戦に触れて「昭和天皇に戦争責任はある」と断言していた。

 これ、歴史的・政治的に見れば当然の結論でしかないが、現在のマス・メディアで、この自明の理を発言できる「作家」がどれだけいるだろうか?

 ところで、池澤夏樹は当然文壇内では傍流である。加藤周一さんが亡くなった時も、作家として唯一追悼文を文芸誌に書いたと記憶している。

 やはり文壇内で孤立していた石川淳が1987年に死去した際に、「お別れの会」で弔辞を読んだのは中村真一郎、加藤周一、安部公房、丸谷才一、武満徹の5人だった。
 この時、当然大江健三郎にも声が掛かったのだが、大江は文壇内の「空気」を読んでこれを断った。このことは中村真一郎さんからも聞いた。加藤さんが「大江君も文壇内の力関係に敏感だから・・・」と嘆いていたのは、こうした背景もある。

 しかし何はもとあれ大江健三郎が才能ある作家であること、これは疑いない。しかし、星野某は池澤夏樹と比較しても、教養と見識と言う点でお話にならない。

 影響を受けたと称しているガルシア=マルケスを再読(初読)してはどうだろうか?

 日本の腐りきった文壇ハビトゥスはそれはそれとして、従来「リベラル」派と見られていたらしい星野智幸が、このタイミングで「立憲民主党」を左派の「正義依存のコミュニティー」と「朝日」でデマを飛ばしていることは、興味深い。

 立憲民主がほんとうに「左派」として筋を通していれば、とっくに政権は奪還できていた筈。

 ところが、実際は左派どころかリベラルでさえない。(星野氏はリベラルと左派の区別もできないようだが)

 そして現在党首選で野田が最有力候補とされている有り様である。現在、維新の広報紙になり下がった「朝日」としては、なんとかして維新と立憲の共闘をサポートしたい。逆に共産との共闘排除は、ある意味財界も含めた日本の支配エリートの総意である。(あと米国も)。

 現在の流れだと自民党総裁選を延々とTVで流し、事実上の「選挙広報」とし、総裁決定後に解散総選挙に打って出るのが「合理的」ではある。何故なら、1年後では「結局生活は悪くなり続けた」ということになるから。

 とは言え、現在世間では茫漠とした「世直し」ムードが漂っている。そこで万が一にも共産と同盟した政権の誕生は排除しておきたい。

 してみれば、星野氏の立憲民主=左派=リベラル=「正義」のカルトという図式は随分タイミングよく飛び出したものだ。

さて、星野智幸という作家の「プチ転向宣言」、ある種のクリシェではあるが、なかなかに味わい深い以下のような深い台詞もある。

「ずっと社会派を期待され続けて、嫌になったりしないんですか?」

これは「ある友人」の言葉で、これを聞いた時、星野氏の「頭は真っ白」になったと云ふ。

これはある意味根が深い問題で、日本の文壇では「社会派」とレッテルを貼られると、「作家」としては「純粋性」が低い、と見られる傾向がある。そもそも「純文学」という概念は日本にしかない。

この圧力は大江健三郎レベルの作家でさえかけられていた。「大江の小説はいいが、エッセイは戦後民主主義的でつまらない」と言われ続けたのである。大江がノーベル賞を取った時、加藤周一さんが「彼にとってよかったじゃないの。」とコメントしたのは、そうした文壇内圧力から「解放されるかも」という意味だった。

こうした旧弊を武田泰淳、埴谷雄高、大岡昇平、堀田善衛などの「戦後文学」は打ち破ろうとしたが、1960年代以降、次第に巻き戻され、1990年に入ると柄谷行人が「日本近代文学の終り」を口にするようになった。

いずれにせよ、現在の「文学」がかつての言説とはまるで別者であることは確か。星野氏の件はゾンビ化した文壇ハビトゥスを白日の下に曝したと言えるかも知れない。

三宅 芳夫 さんがブースト
三宅 芳夫 さんがブースト

BTs

件の作家氏、書いていることのナイーブぶりに、若い人なのかと思いきや、1965年生まれで60才近い方でびっくりしました。

文中で例に挙がっている「外国人差別反対」とか「生産性で人を判断するのはダメ」とか、そんなことは人として当たり前の発言ではないでしょうか。

この程度の発言をするだけで、そんなに葛藤があって苦しかったのなら、もともと関心の比重が「正しさ」の追及ではなく、「マジョリティの側にいること」のほうにあるのでは?という感じしかしません。

「個人語」としての「文学」とやらをやることを決めたなら、そこから「消費」され尽くされることのない強靱な言葉を発せられると信じられるなら、どうぞ、そうしてください。

社会的弱者の味方をするという、この程度のマイノリティ性にすら耐えられず、「正義カルトの左翼が悪い」とわら人形をつくって、闘わない言い訳をしながら「マジョリティ」のなかに座り込んで発信し続けようとする人に、そんな強度の文学が達成できるとは私には到底信じられませんが。

「作家」氏がそうやって言い訳と悪口をこね回しているあいだ、
私たちは、少しでもまともな社会をつくるための歩みをそれぞれに進めていくだけです。

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