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「キムチを売る女」

中国の朝鮮族の女性がシングル・マザーとして暮らす子供との日々。

中国では現在でも「結婚」への同調圧力が強く、とくに女性が独身でいることに対しては風当りが強いとされています。

なぜ主人公の女性は、幼い息子とともに同族のいる故郷を離れて暮らしているのか?・・・

とてもいい映画だと思います。

 米国のマルクス主義文芸批評家、思想家のF.ジェイムソンが亡くなった。1934生だから、今年90歳。合掌。

 ところでジェイムソンもサルトルの研究から始めている。イェール大学から出版された、その博論を1999年に友人達とともに翻訳・上梓した。

 この頃日本では文学科や社会学では「言語論的展開」が一世を風靡しており、私はこの発想をジェイムソン=サルトルの「物自体」=「即自存在」によって批判する解説を寄せた。

 サブタイトルに、「回帰する唯物論」とあるのはそのためである。

 実際、このいわばでっち上げられた「言語論的転回」に対して無批判であったために、日本の人文学は今に至るまで廃墟から立ち直れないでいる。

 
 

 やれやれ、立憲民主の党首選、やっぱり野田が勝ったようだ。

 このマストドンでもひつこく予測していたことではあるが、これは立憲は次の選挙、もうどうしようもないなー😩 。
 
 野田が「初心を貫いて」維新との共闘を選べば、壊滅的大敗は避けられないだろう。

 しかし、野田は民主党政権時代もTPP加盟強行をはじめ、米追従を露骨に表明し、民主党を一度壊滅的大敗に導いた男である。

 どうも、この人、自民が窮地に陥った際の「救世主」の役割を果たしているようにしか見えない。

 今まで立憲に投票していた人の多くは「非自民」・「非維新」の選好で消極的支持の人が圧倒的。自民よりファシズム度が高い「維新」と組んだとあっては、この票は蒸発するだろう。

 実際「維新」が仮に、国政与党になるのでは、何のための「政権交代」はわからない。

 もう2年前に死んだ安倍と統一教会の関係を今頃「スクープ」(メディア関係者なら誰でも知っていたこと)したからと言って、影響は限定的だろう。

 「リベラル左派」の国政レベルでの結集はまだまだ先のことになりそうである。

 とは言え、あまり先の延ばしになると、日本社会自体が内破(implosion)してしまう。

 ここらが忍耐と同時に機動力が必要となる所だろう。

  ところで、スパルタカス君は、自分のことを「極左、ヤクザ、サラリーマン、ウヨクに影響を受けたた」などと変幻自在に自己規定しているが、言葉の上では、なにはともあれ「中道」と見られることを拒否している。

 しかし、フランス18世紀啓蒙の研究者でありながら、いざとなると浅田と「エキセン中道」の元祖シェイエスを「よいしょ」している。これは滑稽極まりない。
 確かに道化の才能は人一倍ある人だから、まあ、これでいいのかもしれないけれども。

 さて、本国フランス革命解釈は、「リベラル中道」F.フュレの修正主義世代の後、現在新自由主義による不平等の拡大を受けて再び平等モメントの再評価への揺れ戻し中。M.アバンス―ルなどは専門の歴史家ではないが、サンジュスト論を書いている程である。

 スパルタカス君が度々引用するE.バリバールにしても「平等なしに自由はない」と語っている。どうもバリバールが来日した時にアテンドしたことが自慢らしいが、実はアルチュセールーバリバールから何も学んでいないのではないか?

 この調子では、凄い勢いでプロデュースしてもらっていたルソー論もはなはだ心許ない。まだ私は読んでいないけれども。

 ご本人は「所謂研究ではない」と予防線を張っているが、ま、いずれ読む=批評することになるかもしれない。

 例のスパルタカス東大教授がこともあろうに浅田彰をフランス革命時の「第三身分とは何か」の著者、シェイエスに準えて、「革命家以来の言説」などと阿諛追従をしている。

 しかし、集まって来る若者をハーレムに囲い込む浅田は論外として、シェイエスは今日本でも「流行」の「エキセン中道」の元祖とされる人物である。

 つまり、シェイエスは市民を「能動市民」と「受動市民」、つまり「上級国民」と「下級国民」に分割し、後者には市民権の一部しか与えないことを提案・実行させた。「能動市民」=一級市民に分類されたのは、かなりの財産所有者の男性のみ。女性全員と中以下階層はここから排除された。

 またテルミドールの反動後、暫時の総裁政府の後、ナポレオンによるブリュメール18日のクーデターが起こるが、この際主導権を取ったのは、シェイエスである。シェイエスは、この時ナポレオンに「私の剣となってくれたまえ」と述べたが、クーデター後あっさりと立場は逆転した。その後、元老院議長、ナポレオン帝政下で伯爵。

 現在、新自由主義が引き起こす矛盾には目をつぶり、都合の悪いことは全てポピュリズムのせいとし、なにがなんでも「中道」を讃える世界的傾向を「エキセン中道」と呼ぶが、これはフランス革命時のシェイエスの立ち位置から名付けられたものである。

鈴木英生(正)

どうも、このあたり短期的記憶障害のあらわれかもしれない。

鈴木秀夫(誤)
鈴木英夫(正)

 ところで、この鈴木という男が「反中」改憲キャンペーンで持って来るのは、前原の師匠である高坂正堯であるとか上山春平であるとか、必ず京大の人間である。

 ここだけ妙に学生時代からの「京大生」意識が連続しているようだ。

 高坂と言えば、「俺が目の黒い内はアカは教授に昇任させない」こともあろうに教授会で吠えていた京大政治学の親玉である。

 その方は、高坂などより遥かに立派な研究をなされ、ご自分で関西の私大に移り教授になられた。

 そもそも、高坂正堯本人が研究と言えるものはほとんどない。頭の悪い右派サラリーマン向けに「指導者目線」で大河ドラマとレベルが変わらない、「読み物」を語っていただけ。

 研究者としてだけなら、戦時中「近代の超克」を唱えた、カント研究者、父高坂正顕の方が上だろう。

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 今日の「毎日」で、京大「ガラパゴス」で石原俊と仲間だった鈴木秀生なる記者が、やや手の込んだ「平和教育」批判をしている。

 ちなみに石原俊は自由民主主義体制のための国防軍の必要性を唱えている明治学院教授。これで「中道」を自称しているのだから、これまたまさに「ザ・エキセン」イデオローグだろう。

 最初に石原がいる明治学院所属の「沖縄研究者」に「従来の平和教育は「もう限界」、「単調」、「修身然とした平和教育によって主体的思考が難しく」なるなどと語らせる。つい最近も米軍による性犯罪が多発していることを考えれば、この「中立」を装った戯言が狙う所は明らかである。

 次は「戦友会」に乗り込んだネトウヨ若者が「従軍慰安婦はいなかった」と主張したことを「衝撃」などと白々しい形容詞で繋いだ後、「若者たちは主体的に思考し、「記憶の継承」をしたかったのだろう、その思いが強すぎたのか。」などと疑問形の寝言で占める。

 種を明かせば、なんのことはない、この鈴木秀生という男、石原俊と組んで、ここ数年「反中」の立場から国防軍創設の必要性を延々と「毎日」でキャンペーンししている。

 考えて見れば、今日「毎日」は山尾志桜里にも国防軍のための改憲を主張させていた。維新広報部の朝日政治部と並んでメディアの腐敗、ここに極まれり。

三宅 芳夫 さんがブースト
三宅 芳夫 さんがブースト

NPR: Denny Tamaki, governor of Okinawa prefecture, says his personal story is deeply entwined with the U.S. military’s presence on the island.#news #NPR npr.org/2024/09/21/nx-s1-51204

三宅 芳夫 さんがブースト

大学を何だと思っているのだろう。

筑波大学、機関投資家向け行動規範受け入れ 国立大で初 - 日本経済新聞 2024/09/20 nikkei.com/article/DGXZQOCC200

 どうも解散・総選挙に合わせて、マスメディアが例の「石丸」の大広告をしているようだ。

 今日も毎日新聞で山尾志桜里が立憲民主を「左翼政党から脱皮してリベラル政党になれるか」と語っている。
 
 しかし立憲民主は民主党時代も含めて「左翼政党」であったことはない。議員にしても主張が「左派」と言える人は参院に一人いるくらいではないか?

 真面目に言えば、またまた「エキセン中道」言説、となる。

 ところで、山尾志桜里本人は愛知で共産票でぎりぎり競り勝っておきながら、憲法改正を主張しているのだから、「開いた口が塞がらない」とはこのこと。

 しかし、この山尾という人、「改憲」に取り憑かれて、WILLやHANADAにも登場しているのだから、もはや「ネトウヨ」レベルである。

 しかも「野党は安全保障に弱い」と仰っているが、ご本人は安全保障について「何もご存じない」。

 要するにマスコミ的には、念には念を入れて維新との共闘を主張する野田を支援しておこう、ということなのだろう。

 ところで、今回の総選挙の争点はどうみても「生活苦」になる。
 軍事費5年で倍増、社会保障削減及び保険料負担増の「ネオリベラル」では誰も票を入れない。

 むしろ、「ファシズム化する新自由主義」に対する人民戦線が必要だろう。

 J.ルノワール『ラ・マルセイエーズ』(1938)。ジャンは有名なA.ルノワールの息子。この映画では、兄ピエールはルイ16世役で出ている。

 ルノワールは1930年代、「トニ」(35)、「ランジェ氏の犯罪」(36)「ピクニック」(36)、「大いなる幻影」(37)、ゲームの規則(39)など映画史に残る傑作を立て続けに監督。「トニ」、S.バタイユが主演した「ピクニック」ではビスコンティ、「ラ・マルセイエーズ」ではベッケルが助監督を務めた。

 この映画は「人生は我らがもの」と同様、反ファシズム人民戦線への連帯として撮影された。

 最初は1789年7月14日、バスティーユ襲撃を知らされたルイ16世が「暴動か?」ー側近「陛下、これは革命です」の有名な場面で始まる。

 映画では南仏のプチ・ブルジョアのインテリ、マッソン(石工だが、フリーメーソンの意味も掛ける)、貧農、下層都市民の4人に焦点があてられる。

最後は、共和国の存続をかけてヴァルミーでプロイセン軍に立ち向かう場面で終わり、「ここから、そしてこの日から新たな世界史が始まる」というゲーテの有名な言葉が引用される。

この場面で「自由」=「恋人」の比喩が用いられる。レジスタンス中のエリュアールの有名な「自由よ、僕は君の名を書く」はここから来たのだろう。

三宅 芳夫 さんがブースト

平塚市議の江口友子さんが市が設置しているベンチの「排除」仕切りの撤去に初めて成功したことについての記事(東京新聞)

(以下引用)
「ベンチを直してほしい。その際、突起物を外してほしい」と同課(=市道路管理課※引用者注)に掛け合った。担当者も賛同し、改修と仕切りの撤去を約束。
tokyo-np.co.jp/article/274572

三宅 芳夫 さんがブースト

』10月号の連載「米軍主権国家」。
1回目、星野潔さんの「港ヨコハマの米軍基地 横浜ノースドッグで何が起きているのか」を読みました。

「横浜ノースドッグには、二〇〇二年八月から〇四年九月までの間に、一〇隻のラニーミード級陸揚艇(LCU)などさまざまな陸揚作戦用資材が搬入され、備蓄されるようになった。

これは、この基地が、米陸軍の戦争資材を世界各地に事前配備するための陸軍事前配備貯蔵(APS)拠点の一つになったことを意味する。

APSの拠点は、全世界にAPS-1(米本国)、APS-2(欧州)、APS-3(洋上)、APS-4(北東アジア)、APS-5(南西アジア)の五カ所が存在する。このうち横浜ノースドックは、相模総合補給廠および韓国の大邱(キャンプキャロル)とともにAPS-4を構成しており、そのうち、主に陸揚作戦用資材の備蓄を担っている」(p126)

今年から、横浜ノースドッグには米軍の兵站用の部隊も配備されています。

戦争継続のため戦地に物資を送る専門部隊です。

朝鮮戦争、ベトナム戦争のときも、米軍のための輸送拠点だった横浜。

ふたたび「軍港」化し始めています。
今度の輸送先は南西諸島、つまり沖縄です。

(参考)
tokyo-np.co.jp/article/225800

三宅 芳夫 さんがブースト

ジャン・ルノワール生誕130周年、「コルドリエ博士の遺言」「捕えられた伍長」4Kレストア版1週間限定公開
eiga.com/news/20240921/10/

#eiga_news #映画

4代世襲の国会議員にして次期自民党総裁最有力候補(つまり首相候補)の小泉進次郎がまた、「寝言は寝て言え」と批判されているようだ。

 伝え聞く所では、「大学などに行かずに旅館で働き始めて金持ちになる道もある」などと、それこそ「臍で茶が湧く」戯言を公にしたらしい。

 勿論、法的・形式的には近代社会では「職業に貴賤はない」。しかし、現実には所得・社会的威信において大きな差がある。いわば階層差があることも、織り込まれているのが近代社会。

 これを正当化するために「能力主義」という言説と制度があり、日本の場合、一般人は学歴によって「能力」を判断される。

 しかし、この学歴は親の所得・資産と相関することは、統計的に証明されている(ということは少数のネグリジブルな例外はある)。

進次郎は「例外」なのだが、「家」の権力があまりに強大なため、階層を飛び越えて「支配階級」のメンバーとなり、遂には首相=最高権力者になろうとしている。

 ところで、宋代以降の科挙制度によって中国は究極の受験社会となった。親が高官でも科挙に受からなければ3代で没落。
 逆に科挙に受かれば出身地域が恩恵を蒙ったので、貧困家庭の「神童」は周囲の援助で「塾」に通い、科挙に挑戦。
 ちなみに官と吏は元来ー臣と民と同じくー別概念である。
  

 1951年と言えば、日本では堀田善衛の「広場の孤独」が発表された年。また、サン・フランシスコ講和条約(日米同盟)に反対して、平和4原則、非同盟中立路線が社会のかなりの部分の同意を得る。

 欧州ではサルトル、メルロー=ポンティ、ボーヴォワールの『現代』を中心とした独立左派が朝鮮戦争の勃発のアルジェリア独立問題で、四分五裂へと追い込まれていく。

 この中であくまで「中立」と植民地独立を堅持したのがサルトルと『現代』です。メルロー=ポンティとカミュは、朝鮮戦争とアルジェリア問題にある意味「躓き」、冷静な状況判断能力を失って脱落していきます。

 そうした意味でユーラシアの東端と西端で「国際冷戦レジーム」への抵抗としての「中立主義」が成立し、ある期間までは有意味な参照関係が成立したのは、こうした世界空間の再編、という背景があったと思います。

 ロッセリーニ自身はその後、アッシジのフランチェスコの伝記(?)映画(「神の道化師 フランチェスコ)を撮り、ある意味、キリスト教左派的な社会主義に向かっていきますけれども(「殺人カメラ」)・・・

 現在の研究では米国は伊共産党に政権にわたすつもりはなく、万一選挙で保守連合が過半数をとれなかった場合、英とともにイタリアを軍事占領する予定だった、ことが明らかにされている。

 結果はキリスト教民主党を中心とする保守の僅差の勝利。スターリンがイタリアに軍事介入する意志がないことを知っていたトリアッティを含めた共産党最高幹部はむしろ、ほっとしたかもしれません。

 実際、ギリシアでは優勢だった左派が英軍の介入で排除され、ソ連もそれを見捨てた。(というか、チャーチルとスターリンはそのことについて大戦末期に合意していた)。

 この映画「1951」では米国人で、イタリアの資本家の妻となったI.バーグマン演じる主人公(米国人)は、子供の死とともに「社会問題」に目覚め、「イタリア共産党」の文化部長の親族(イタリアでは上流階級出身のコミュニストはかなりいた)としばらくともに行動するが、結局袂をわかち、半ば自分の意志ともとれる流れで精神病院に監禁される、ところで映画は終わる。

 日本では1951年、と言えば堀田善衛の「広場の孤独」が発表された年(続く)。

ロベルト・ロッセリーニ「ヨーロッパ 1951」

「無防備都市」、「戦火のかなた」、「ドイツ零年」のネオリアリズモ期のロッセリーニの3作品はよく知られていると思います。

 実際、傑作でもあるし、ゴダールの「映画史」でも、もっとも登場回数が多い三作かもしれません。

 1944-1945のイタリアは反ファシズムの熾烈な内戦(中部・北部イタリア)を経て、(ロッセリーニの前2作は、イタリア・パルチザンのたたかいが舞台)、戦後国民投票で王制を廃止し、共和国へと移行。
 
 ところが、戦後た直ちに地球規模での国際冷戦レジームの構築が始まり、イタリアは分断されたドイツ、ギリシアなどともに、ヨーロッパにおける最前線地帯となる。

 ただし、共産党の存在が認められたように、ドイツ、ギリシア、韓国と比較すると「緩衝地帯」としての要素も入っては来る。

 この点、フランスと類似する面もあります。日本は同じく「前進基地」であると同時に「緩衝地帯」とされた点で、近い面もある。ただし、イタリアは長くイタリア共産党(PCI)が野党第一党である点が大きく異なります。とくに内戦地域になった中部イタリアでは圧倒的。

 しかし、ロッセリーニは非「共産主義」左派であったため、冷戦の激化とともに、難しい立場に立たされていく(続く)。

 

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