平塚市議の江口友子さんが市が設置しているベンチの「排除」仕切りの撤去に初めて成功したことについての記事(東京新聞)
(以下引用)
「ベンチを直してほしい。その際、突起物を外してほしい」と同課(=市道路管理課※引用者注)に掛け合った。担当者も賛同し、改修と仕切りの撤去を約束。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/274572
『#地平 』10月号の連載「米軍主権国家」。
1回目、星野潔さんの「港ヨコハマの米軍基地 横浜ノースドッグで何が起きているのか」を読みました。
「横浜ノースドッグには、二〇〇二年八月から〇四年九月までの間に、一〇隻のラニーミード級陸揚艇(LCU)などさまざまな陸揚作戦用資材が搬入され、備蓄されるようになった。
これは、この基地が、米陸軍の戦争資材を世界各地に事前配備するための陸軍事前配備貯蔵(APS)拠点の一つになったことを意味する。
APSの拠点は、全世界にAPS-1(米本国)、APS-2(欧州)、APS-3(洋上)、APS-4(北東アジア)、APS-5(南西アジア)の五カ所が存在する。このうち横浜ノースドックは、相模総合補給廠および韓国の大邱(キャンプキャロル)とともにAPS-4を構成しており、そのうち、主に陸揚作戦用資材の備蓄を担っている」(p126)
今年から、横浜ノースドッグには米軍の兵站用の部隊も配備されています。
戦争継続のため戦地に物資を送る専門部隊です。
朝鮮戦争、ベトナム戦争のときも、米軍のための輸送拠点だった横浜。
ふたたび「軍港」化し始めています。
今度の輸送先は南西諸島、つまり沖縄です。
ジャン・ルノワール生誕130周年、「コルドリエ博士の遺言」「捕えられた伍長」4Kレストア版1週間限定公開
https://eiga.com/news/20240921/10/
4代世襲の国会議員にして次期自民党総裁最有力候補(つまり首相候補)の小泉進次郎がまた、「寝言は寝て言え」と批判されているようだ。
伝え聞く所では、「大学などに行かずに旅館で働き始めて金持ちになる道もある」などと、それこそ「臍で茶が湧く」戯言を公にしたらしい。
勿論、法的・形式的には近代社会では「職業に貴賤はない」。しかし、現実には所得・社会的威信において大きな差がある。いわば階層差があることも、織り込まれているのが近代社会。
これを正当化するために「能力主義」という言説と制度があり、日本の場合、一般人は学歴によって「能力」を判断される。
しかし、この学歴は親の所得・資産と相関することは、統計的に証明されている(ということは少数のネグリジブルな例外はある)。
進次郎は「例外」なのだが、「家」の権力があまりに強大なため、階層を飛び越えて「支配階級」のメンバーとなり、遂には首相=最高権力者になろうとしている。
ところで、宋代以降の科挙制度によって中国は究極の受験社会となった。親が高官でも科挙に受からなければ3代で没落。
逆に科挙に受かれば出身地域が恩恵を蒙ったので、貧困家庭の「神童」は周囲の援助で「塾」に通い、科挙に挑戦。
ちなみに官と吏は元来ー臣と民と同じくー別概念である。
1951年と言えば、日本では堀田善衛の「広場の孤独」が発表された年。また、サン・フランシスコ講和条約(日米同盟)に反対して、平和4原則、非同盟中立路線が社会のかなりの部分の同意を得る。
欧州ではサルトル、メルロー=ポンティ、ボーヴォワールの『現代』を中心とした独立左派が朝鮮戦争の勃発のアルジェリア独立問題で、四分五裂へと追い込まれていく。
この中であくまで「中立」と植民地独立を堅持したのがサルトルと『現代』です。メルロー=ポンティとカミュは、朝鮮戦争とアルジェリア問題にある意味「躓き」、冷静な状況判断能力を失って脱落していきます。
そうした意味でユーラシアの東端と西端で「国際冷戦レジーム」への抵抗としての「中立主義」が成立し、ある期間までは有意味な参照関係が成立したのは、こうした世界空間の再編、という背景があったと思います。
ロッセリーニ自身はその後、アッシジのフランチェスコの伝記(?)映画(「神の道化師 フランチェスコ)を撮り、ある意味、キリスト教左派的な社会主義に向かっていきますけれども(「殺人カメラ」)・・・
現在の研究では米国は伊共産党に政権にわたすつもりはなく、万一選挙で保守連合が過半数をとれなかった場合、英とともにイタリアを軍事占領する予定だった、ことが明らかにされている。
結果はキリスト教民主党を中心とする保守の僅差の勝利。スターリンがイタリアに軍事介入する意志がないことを知っていたトリアッティを含めた共産党最高幹部はむしろ、ほっとしたかもしれません。
実際、ギリシアでは優勢だった左派が英軍の介入で排除され、ソ連もそれを見捨てた。(というか、チャーチルとスターリンはそのことについて大戦末期に合意していた)。
この映画「1951」では米国人で、イタリアの資本家の妻となったI.バーグマン演じる主人公(米国人)は、子供の死とともに「社会問題」に目覚め、「イタリア共産党」の文化部長の親族(イタリアでは上流階級出身のコミュニストはかなりいた)としばらくともに行動するが、結局袂をわかち、半ば自分の意志ともとれる流れで精神病院に監禁される、ところで映画は終わる。
日本では1951年、と言えば堀田善衛の「広場の孤独」が発表された年(続く)。
ロベルト・ロッセリーニ「ヨーロッパ 1951」
「無防備都市」、「戦火のかなた」、「ドイツ零年」のネオリアリズモ期のロッセリーニの3作品はよく知られていると思います。
実際、傑作でもあるし、ゴダールの「映画史」でも、もっとも登場回数が多い三作かもしれません。
1944-1945のイタリアは反ファシズムの熾烈な内戦(中部・北部イタリア)を経て、(ロッセリーニの前2作は、イタリア・パルチザンのたたかいが舞台)、戦後国民投票で王制を廃止し、共和国へと移行。
ところが、戦後た直ちに地球規模での国際冷戦レジームの構築が始まり、イタリアは分断されたドイツ、ギリシアなどともに、ヨーロッパにおける最前線地帯となる。
ただし、共産党の存在が認められたように、ドイツ、ギリシア、韓国と比較すると「緩衝地帯」としての要素も入っては来る。
この点、フランスと類似する面もあります。日本は同じく「前進基地」であると同時に「緩衝地帯」とされた点で、近い面もある。ただし、イタリアは長くイタリア共産党(PCI)が野党第一党である点が大きく異なります。とくに内戦地域になった中部イタリアでは圧倒的。
しかし、ロッセリーニは非「共産主義」左派であったため、冷戦の激化とともに、難しい立場に立たされていく(続く)。
「おひとりさま族」、2年ほど前、韓国文化院のコリアン・シネマ・ウィークという企画で見ました。
「ひとりで生きる人たち」という原題通り、「あんまり他人に干渉されたくない」スタイルの若者の話です。
韓国の人たち、一緒にご飯食べると、自分が食べているパンをちぎって分けてくれたりするし、温かいなぁと思いますが、その社会のなかで生きると干渉がしんどい、というひともやっぱりいるんだなぁと思いました。
一人分ごとに区切られたスペースがある日本式っぽいラーメン屋さんで食事するシーンがでてきて面白かったです。
ちなみに、韓国文化院の韓国映画上映、会員登録と応募が必要ですが、無料で映画が見られます。
(結構人気があって、応募してから抽選になります)
ここ数年はコロナの影響で、オンライン上映会になっていたのですが、今は四谷の会場での上映にまた戻ったみたいです。
今、ちょうど応募期間のようです。
・コリアン・シネマ・ウィーク
https://www.koreanculture.jp/info_news_view.php?number=7910
・韓国映画上映会「告白、あるいは完璧な弁護」
https://www.koreanculture.jp/info_news_view.php?number=7899&cate=1
あと、韓国文化院は大阪にもあります。
https://www.k-culture.jp/index.php
「•••性的人間にとってこの宇宙に異物は存在せず、他者も存在しない。性的人間は対立せず、同化する。
政治的人間は絶対者を拒否する。(•••)絶対者と共に存在するためには、政治的人間であることを放棄し性的人間として絶対者を、膣が陽根をうけいれるようにうけいれるか、牝が強大な牡に従属するように従属しなければならない。」(大江健三郎)
異様な文章だと思う。クイアー的でもある。」by スパルタカス教授
スパルタカス君は、上の大江の文章を「クィアー」的などと眠たいことを言っているが、これは間違い。
ここの箇所は単に、若い大江がサルトルとジュネの浅い理解に「ファロサントリスム」的表現をまぶしたものに過ぎない。
サルトルは『存在と無』において「性的関係」によってヒトは「他者」との距離を極小化せんー「他者の我有化」ー言語・誘惑・サディズム・マゾヒズムなどの行為を試みるが、それは存在論的には挫折する、と記述。この性的関係についての見方は小説にも大作『聖ジュネ』にも貫かれている。
「他者の我有化」の不可能性は例えばサルトルを読まなかった島尾敏雄の『死の棘』などに見事に表現されている。
この頃の大江は師である渡辺一夫に「君は異常な生活をしながら普通のことを書いている。本来の作家は逆」と諭されていた。
「改憲」について、自民総裁候補6人全員が賛成、立憲候補の内、「反対」は枝野・吉田晴美二人のみ。
しかし、今や「内破 implosion」寸前の日本社会において「改憲」作業などは、もはや百害あって一利なし。ただでさえ、ナイアガラの滝に向かって直行中であるのに、その速度を加速する意味しかない。
しかも、立憲党首選はほぼ野田当確、の予想が出ている訳だから、永田町政治は、完全に市民社会からの入力機能を喪失している。
ところで、原発増設にも自民6人が全員賛成。つい直近まで「脱原発」が曖昧模糊ながらも、世論の大勢を占めていたかと見えたが、経産省の巻き返しによってあれよあれよという間に「原発全面再稼働」が国策となり、さらに原発を増設する、と云ふ。
ところで、原発増設には途方もないカネがかかる。この財源は電力料金負担増によって賄う、というのだからこんな「べらぼう」な話はない。
ところで、小泉進次郎、私の記憶では、ついこの間まで「脱原発」派の「振り」をしていた筈。どうせ、これもポーズだけだったのだろう。
それにしても、原発汚染水の海水流出を批判する声を「科学を理解していない」と弾劾していたネトウヨ大王の東浩紀は、改めて許しがたい。「風評加害」を法的告訴の対象とせよと主張する開沼博も右に同じ。
Xで「ジロウ」というアカウントの観光社会学者が、「俺の非正規時代長かった!」的なことを言って少し話題になったようだ。
しかし、この人、なんと「あの」池内恵(東大先端研)がボスを務めるROLESという組織のメンバーでもある。
ROLESと言えば、ネタニエフの側近の講演会をしたり、エジプトの旧王室の関係者を「王子」として招いたりしている、日本の中等研究界隈では有名な所である。
ネタニエフとのパイプをもつ、シンクタンクRolesと観光社会学の間に、どういうコネがあるのかわからないが、全く無関係というわけもない。
仮に、自分の観光社会学とやらとネタニエフ政権が直接の関係がないにしても、まずは「自分の良心」に問いかけるべきであろう。
でないと、このままでは「イスラエル制圧下の中東観光の在り方について」などという共同研究をイスラエル観光省としているのではないか、と邪推を生みかねない、と思う。
そうなると、「専任になれてよかったね!」では済まなくなるのではないか?
・今の投稿で紹介した記事を読み、
早稲田大学が三菱電機・清水建設・東京電力という3つの会社との連携を深めていることを知りました。
三菱電機は、家電などのイメージがあるかもしれませんが、同グループの三菱重工とともに、国内トップの軍需産業です。
自民党への献金、防衛省からの天下りの常連で、防衛省の受注額4位です。
(参考)
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik24/2024-08-14/2024081402_02_0.html
・また、早稲田大学には、
「イノベーション・ファイナンス国際研究所」という、むやみにイスラエル関連のイベントをおこなっているところもあります。
https://cfi-wbs.com/category/event/
ここが昨年行った二つのイベントには、ミリオンステップスという会社の人が登壇しています。この会社、イスラエルの元軍人が設立した、対イスラエルビジネス専門のコンサル会社のようです。
私立とはいえ、
こういう催しを大学がおこなうのはおかしくないですか。
「都の西北」で始まる校歌のなかで、「学の独立」の価値をうたう早稲田大学。
お金にも、権力にも寄り添わない、学問を独立を守る大学であってほしいです。
イスラエルの軍事行動に反対する学生や軍事・原発関連の企業との連携に反対する守中高明氏ら教員らの動きにさらにつづく人たちが出ることを願います [参照]
「早稲田大学は軍事企業、原発関連企業との連携協定を破棄せよ!」教員らが署名活動
(守中高明・早稲田大学教員|2024年9月13日8:05PM・週刊金曜日)
https://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2024/09/13/antena-1516/
「 あってはならない事態が今、早稲田大学で起きている。「カーボンニュートラル」をスローガンとして、大学側が三つの軍事企業・原発関連企業との間で包括連携基本協定を結びつつ、この3社が代表する経済産業界に知的・人的資源を供給すべく、全学的研究組織を編成し、教育制度を運営する――これは、総動員と呼ぶほかない体制だ」
「 三菱電機‐清水建設‐東電ホールディングス――なぜこの3社なのか。それは、この3社が、現政権が遂行する日本の軍事国家化と原子力発電再拡大化を中心的に担うことによって利益の最大化を目指す企業であるから、そしてその企業と知的・人的資源を共有する巨大な経済回路の中で、早稲田大学が「成長」を確実にすることを企図しているからだ」
「・・・三菱電機は警戒管制レーダーシステムや次世代戦闘機搭載用「ミッションアビオニクスシステム」と「原子力プラント用電機品」の開発生産を並行して進め、清水建設は沖縄米軍基地や日本全土の自衛隊基地と日本の全原発の建設を同時に担ってきた」
あと、「柄谷さん、相変わらずだなー」と感じたのは、現在の破局間際の資本主義に対するオルタナティヴを「所詮、システムに回収される」と他人事のように済ませていること。
勿論、メディアで広告されている「新しい資本主義」やら、SDGsものやら、怪しいものはあるのだが、柄谷さんは昔から福祉・雇用を確保するための福祉国家的再配分に全く関心がない。要するに「資本主義を延命させるだけ」という旧態依然たるマルクス主義と変わらない。
従って、瞬間的に政治に介入しようとしたNAM時代にも労働運動には全く関心がなく、基本消費者運動一点張りの姿勢だった。
これは、80年代・90年代柄谷さんが米国のリバタリアンに近い位置に自分を置いていたこととも関連する。90年代後半から2000年にかけて、私はその文脈のリバタリアン的主張は新自由主義を利するだけと主張、何度か論争的になった。21世紀に入り、さすがに「リバタリアン」とは距離を取るようになったのはいいが、どうも最近「宗教」に凝り始めたようだ。
しかし、柄谷さん(1941生)世代の高学歴者は実は世界史上稀に見る経済成長のお陰で、福祉国家的再配分が無用だったことには無自覚なまま。
これは80年代に「スキゾ・キッズ」(東浩紀)に可能性を見た浅田彰にも共通する。
しばらく目にしないと思っていた柄谷さんの、自己修正「回顧録」まだ「朝日」で続いていたようだ。
どうも年齢のせいか、「霊的なもの」に傾斜しているようだ。
ところでウィトゲンシュタインの「語り得ぬ」ものは、なにやらありがたそうな響きはあるが、たいした噺でもない。
英語圏で言えば、片や、量子論から素粒子論への道を開いた天才物理学者P.ディラック(平和主義者でもある)の「ウィトゲンシュタインは数学について何も理解していない」との批評、他方、K.ポパーの「火かき棒」の挑発でウィトゲンシュタインが応答不能になった、という例のエピソードでもう十分である。
柄谷さんも「語り得ぬもの」を安易に、「贈与」、「交換」、宗教と繋ぐ傾向があるが、これはそれぞれの概念が厳密に定義されていないため、結果として茫漠とした話になっている。
また相変わらず「資本=ネーション=国家」という安易な図式を使っているが、これは柄谷さんが等号記号の意味もちゃんと理解していないことを示す。
ついでに言うと、柄谷さんはこの「資本=ネーション=国家」の図式をヘーゲルで説明(濫用)している時期があったが、これは2000年の対談の時に私がヘーゲルについて話したことを変形したものである。
ただし、あまりにも不正確であるけれども。
国内株式、8月の東証史上最大の暴落に見られるように、「調整」をしながら(この過程で海外投資家は「巨万の富」を得る)、下がっていくこと、これはほぼ間違いない。
繰り返し書いているが第二次安倍政権発足時1万円足らずだった東証平均が、先日の暴落前には4万円越え。昨日も一時700円下落して、現在3万6千円程度。これでも実体経済には全く見合っていない。
NISAを餌にして家計貯蓄を株式市場に動員せんとするも、先日も大暴落で不安感も発生。噂に聞くにSNSでは一部「阿鼻叫喚」の有り様だったとか。
そこで遂に、GPIFの国内株式投資を5%増やす、と発表。要するに年金基金で株を買い支えるとのメッセージである。これで、ほいほいとまた性懲りもなく貯蓄・給与を株式投資に振り向ける「鴨」はある程度出るだろう。
大昔からギャンブルで一度大儲けした人間は「すっからかん」になるまでかけ続けると言われている。
ところで、問題はGPIFの運用はゴールドマンサックス系に任されていること。
ゴールドマンサックスと言えば米国の世界最大級の証券・投資企業。先月の暴落でも「濡れ手に粟」の儲けを手にした可能性が高い。
この状況でGPIFの国内株式投資比率を12-25-30%と十年で2倍半に増やすと、これ如何に? [参照]
年金資金の運用、この10月にさらに国内株式の比率を5%増やすらしい😵💫😱😣
安倍が2014年に12%から25%に増やした時も危惧の声が聞かれたけれど、さらに増やすなんて危険じゃないの?
経済のことはよく分からないけれど、自分で自分の足を食べるタコ🐙みたいな感じがするのは気のせい?
『日本株比率を5ポイント増か GPIFにかかる期待と懸念 』(有料記事です)
https://bunshun.jp/denshiban/articles/b9534
BT
とても冷え込む日、雨が強く降る日、山之口貘さんの詩「生活の柄」を思い出します。
「夜空と陸との隙間にもぐり込んで」寝ているひとたちは、今どうやってしのいでいるだろう、と。
おやおや、慶応SFCの竹中平蔵の弟子、小泉進次郎の「解雇規制撤廃」を「まろやかに」広告している。
企業が倒産したら、労働者も失業するよ、いう脅迫である。実際は企業は史上空前の利益。
これは竹中平蔵やコロナ禍で経産省と組んで一儲けした「行動経済学」の大竹文雄(阪大)と同じ主張を繰り返しているだけ。
中室氏が言う「エビデンス」だが、一時期大竹文雄は「労働裁判で組合側が勝訴すると失業率が上がる」エビデンスがある、と主張していた。ところが、この主張、時流が少し変わって簡単に変更したらしい。
とにかく自称経済学者達の言う「エビデンス」程あてにならないものはない。
何やら数理統計的裏づけがあるような見せかけを印象付けるが、統計というのは、個々のデータが「真」でも、組み合わせや仮定条件が変えるだけでいくらでも「偽」の命題に改変できる(この改変過程は一般市民にはブラックボックスにする)。
とは言え、中室氏や竹中氏の場合は、そんな高級な話ではなく、単に肩書のある、誤用芸人である。さすがにこの人達を「経済学者」と思っているプロはいない(勿論プロの経済学者にも問題はあるのだが)。
それはそれとして中室氏、「規制改革会議」メンバーなわけだから、言ってみれば当事者。究極の利益相反とはこのことであろう。 [参照]
哲学・思想史・批判理論/国際関係史
著書
『世界史の中の戦後思想ー自由主義・民主主義・社会主義』(地平社)2024年
『ファシズムと冷戦のはざまで 戦後思想の胎動と形成 1930-1960』(東京大学出版会)2019年
『知識人と社会 J=P.サルトルの政治と実存』岩波書店(2000年)
編著『近代世界システムと新自由主義グローバリズム 資本主義は持続可能か?』(作品社)2014年
編著『移動と革命 ディアスポラたちの世界史』(論創社)2012年
論文「戦争と奴隷制のサピエンス史」(2022年)『世界』10月号
「戦後思想の胎動と誕生1930-1948」(2022年)『世界』11月号
翻訳F.ジェイムソン『サルトルー回帰する唯物論』(論創社)1999年