「•••性的人間にとってこの宇宙に異物は存在せず、他者も存在しない。性的人間は対立せず、同化する。
政治的人間は絶対者を拒否する。(•••)絶対者と共に存在するためには、政治的人間であることを放棄し性的人間として絶対者を、膣が陽根をうけいれるようにうけいれるか、牝が強大な牡に従属するように従属しなければならない。」(大江健三郎)
異様な文章だと思う。クイアー的でもある。」by スパルタカス教授
スパルタカス君は、上の大江の文章を「クィアー」的などと眠たいことを言っているが、これは間違い。
ここの箇所は単に、若い大江がサルトルとジュネの浅い理解に「ファロサントリスム」的表現をまぶしたものに過ぎない。
サルトルは『存在と無』において「性的関係」によってヒトは「他者」との距離を極小化せんー「他者の我有化」ー言語・誘惑・サディズム・マゾヒズムなどの行為を試みるが、それは存在論的には挫折する、と記述。この性的関係についての見方は小説にも大作『聖ジュネ』にも貫かれている。
「他者の我有化」の不可能性は例えばサルトルを読まなかった島尾敏雄の『死の棘』などに見事に表現されている。
この頃の大江は師である渡辺一夫に「君は異常な生活をしながら普通のことを書いている。本来の作家は逆」と諭されていた。