運命のダイヤル、オールドファンにも今の映画が好きな人にも中途半端な映画だと思うんだけど、全然悪くないし、概念としての「インディ・ジョーンズ」を成り立たせるならこれが妥当なラインとしか言いようがないんではないでしょうか。決め技を後継者に譲っての引退試合、花束贈呈でお疲れ様でしたー!みたいな。
特に思い入れなし、でもレイダースマーチだけは大好き!という私からみると「こんな感じよね」と正しくないけど価値のある文化財レプリカを再現してる感じというか。「なんか微妙に違うけどこれはこれでモッサリのんびり大味なとこは再現できてるからいい仕事なんじゃないかなー」って思いましたよ。多少は現代的に表象に気を使っていて、でも限界はあるな?を最大限真面目に取り組む姿勢で可能な範囲でカバー、役者の良さを引き立てて守ることに徹するマンゴールド(エゴを感じさせないのが個性になってる人よなーと思う)映画だなーという感想。
面白いかどうかでいくとそんなでもないけど、そもそも引っかかりのないインディ・ジョーンズなんてインディ・ジョーンズではなくなってしまうからそもそもIPとしての魅力と「今」が合わないんだよな。このくらいのガワだけで本当は何にもない話ありつつ1969年設定で裏づけしたのは割とよいアイデアだったのはなかろうか。
『悪魔がみている』を見ていました。ロモーラ・ガライ監督脚本(出演はしてない)のホラー。この人、こんなガチなの撮る人だったのか…(どういう意味でガチなのかは多分見たらわかる)
フェミニストホラーなんだけどフェミニストホラーと位置づけていいものかどうか迷うような怪作になっていて、なかなか面白かった。多分一般には男性はもちろん女性にもあんまり受けないと思うんだけど、なぜこれが特別に厭で残酷な話に見えるのか?と考えてみるとソワソワしてきます。
ホラーにおける悔恨は呪いとほぼ同義であるのはみんな知ってるよね。不条理な虐待を受けることも見慣れているはず。でもその対象がいつも見慣れてる存在じゃなかったら?しかも不条理じゃないよ?なのになんでこんな厭な気持ちになる?
とホラーが割と好きな女性の立場として混乱してしまうのが逆にフェミニストホラーとしての新味なのではなかろうか。そういう意味でもアレック・セカレアヌを主演に置いているのが面白い捩れを感じさせる。そしてセカレアヌさんは十分以上にそれに応えている。なんとなく『ラスト・ボディガード』でアリス・ウィノクール監督がマティアスさんにやらせたことと近い雰囲気かも、いや話は全然違うけども。
なんともいえない気持ちになりたいときに、どうぞ!
そしてやはりローラ・マルヴィは原典にあたるべきか…とか思ったんだが高騰の度合がやべーよ!https://www.amazon.co.jp/イマーゴ-imago-1992年11月号-特集-映画の心理学/dp/B01LTHXTI2/ref=mp_s_a_1_1?qid=1687693672&refinements=p_27:ローラ・マルヴィ&s=books&sr=1-1
今日はずっと姫とホモソーシャル読んでたんですけど、私にとってはこの指摘はすごく大事だよな…と思うことが多く、しかしこれを言われたくない人も多かろうな、とも思う本だった。鷲谷先生はスタンスがまつおかさんに通じる人だと思うのだよな。
フェミニズム批評的なポイントは押さえつつ、かつパターン化された語りに回収されない画面と言葉をよく見て語る自分の言葉を普段から探しているので、勉強になるなあと思うのは今の私だからで。出てくる作品で熱狂的に好き・嫌いがなくとも耳の痛さは多少感じたくらいには、ものすごーく丁寧に痛いところをついてくる文章なので、若い頃読んでたら「なんかムカつく!」ってなってたかも、と思う。
ともあれこういう旧作邦画関連の補助線があると「どこから入っていけばいいのか」の糸口が掴めると思う。竹村和子先生の『彼女は何を視ているのか』ほど難しくないし。クィアリーディングの自然さにも注目しておきたい。
出てくる作品を見ておくことより(いやもちろん最初から最後まで、ショットの細部、セリフの詳細まで描写されるので先に見ておくに越したことはないですが!)「語られかた」を把握しておくことが重要な本かも。という点でもやっぱり私に「合ってる」タイプの本、な気がする。
コングレス未来学会議、多分よくわかってないんだけど、なんとなくオリクスとクレイクを思い出してた。あと若くなくてキャリアの波が激しい男性俳優ならマッシブ・タレントが作れても女性俳優だと作りにくいよなあ、みたいなことも。どうしてもシリアスになってしまうというか。
全体としてはそんなに好きではなかったのだけど(いや好きでないわけでもないな。正確には私の考え方と相違があるのでピンとこない、かな。私はむしろ「実体性」「物理的な存在性」についてそんなに単純にいかない、むしろ近年そういう曖昧な時代だからこそみんな「本物」を好むよなーと思ってるので)妙に好きな台詞があった。「究極的には全部気のせいです」シチュエーションを考えるにだいぶひどい言葉なのだが、でもまあ、そうよね。あとマックス・リヒターなのでせつせつと悲しみが降り積もるようなスコアも当然よい。
サイケデリックなアニメーションのシーンよりも実写パートのほうが全部偽物っぽく見えた。それこそCGの「キャラクター」が動いているような違和感が続く。アリ・フォルマン監督のやることなので、たぶん狙っての演出なのだろう。あなたが今「現実」だと思っているこのパートも、すべては作られている。そこで湧き起こる感情もまた、作られている。
『ぼくたちの哲学教室』がとてもよかったんですが、哲学を教えてくれる校長先生がエルヴィスの大ファンなのね。出勤と退勤の車で聴くのはもちろんのこと、校長室にはエルヴィス人形にエルヴィス時計、スマホの着信音も当然ながら。で、こどもたちに心の落ち着きを取り戻すレッスンとして「心の中で好きな場所に1人で行く」のを説明するときに「私が思い浮かべるのはグレイスランド」。なんかね、それがすごくこの映画に、というか学校に、良い風を吹かせてるのだなと思った。好きなものをそばに置いて心を穏やかにすることの実践が見えるところにあるっていいよね。それ自体が先生の教えのひとつみたいに感じた。
しかし本当に学校ドキュメンタリーはこどもさんの身体運動と表情見てるだけで最高な気持ちになるなー、すごくちゃんと哲学してる、考えることを学んでるキッズたちであっても、とにかくいごいご(そわそわゴソゴソするこどもさんの動きを指す出身地の方言です)する、まっすぐ座ったり立ったりしなくて動き全般がぐにゃんぐにゃんしてる…人間って色んな意味で柔らかい生き物なんだなあ…
男の子は荒っぽいくらいじゃないと、の規範から自由になっていけるようにというのを端々に感じるのは先生自身の経験もあるからなんだろう。そんなとこもウーマントーキングとのスペア感。
『アトランティス』を見ていました。この種の「フィックス長回しー!」を全面主張してくる劇伴つけたら罰金映画って基本的には全然好みではないんだが「2025年の戦後」映画としてこんな切実な(これから起こりうることが最善の展開であったとしてもなお、ここに描かれることにつながってしまう)祈念の話を2023年に見るとどうしたってつら…となるわね…
序盤はんー…となっていたが、あの遺体の状態が延々と説明されるあたりからはその動かない画にもああ、そういうことなのか、とわかってきて画面をじっと見続けることができた。
自由化された社会ではアメリカ資本が入って工場が閉鎖されるとか、単に廃墟となっただけでなく土壌汚染と残った地雷で物理的に人の住める場所ではない状態の場所で「兵士たちの生を終わらせる」作業に勤しむ人が、それでもなお離れない場所としてのドンバス…鎮魂作業というよりも作業によってかろうじて人間のかたちを保つ放り出された人たちの孤独。でも、生きてる。ここにいる。ここしかないから。
それが実際に「現場」にいた人によって演じられていたと知れば、その重みはなおのこと深く理解できる。
謎のお風呂シーン、あれはなんか実際にやった人がいないと出てこないシーンな気がしたんだが、どうなんだろね?
『秋立ちぬ』を見ていました。こども主人公であろうが容赦なく階級の話であり、女性の複雑にならざるをえなさの話であり、わかりあえても優しそうでも他者は他者であるという話であり、立場が弱ければ弱いほど無神経さにぐちゃぐちゃにされるのだが、それでも人はひとりでも生きていける、諦めてぼやきながら失い続けようとも弱きものは簡単には死なねえよというハードボイルドな成瀬映画なのだった。変わりゆく東京の話でもある(このあたりからグッと都市開発が加速するギリ手前、ダッコちゃん人形の頃)。グローブを捨てないで持って帰って蹴るにとどまる一連がよいね。もったいないもんね
ただ、やはりわけありの女たちの話に比べると一段下がる印象。毎度の男のひどさだめさのパターンのバリエーション豊かさとその解像度の高さには感心するも、やはりこどもさんだと男女のグダグダグジグジのよさ、感情と行動の噛み合わなさ、逡巡の繰り返し的な奥行きはちょっと弱いし、かといって「おかあさん」的な優しさのほうには寄らないのでちょっとどっちつかずというか。やはり言語化できない年代の子たちなのでクドクドしたあのぼやきがなくなってしまうとちょっと寂しい。全体にやや台詞台詞しすぎているから喋らないとこのほうがよいという判断か、海辺のシーンとかにちょっとサイレント志向もある。
『彼女のいない部屋』を見ていました。一応伏せるね
ゴースト映画だ!すごくゴースト映画だ!ラストカットのひとつ前カットが素晴らしい。私はこういうそこまでを通して一度もなかった視点に切り替わる瞬間がすごく好き。いるよ。の視線。
この映画が巧妙なのは「どういうことなのか」に重きを置かないこと(カードを裏返すタイミングは割と早い)で、最初からおかしいことが明示されてるんですよね。ひっくり返すのが目的ではなくて「そのあと」をひたすら追うことで彼女を世界の果てまで連れていく話なんだよなー。ふたつの世界のイメージの連続という映画らしい技法がそのままやりきれなさに切り替えられていく。フラッシュバック&(そうだったらいいのに)フォワード。願うほどには存在しないものを想像できない悲しみ。
凍りついた時間は永遠ではない。それはとてもとても悲しいことなんだけど、永遠ではないことが人を前に進ませる、それがどんな結末であろうと時は流れて彼女のいない部屋(良いタイトル!)が残され、現在形から過去形になり、彼女だけが現在形になる。車とピアノの使い方も面白かったんだけどグッと引き込まれたのが転調のきっかけになるミートキュートの煙草交換からで、こういうのはやはりフランス映画がうまいね
放浪記を見てたよ。ちょっとモノローグおおすぎかなー、成瀬なので当然シスターフッドの一筋縄でいかなさは面白いけど…とか思ってたら終盤の飛躍にうおっとなった。かっこいい。あと出番は多くないけど絹代様よかったなあ。かーちゃん…
かーちゃんの喋ってたの瀬戸内言葉っぽかったけど、娘は微妙に違ってて、あれは偶然なのか、色んな場所に移ってたから西側(関西含まない)の言葉ちゃんぽんみたいになってるのか。どこまで狙ったのかわからないけどよかった。林芙美子の地方の娘かつ地元のない女というのは非常に重要なことだと思うので。
林芙美子も知人から葬式ですらいい人だったと言われない女として有名なわけだが、その不貞腐れむきだしの気持ちの良くないグジグジしたとこ全開なのがよい。「わたしはわたしを好きな人は好きじゃないんじゃ」性の強い面倒なとこ、いい加減で雑で男の趣味が悪くキツい女、謝らない女のぐちゃぐちゃさ、ときどきシュールな様相(墓場そぞろ歩き)まで呈するのを生きる力の強さというほうにいかず「死ななさ」で描いてる。
でそんななかにすっと「そうやって一生懸命書いているときのおねえさんきれい」の一言が差し込まれる、その切なさ。こういう塩梅がよいのよ。
よかったシーン、というか画面設計のこととか
女たちは常に納屋の暗がりにいて外から入る光にかろうじて互いをみている。さんさんと輝く太陽はこどもたちと馬だけのもの。終盤、みんなが日のもとに出て、ルーニー・マーラが納屋を見あげる。入り口の部分、額縁で切り抜かれたようにベン・ウィショーのまわりは真っ暗い、というかスミベタの黒。あんな残酷な暗闇の背負わせ方するのかと震えた。ここまでど直球にやさしく(優しく/易しく)女性映画をやっても、やはり端々が容赦ないのよこの人は…
クレア・フォイ演じるサロメに「説得によらない方法」をとらせ、暴力装置を手渡すところまでやる。このシビアさも原作由来なのかなと思いつつも、口当たりをよくしないのは絶対サラさんの性格だと確信している。「今」に乗ってるんではなく、それこそ10代から行動してきたガチな人ですからね…骨の硬さが違う感。
勝手がわからない