ウーマントーキングは均質性の中の非均質の話なので(たぶん原作由来だがホワイトフェミニズムという意見もあるみたい。ただこれ白人女性たちだけの話に置き換えたの、非白人も含めた場所あるいは非白人のみの物語で描いてしまうと「意味」が多くなりすぎる気がしたので正解だったんではと感じたよ、私は)そういうとこも好きだったんだと思う。20年くらい言ってる「わたしはあなたではなく、あなたはわたしではない」。そのうえで「わたしたち」になるとはどういうことか。いくつかのショットの白い光と無人の部屋、テーブルはハマスホイみたいだった。ワイエスショットもあった。地平線は真ん中じゃなかった。
ドキュメンタリーが見たかったのでドーナツキング見たよー。西海岸のドーナツ店はほとんどがカンボジア系の人たちがやってる、その土台を作ったのはカンボジアからの難民で商才に長けた1人の男だった…という話でメインは1人のおじいさんの波瀾万丈な人生の話なのだが、地域コミュニティとかアメリカのアメリカ性を作ってきたものをみんな大好きなドーナツの話から紐解いていて、なかなか面白かった。自由と勤勉と資本主義。家族の無償労働に支えられるというのは現代ではちょっと…なんだけど、しかしある時代にはそれが必要だったのだ。新世代がドーナツ文化を受け継ぐというルーツに新しい文化が組み込まれるこの速さがやっぱりアメリカなんだよなあ。
ポップさゆえにNetflixのフードドキュメンタリーの延長っぽいTVサイズ感はあるけど、これくらいの映画がちょうどよい夜にサラリと見られる。しかし確かにアメリカンのドーナツ好きすごいな。
移民国家としてのアメリカということと、やっぱりここでもハイウェイの重要性!ということで今年の私は何見てもサバービアの憂鬱に繋げてしまう感があるな。
構え過ぎていまだに1本も見られてないのがファスビンダーで、頭良さげで映画に詳しい人のなかでもいちばん怖いと思う層の人が絶賛するので逃げ続けてここまできてしまった…誰かが苦手って言ってくれてたら違った気はする…そういうのもあるんよ…
あんまり映画見て下手…って思うことないんだけど、ディヴァイン・ディーバはあまりにも演出がなってなさすぎてびっくりした。こんなまとまってない語りしたら敬意も台無しでは。編集ちゃんとして。なんでそこから撮ってるか、なんでそこに時間を割くのか、意図が全然見えない。素材がよいからそこそこ見られるものではあるけど、いや、ドキュメンタリーは題材の良し悪しだけで評価するもんではないよ。この不満はトランスジェンダーとハリウッドがダメだった理由でもあるが、これ見るとあれはいかにちゃんと構成立ててるか(セルロイドクローゼットというお手本ありきなわけだが)よくわかる。編集者としてぎゃーとなってしまう映画でした。話の取捨選択と話の順番に意味を考えてるように見えない。ドキュメンタリーこそ構成命なんだからしっかりして!ディーバたちはみんな素晴らしいのですが。たぶん監督の俯瞰できてなさが露骨に出ている。これならパーソナルな話なんだから案内役としてひとりひとりと自分のエピソードから導入するとかでよかったじゃん…ひとりにだけリハ風景に私の思い出ナレーション重ねるのとか、だから何がしたいのよ!になるのよ…
でも貴重な映像の数々は見られるしドラァグの価値観も私生活もパーソナリティもバラバラな伝説的ディーバ様がたは本当に素敵よ。
ビデオドローム見てたんですけど、これ「わかった」人どれだけいたのか?と思ったら実際当時のリアクションのほとんどが「わからん」だったんだな。わたしもわからんかった。なんとなくわかるけど、それはアイデアの当時としての新しさに「今」を見ているからなので、筋の正確なロジックを考えるとわからん。多分こうかな、くらいは明かしてくれてる気はするが…
テクノロジーに対する甘美な恐怖が牧歌的に見えるけど、見る行為は受信でなく融合であると捉えるイメージは確かに面白く。しかし不条理の怖さでいくとナチュラルセクハラのほうが怖いんだよなー。という地獄の警備員現象も少々。
ビデオテープとブラウン管ってホラーと相性良いよなあ、と思うんだけど、もはや砂嵐を知らない世代が増えてて、しかしビデオノイズのある映像は世の中に広がり続けているのなんか面白いなと思う。
あとこの時期のジェームス・ウッズ、ちょっとキーア・ギルクリストっぽいんだな。なんかキーアくんが80年代舞台あるいはそういうテイストの映画によく出てる理由がわかる気がした。
女神の継承見てた。全体としては(色々言いたいことはあれど)面白かったんだけど、なんかもったいない感じ?があるな?
なんか呪詛と同じくフェイクドキュメンタリー形式は良し悪しあるなーと思った。ガチでそう見せる(不自然な位置にはカメラを置かない、番組として成立する範囲に映すものをとどめないと上映できないもの作ってどうするという印象に…)か開き直り(キメキメ撮影で堂々と本当ですと言い張る)のどっちに軸足置くかだと思うんだが、これめっちゃ中途半端になってないか。そこはどっちかを信じさせようぜ!ってなる。
女神の継承かと思いきや…という話の筋立ては悪くないのだが、たぶんこれは普通にカメラクルーに俳優立てて劇映画的にやってもよかったんではないかなー、それこそコクソンみたいな感じで。ロケーションとか良いし儀式のとことか超ワクワクしたもん。
しかしだとしてもつまんねーなーとなるのは憑かれる男の話が女の話より断然足りてないところである。性別全部入れ替えたらちょっと面白かった気がするんだよね。まあ設定として「女」であることを意味づけるのはホラーの正道ではあるのだが、あんまり性と紐付けないでほしい。その意味でもコクソンの良いところに気づけた気はする。
『夜ごとの美女』もっと流麗なのを想像してたらなんかドリフ的なドタバタコメディをフレンチオペレッタ形式でやってる話なのね。
主人公がジェラール・フィリップじゃなきゃ当然もたない話だが、そこは不世出のスタア様、お色直しの数々も(美女含む)楽しく、泥臭いとこが泥臭くなりすぎずにもってる。このお方の今でもトップスターであろうという古びないハンサムさはちょっと珍しいよね。ラベンダー色の影と評したのは中野翠だったか。うすむらさきの優男。
時代を遡る夢シークエンスが夢なのでハリボテがハリボテであること、書割の強調が楽しさに貢献する。夢が混線して無茶苦茶になるのも含めて全部当然の流れ通りなのだが、それぞれのシーンのセットデザイン(あの簡略な窓!)とか音が混ざるワヤワヤはこれで笑ってくれる観客を信じてくれてる時代の幸福にあふれている。
にしてもぼんやり投げやりから夢の世界に閉じこもるために暴れる主人公はおとなしい人と設定されてるのにそれでもやることなすこと荒い。これは同時代のどこの国の映画でも「みんな荒っぽかったんだな…」と思う。比較的荒くないのはアメリカ映画。比較的戦後弱ってない国だから、かね…
クリードⅢ面白く見た(無茶さも含め)んだが本編と関係なくアメコミ映画世界の拡張の結果スタジオ時代のスターシステムとどこが違うのん?な状態になりつつあるの最近どうしたって気になってきた。とはいえ主演助演格の多様性の広がりと考えればレイドバックに見えるこのやり方にもまあ意味があるわけで…しかしなんかこう、うーん、なんか。
で、映画本体についてだけど、あんまり見たことのない演出で試合を撮ってるのは新鮮で、なるほどアニメらしさとはそういうことか。というのと、ドラコのとこが良かった。本作でいちばん心に残る嬉しそうな顔が見られた。それだけで、なんかいいな、と思った。雪溶けてからまた凍り付かなかったんだね…
たぶん見てる人全員が「思てたのとちゃう」となるアニメに???となることを含めてよい体験ができる映画だったと思います。MBJ本当に良いやつなんだろうなーと思う(思わせる)、それが全てといっていいようなフィクションのかたち
『盲獣』見てたんだけど全方向に正しくない映画ですごいわね。これだからある時期からの日本映画というか「芸術」が向かってった路線が苦手なんだよなあ、若くて美しい女が若くて美しいことを理由にこういう倒錯に巻き取られるの本当にいやーん。ひたすら悲惨な話を耽美ごっこに使われましても。
なんだけど、そこは増村なので深遠ごっこすら途中でどうでもよくなってく過剰の乱れ打ちに大笑いしてしまうのも事実で、ひどすぎて面白いんだよな。やべーひとの圧はふつうのひとなんかに太刀打ちできるもんじゃねえ(やべーひとが近くにくるとみんなやべーひとになる、は卍も同じですね)。
死ねーっ!の身も蓋もなさ以降どんどん話として背徳的というレベル以上のえげつなさ、終盤ずーっとあえぎながら喋ってるのとか、もうなんか超現実映画というかテンションカロリー高すぎて、なんなんこれという
笑い転げつつげんなりしつつ(まあ原作からして目が見えないという現実にある障害の捉え方としてガチに酷すぎるのはそういうものだとわかっててもしんどい)しかし増村の過剰さはやっぱり全員がどうかしている(登場人物3人のミニマル)ほどに面白くなる、美術も演出も俳優もなにもかもどうかしている映画の面白さとやってられんわのドン引きが交錯し続けるんだから、まあ困ったことだよ
実は見たことない有名な映画を見る部、初めて『去年マリエンバートで』を見る。史上最も難解と言われるだけあって本当に歯が立たない。まじでわからん。しかしここまで作り物であることが強調されるとむしろ意図を持ったわからなさによって推進されるという純粋な語りの面白さみたいなところに行き着くな。たぶんコメディにしてあったらもう少し「わかる」のだと思うのだが(多分コメディにもなりうる話、陰鬱なホテルでおそろしく作り物めいた人たちがうろうろしてる)すっごいシリアスにループしながら崩れていく廃墟にいる夢を見てる感じ。
しかしこれ字幕を読んでしまう人間に向いてなくねーか、と半分くらいの時間で思ってたが。なんか謎めいたバキバキに構図が固まった画面は美しいというより「美しさについて」の文章を読んでるみたいだったので、ふたつの文章を同時に読んでるみたいな気分になったの
考察しようのない話ではなかろうかと思いつつ、私は希死念慮の話な気がした。多分そんなことでもないんだろうと思うけど。先送りにして迷い続ける。どこにいっても壁がある。ずーっとずーっと迷い続けているうちに、時間が凍りついていく。そうしてまた、何年も、何年も続く。
ぬいしゃべを見てきました。イハフィルムズはひとつのスタイルを確立しつつあるな。私には必要ない映画だったけど(やさしさの解釈違い)これが必要な人はたくさんいると思うし、ここに私がいると思う若い人は本当に多いんじゃないかなー。そしてそりゃみんなしんどかろうなと。私もたいがいしんどいよーってなってる人だが、年取って摩耗したというだけでなく、しんどさの種類が違うんだなー。
危なっかしいよーという視点も内在させているのはクレバーだと思った。でもやっぱり私はじっとしてる映画がそんなに好きではない(結構人の出し入れとかぬい視点とか画面は動かしてるんだけど、なんかスタティックなのよ)Twitter見てるときのモヤモヤした感覚がそのまま映ってるのよね。こんなに説明的に語りかけるのか、みたいな。でもそのくらい語る方が今はリアルなのかも。そういう意味でも誠実で真面目で良い映画である、とは思う。
『晩菊』を見てたんですが、今まで見てきた成瀬映画ほぼ全部好きだけど、ベストはこれに決定しました。何もかもが最高すぎた。ハスラーズで明日カノなんだけどむしろそこを越えてるのがみんなが中年女、20代の子がいるくらいの年頃で子がいたりいなかったりする。2020年代になってもこれを超えるシスターフッドとハードボイルド中年女映画はなかなか出てこないのではないか。もう全部好き。これからオールタイムベストに入れようと思う。
「おかあさん」をU-NEXTで。おかあさんが絹代様ということもありその献身を賛美する話…になりそうなものだけど、そこは成瀬で水木洋子脚本なので「そういうことではない」話になってたと思う。生きていけば、生きてくれてれば、それでいいのよ。(50年代くらいまでの映画、とにかく人がコロコロ死ぬ。そういうものだったのだろうと思う)
こどもたちもまた苦難を強いられているわけだけど、長女で語り手のカガキョン様の可憐さが尋常ではなく、彼女のキラキラ感、それはもう眩いばかりの「若さの美しさ」の塊でね、すごい。悲しみよりも生きていることの歓喜が画面に溢れている。
心のきれいな人かどうかはわからないけど手を差し伸べることができる人たちが集まる下町はこんやきれいなものではなかったのかもしれないが、ある種の災害ユートピア的な場所もこの時期はまだまだ継続的に存在していたことは事実だろうなと。1952年の映画。
クリーニング屋さんの労働が細やかに描かれてるのとかこまごました身体運動が実に魅力的。食べ物の使い方もまあ素晴らしい、醤油をかけた炒り豆のせつなさよ。ピカソパンはおいしかったのだろうか。
ノー天気パン屋の息子とか帽子おじさんとか笑わせることにも手を抜かずで、重たい話が暗くならない、抜けがよい人情ものになっている。
勝手がわからない