阪神がオープン戦で派手に負けまくっているので、ネガティブなタイプの阪神ファンは「もうダメだー!」と騒ぎ始めているし、日刊ゲンダイ(このイエローペーパーが自民党の悪口を書くというだけでありがたがっているリベラル派は馬鹿じゃないかと思う)などのアンチ阪神ゴミメディアがキャアキャアと歓声を上げて嬉ションをダダ漏らしながら阪神バッシング記事を書き散らかし始めているが、私はさほど心配していない。いや、正直に言うとちょっとばかり心配だが、ただ去年の優勝は1985年、2003年、2005年の優勝とは内容が違うと思っている。これらの優勝は瞬間最大風速的に戦力が整っての優勝であり、編成部門に大きな問題を抱えている点では暗黒時代と大差なかった。それに比べて去年の優勝はドラフトや育成等のチーム編成をコツコツ改善を進めた結果として勝ち取った優勝であり、決して一過性のものではない。現に、去年のドラフト3位の山田などは2軍でいいプレーを見せているらしい。このようにドラフトで結果を出し続ける限り、チーム状態が大きく落ち込むことは考えにくいのではないか。シーズンが始まったら、今年もやってくれるものだと信じているよ。
私の愛飲の缶チューハイはキリンの本搾りという商品だ。この本搾りチューハイ、元々はメルシャンが販売していたものだった。メルシャンがキリンに子会社化された時に、メルシャン社内のチューハイ部ごとキリンにトレードされたので今はキリンが販売している。しかし、キリンには元々氷結というチューハイの看板ブランドがあるので、本搾りは当初は露骨に冷遇されていた。メルシャン時代より販路が縮小されて手に入りにくくなったし、商品ラインナップも減らされ、昔からの本搾りファンとしては忸怩たる思いだった。その後、本搾りにも根強い固定ファンがいる事をキリンも理解したのかピンクグレープフルーツ味や季節限定商品が復活したのでまあ良かったのだが。そんなわけで、キリン氷結が高齢者集団自決論を唱えるクソabema文化人•.成田某を広告に起用して大炎上したのを見て、本搾り派として心密かにザマアミロと快哉を上げていた。同じ会社の別商品を買っているのではキリンからすれば痛くも痒くも無いじゃないかとのツッコミは甘んじて受ける。だって代わりになる商品が他に無いんだからしょうがないじゃない。
映画は好きだが賞取りレースには興味無いので、アカデミー賞授賞式での人種差別事件について今頃になって知った。何と言うか、イスラエルのガザ侵攻以来、欧米社会の欺瞞を目の当たりにすることがやけに増えたような気がする。意識が遅れてるのは日本だけじゃなかった、良かった!などと安心してもいけないのだろうが。ときに、私はコンビニなどで外国人が店員の時はいつもより余計に礼儀正しく振る舞っている。わざわざ意識してそうするのもまた差別だ!と言われるかもしれないが、こっちがマジョリティで相手がマイノリティという関係の場合そうしなければいけないだろうという意識がどうしても働いてしまうものだ。くだんの俳優達はそんな意識も働かなかったのかな。無自覚差別者であることはもちろん、差別をしないようにしようという意識自体をあまり持っていない人達だったのかもしれんよね。もし彼らのファンだったらガッカリだろうな。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN1105L0R10C24A3000000/
フランケンシュタインの物話は“理系馬鹿”を戒める寓話のはずだよな。人文科学の素養がないから、墓から死体を掘り起こして怪物を作るような人倫にもとる研究ができてしまうという。もっとも、ディストピアSFなどその手の話を好んで書くSF作家
こそが理系馬鹿的な発想に至りがちなのは謎だのだが…。
ともあれ、この記事(全文読めないが)も理系馬鹿的発想の典型に見える。寿命500年と言うが、そのうち健康寿命は何年なのか。皆んなが500年も生きられたら生き飽きて自死する人が続出しそうだが、実際には一部の富裕層だけがいつまでも生きて短命な貧困層を支配し続けるのは想像に難くない。与太話としても気持ち悪いね。
胃の痛み寒波は今年最後なる
#俳句
https://www.47news.jp/10625989.html
民法の非嫡出子差別規定に違憲判決が出た時、同時に選択的夫婦別姓の憲法判断もされていて、まあ合憲(夫婦別姓は認めない)判決だったのだが、この時安倍晋三がまだ生きていたかは私の記憶に定かではないものの、安倍派=戦前の家族制度復活を狙う宗教右翼がいまだ権勢を誇っていたのは確かだろう。今も選択的夫婦別姓は裁判で争われているそうだが、今度の裏金問題でめでたく安倍派が崩壊すれば、財界の要望もある事だし今度は違憲判決が出て制度改正となるのではないか。それ自体は良い事だと思う。しかし、司法判断すら政局次第となるヒラメの国日本、情けないことだ。
と、こんな事を言っておいてひっくり返すようで何だが、共同親権なんていうものが成立しそうになっている辺り、やはりまだ宗教右翼の力は大きいのかもしれない。安倍派がこけても維新が推進しているので成立しそうなのかな。日本会議だの統一教会だの、宗教右翼なんかとっとと絶滅すればいいのに。気持ち悪い!
こんな事になるとは想像もしていなかったのだが、少し前にDr.スランプを読み直してみたいなー、読むならやはり紙の本がいいなーと、ヤフオクやメルカリを物色してみたものの結局買わなかったという事があった。ほんの小さい頃に読んだきりなのだが、大人になってから読むと初めてわかる小ネタが散りばめられているのではないかと思ってね。作者死去で値段が高騰していなければ良いが。
ところで、私の両親は田舎者らしく超ド級の保守派で、テレビはNHK以外はほとんど禁止、漫画も親が認めた一部以外は禁止とまあ酷い管理教育だった。結果、私は保守主義が大嫌いな人間に育ったのだが、それはともかく何故か『Dr.スランプ』は読むのを許されていた。保守の価値観からしてケシカラン内容が多く含まれていたような気がするので謎なのだが、超ド保守派のクソ親父の目から見ても明らかなくらい鳥山明のセンスの良さは際立っていたという事なのかな。
子供の頃のおぼろげな記憶だけを基に言うのだが、能登という所は高い山もなく、非常になだらかで穏やかな土地だった。母によれば道路整備も地震の前は結構充実していたらしい。「能登はやさしや土までも」とは伊達に言われてはいないのだ。もっとも、地盤も非常に優しいものだったから、余計に地震でやられてボロボロになってしまったのかもしれない。とにかく、険しい地形の山深い過疎地域だから救助もままならないのは仕方のないことだ…という世間一般のイメージはかなり間違っていて、やはり救助の遅れは人災の側面が強かったのではないかと思う。正直、能登と比べると私の住んでいる地域の方がよほど険しい山々に囲まれている。だから、もしここで大地震に見舞われたら、もう確実に政府には見捨てられると思う。能登でさえ見捨てたような対応だったのだから。日本の西でも東でも地震が頻発している最中、非常に背筋に冷たいものを感じる。
実は昨日、名古屋に行っていた。徳川美術館で尾張徳川家秘蔵の雛人形が展示されているというのでそれを見るつもりだったが、美術館の前まで来て初めて月曜休館だと気づき、しまったァーッ!一生の不覚!やられたぜチクショー!と地団駄を踏んだ。で、そのまま何もせずにスゴスゴと帰ろうかと思ったが、それも悔しいので代わりに何かやってないかその場でスマホで調べて、金山という所でやっていた北斗の拳原画展を急遽見に行った。結構面白かったけど、尾張徳川家の雛人形とは相当趣きが違っていたな(当たり前か。)そういうわけで、昨日からずっと脳内で北斗の拳の台詞が何度もリフレインしている。あべし!ひでぶっ!you are shock!ときに、今月もう一回名古屋に行く予定なので雛人形はその機会に見に行こうかと思う。
『枯れ葉』という映画を見た。アキ・カウリスマキという監督の名前は知っていたものの作品を見たことはなかったのだが、ちょっと旧作も見たくなるくらい面白かった。不器用で仕事をクビになってばかりいる男女が出会って恋をして、何度かすれ違うが結局最後に結ばれてめでたしめでたしという説明すればそれだけの話だが、シンプルイズベストという感じの映画だった。主人公2人の佇まいが実に良いのだよな。お互い人生に倦み疲れて感情も表に出さず封じ込めるようになっていて、それでも少しずつおずおずと表に出す様子がかわいかった。最後に映画の題名どおり「枯れ葉よ〜♪」の歌が流れるのだが、この2人はこの後結局別れてしまうことを暗示しているのだろうか?
私は新しいもの好きなのでしばらくblueskyに入り浸っていたが、いやーやっぱりmastodonがいいよmastodonが。Twitterをやめてこっちに移ってきてもう長いからTwitterがどんな風だったか感覚的に思い出せなくなっていたが、何だかblueskyをやってるうちに「あーそうだ、こんな感じだったっけ」とだんだん思い出してしまってね。エロアカにばかりフォローされるしクソリプも付くし。情報収集手段としてはblueskyの方が優れているのでやめはしないが、マッタリと色んな人の投稿を見て楽しんで、自分も思いつくまま好き勝手な事を投稿しても別に誰にも腐されたりしない(もちろんヘイトスピーチとかはダメだが)のはmastodonというかfediverseだよな。そんなわけで、今後もここをメインのSNSとさせてもらおうと思っている。そのうちthreadsがfediverseと繋がったら情報収集も今よりもできるようになるかもしれないし。
ふきのとう古き油で揚げるなかれ
#俳句
ニンニクたっぷり入れて味付けした鶏肉唐揚げみたいな下品な食い物だったら少々古い油で揚げても気にせず食えるが、春の香りを楽しむ繊細なふきのとうの天ぷらみたいなものは決して古い油で揚げないほうが良いよ。油臭くて、せっかくのふきのとうが台無しに…トホホ…という戒めの句。
私たちの多くは天皇や上皇を人格者だと信じて好ましく思っている。実のところメディアを通した姿しか知らないし、それも常に人格者らしく振る舞う事を要求されるフォーマルな場での姿しか知らないので本当はどんな人なのか全然わからないのだが、それでも何となく人格者なんだろうなと思っている。言わば、皆が天皇を人格者だと信じて敬意を抱くことで象徴天皇制というものは成り立っているわけだ。だから、仮に竹田某みたいな奴が天皇の位につけば象徴天皇制はあえなく崩壊するのかもしれない。
ところで、世の中に「名誉白人」とか「名誉男性」と呼ばれる人がいるように、「名誉天皇」と呼ばれるべき人もいると思う。皆が好ましい人物だと何となく信じ、メディアの扱いも天皇のそれと被る人物。言うまでもなく最近の大谷翔平がその典型だ。大谷の「御成婚」報道のはしゃぎっぷりには正直言って辟易とするし、政治倫理審査会のニュースなどを差し置いて報道するネタかよとも思う。しかし、例えば近年醜態を晒した元五輪メダリストで現・政治家の連中もかつては「名誉天皇」として好意的な視線を浴びていた時代があったのであって、いつか大谷天皇もスキャンダルや失言にまみれて、あえなく天皇制崩壊という事態にならなければいいけどなと大きなお世話ながら心配している。
そういえば、松本人志は大変な筋トレマニアで、鍛え上げた肉体美を誇示するタイプだったらしい。で、体を鍛え出した頃から勘違いした言動が多くなり、性加害が始まったとされるのもその頃かららしい。それで、三島由紀夫などの前例から言っても筋肉を付けると異常な思想に走る奴は引きも切らない、筋肉は有害だ!という主張をする人もいる。私も運動を1秒たりともせずにみっともなくデブるにまかせていた頃ならそうだそうだその通り!と喝采を上げていただろうが、体を鍛え出した今となってはそうもいかない。筋肉は単なる筋肉であり、それ以上でもそれ以下でもないよ…筋肉無罪…と小声で反論したくなる。
それにしても、実際筋肉をつけると思想的あるいは人格的におかしくなる人が多いのは何故なのだろうね。それまで鬱々とコンプレックスを抱いていた者が肉体改造によって急激に自信を得たために精神的におかしくなるという事なのだろうか。でもそれなら何も筋肉をつける事だけに限った話ではないような気がするが。例えば根暗でモテなかった男が東大に合格した途端におかしくなるということがあるだろうか?…ありそうな気がするな…。
久々に筋トレについて書こうと思う。筋トレ指南書『プリズナートレーニング』は1メニューにつき10のステップに分かれており、ステップが上がるに従ってトレーニングの強度が増す仕組みになっている。例えば腕立て伏せの場合、ステップ1が壁に手をついて腕立て伏せ、ステップ2が机に手をついて腕立て伏せ、ステップ3が床に膝をついた姿勢で腕立て伏せ、ステップ4が体の下にバスケットボールを置いて体にボールが触れるまで腕を曲げる、ステップ5に至ってやっと通常の腕立て伏せとなる。中略してステップ10が片腕での腕立て伏せで、それができるようになったらゴールというわけだ。で、一応なんとかコツコツと続けているのだが、最近ステップが上がってトレーニングがきつくなり、サボりの虫がまたしても鳴き始めた。どうも一定のステップに達すると急にキツくなるらしく、例えばスクワットだとステップ6(足を閉じた姿勢でのスクワット)までは楽勝なのに、ステップ7(片足をバスケットボールに乗せてスクワット)になるともう全然できない。かなりメゲそうだが、ここを乗り切ればムキムキマッチョボディが手に入ると信じて頑張るほかない。鏡を見る限り体つきは以前と全然変わらない貧相さに見えるのだが、たぶん全ステップ完了すれば見違えるのだろう。そういう事にしとこう。
blueskyで若者論を批判している人がいた。例えば最近ちょっと話題になっていた「今の若者は人権を怖がる」だとか、「今の若者は常陸という字の読み方を知らない」というような雑な若者モンスター論に対し、それは差別だと指摘していた。私も全く同感だ。そんなのは古代エジプトの時代から言われ続けてきた化石のような差別的俗論に過ぎないし、私がいつもここでくどくどしつこく指摘してきたインテリの大衆蔑視と同根の話だなとも思えた。「嗚呼、若者は何と愚かなのか!」と嘆くのも、「嗚呼、大衆は何と愚かなのか!」と嘆くのも、嘆いている自分に酔っ払っているだけのマスターベーション言説に過ぎないだろう。それは違うというのなら、その嘆きの対象にあなた自身は含まれるのかと問い質したい。他人を批判する時は「そういう自分はどうなのか」と批判を反転させる視点が不可欠だ。自分も所属する社会全体を批判するならなおさらではないか。上から目線の嘆き系インテリリベラル連中がそういう視点を持っているようにはとても見えない。
https://gigazine.net/news/20240226-bluesky-federation-for-self-hosters/
最近blueskyにちょっとハマっているのだが、そのblueskyが本格的に分散型SNSになるらしく、同じく分散型のmastodon(fediverse)との違いが説明されている。全くのIT音痴の私なりに無い知恵絞って理解してみたのだが、これを読む限りblueskyは自分でサーバーを運営するならともかく、私みたいに書き込むだけの者からすればTwitterと大して変わらないように読める。つまり分散型云々を意識しなくても全然構わなくて、ただイーロン某氏みたいなイカれた大金持ちに突然買収されて滅茶苦茶にされるリスクが少なくなるメリットがあるというだけのことだ。それに対してfediverseはどのサーバーを選ぶかによって全然違ってくるし、否が応にも分散型であることを意識せざるを得ないわけだ。どちらが良いのかはよくわからないし、私としてはどっちもそれなりに楽しんでいるけどね。ただ、blueskyでは今までに35人をフォローしたがフォロワーはたったの4人で、そのうち3人はスパムアカウントだ(blueskyはブロックしてもフォローが解除されない仕様だ。)思えばTwitterもそんな感じだったような気がする。人情味を感じられるのは断然fediverseの方だよなあ。
愛と正義を信じるおじさんです。 酒好き。阪神タイガースファン。 差別主義者と冷笑主義者が大嫌い。