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ハンスが郵便配達人だったこと。
なぜ郵便配達なのか。

カフカの『変身』で虫に変わってしまったザムザは布地の出張販売人。話を読むと、律儀な人物だったらしく思われる。
マルセル・エイメ「壁抜け男」のデュチユールは登記庁の下級役人で、34歳、独身。これも律儀・生真面目な人物。
どちらかというと凡庸で生真面目な人物が、ありそうもない奇妙な運に見舞われる。ことによると郵便配達人のハンスも、ザムザやデュチユールの後身として寺山の世界に呼び出された人物ではないのか。

寺山がエッセイのなかに虚構を混ぜ込んだ例は、前にひとつ出しておいた。
fedibird.com/@mataji/111532519

ハンスは寺山のつくった架空の人物。そう考えると、ハンスの行方に関する謎は容易に解ける。もともとハンスは存在しなかったのである。存在しなかったのだから、どこへ消えてしまおうと不思議はない。

[参照]

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ハンスを返してください。
婦人はそう寺山に求めたが、寺山にはおぼえがない。劇団員にきいても、誰もハンスという中年のオランダ人を知らなかった。
何が起きたのか。ハンスはどこへ行ったのか。

夫は劇のなかにいる、と婦人は思っている。
その「劇」とは、劇団「天井桟敷」のことなのか、それとも『邪宗門』の世界のことなのか。
前者なら、夫ハンスは劇団員として在籍しているか、少なくともある期間在籍したはずである。後者なら、ハンスは『邪宗門』という虚構の世界に消えたことになる。

寺山は次のように書いている。
《そのどこまでが劇で、どこからが現実だったのかを論じることは、この場合には無意味であろう。
少なくとも「ハンスが劇のなかへ消えていったこと」と、「ハンスが劇のなかから消えていったこと」とは、ほとんど同じことのように思われるからである。》
虚実の弁別は無意味としながら、ハンスが虚の世界に消えたことを以後の論の前提にしようとしているかに見える。

実の世界にいた人が虚の世界へ。そんなことが起こりうると思わせる話術は、どのようにしたら可能か。

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公演が終わってロビーに出てきた寺山を一人のオランダ婦人が待っていた。
「ハンスは今どうしてるのでしょう」
ハンスは婦人の夫で、地元の郵便配達夫。
夫婦は3年前、天井桟敷の『邪宗門』を見にいった。劇がはじまって間もなく、黒衣の男が客席に降りてきて、ハンスを無理やりステージに引き上げた。夫がステージの上で化粧され、衣裳を着せられ、劇中の人物となって多少の演技をしたのを婦人はおぼえている。楽しそうだったという。その日、ハンスは家に帰らず、3年たった今ももどっていない。ハンスは今どうしてるのでしょう。

この出来事を枕に寺山は長文の演劇論を開始する。
私は虚構と現実の混在のなかで人間性の回復を図りたい、なぜなら――

《想像上の体験はしばしば現実生活の同義語であり、現実生活は、気がついたとき想像によって支配されていたりする。この両者は定義づけられて区別されるよりも前に、相互的に運動しながら、私たちの生活そのものの二輪の車となっており、ドラマツルギーは両者の区別が提起するものの本質にではなく、その両者が混在し、区別不可能化している事実の上にこそ、うちたてられるべきだからである。》――寺山修司「なぜ演劇なのか、呪術なのか」

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ひどいなこれは。
「眼と眼ならざるもの」ではなく、「指と指ならざるもの」

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引用の末尾にある「他者存在」という語、もしかするとサルトル哲学の玄関の鍵ではないか。彼の哲学については、「人は自由であるべく呪われている」といったキャッチフレーズ的なものでしか知らないのだが。

サルトルはほかにも「眼と眼ならざるもの」のなかで、「‹他者› の存在は、内部の ‹他者=存在› においてのみ現れる」「存在は他性によって定義される。ものは、それが現にそうであるものではないということは、ものの本質に属している」「他者存在が存在の法則であるとすれば、指は真の意味では指ではない」などと述べている。

これも思いつきだが、エルンスト・マッハと重なるところがありそう。

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サルトルがヴォルスの頭陀袋から取り出した格言に対応する『荘子』原文と訳例。いずれも金谷治訳注『荘子』第一巻(岩波文庫)から。
原文については諸版で相違はなさそうだが、訳文については、「一応分かりやすい解釈にしておいた」と金谷。

[原文]
以指喩指之非指、不若以非指喩指之非指也、以馬喩馬之非馬、不若以非馬喩馬之非馬也、天地一指也、萬物一馬也

[訳例]
現実の指によって、その指が真の指(概念としての指――指一般)ではないことを説明するのは、現実の指ではない〔それを超えた一般〕者によってそのことを説明するのに及ばない。現実の馬によって、その馬が真の馬(概念としての馬――馬一般)ではないことを説明するのは、現実の馬ではない〔それを超えた一般〕者によってそのことを説明するのに及ばない。天地も一本の指である。万物も一頭の馬である。

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和訳に不備があってわかりにくいのか。
それともフランス語の段階ですでに難解なのか。
じつはそのいずれでもなく、『荘子』斉物論篇にあるこの格言はオリジナルの中国語(漢文)段階ですでに難解とされ、定説と言えるような解釈はないらしい。

それにもかかわらずサルトルは言う、「ヴォルスの作品と関連させて考えれば、その意味は明らかになる」と。

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アカウント開設から5カ月、いまだ基本的機能も飲み込めない Mastodon であり Fedibird だが、自分なりの使い方は見えてきた。

ハッシュタグや言及関係・参照関係でつながった断章群――これです。
数十字の短文を連投する使い方だと、過去の投稿をさかのぼるのが次第に難しくなるが、網目でつないでおくと、あちこちにショートカットを埋め込んだようになり、過去への遡及にくわえ迷路をたどるような面白味も生まれる。自分の発見。なるほど、そんなことを考えてたのか、俺。

当初はそんな意識的使い方をしてなかったから、一件ずつさかのぼることになるが――
最初期の投稿はこれら(古い順)
fedibird.com/@mataji/110953911
fedibird.com/@mataji/110965058
fedibird.com/@mataji/110965067
fedibird.com/@mataji/111014920
fedibird.com/@mataji/111026970

[参照]

ヴォルスの頭陀袋から格言を取り出しつつ、サルトルは論を進める。
紹介される格言の最後は、『荘子』から。

《もう一度あの頭陀袋をあけて、ここにもうひとつ引用文を挿入しておこう。
「指が指でないという事実を示すために指を用いるのは、指が指でないという事実を示すために指ならざるものを用いるほど有効ではない。馬が馬でないという事実を示すために白馬を用いるのは、馬が馬でないという事実を示すために馬ならざるものを用いるほど有効ではない」。
「宇宙は一本の指である。すべてのものは一頭の馬である」。
 これらの言葉をその作者荘子に従って理解しようと思う人びとにとって、それらはつねにかなり難解なものだ。だが、ヴォルスの作品と関連させて考えれば、その意味も明らかになるし、彼の作品を新たな光で照らし出すのだ。》――「指と指ならざるもの」

ヴォルス論のタイトル「指と指ならざるもの」が、『荘子』に由来することがここでわかる。
そして、いきなり難解です。
「指が指でないという事実」「馬が馬でないという事実」とはどういうことなのか。
指は指であり、馬は馬である。それが事実ではないのか。

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引き続きサルトル「指と指ならざるもの」から。

《彼ほど自分自身に忠実だった人間はいないが、この人物ほど「私は一個の他者である*」ことを私にはっきり感じさせてくれた者はいない。彼は苦しんでいた。誰かが彼の思想やイメージを盗み、醜悪無惨なものと代えてしまったのだ。それらが彼の頭を満たし、眼のなかに積み重なっていた。いったいどこからやって来たのか? どんな幼年時代が立ち現れたのか? 私は知らぬ。彼が、自分が何かに操られていると感じていたこと以外は、何ひとつ確かではない。》

*はランボーの言葉

《クレーにとっては、世界は、尽きることなく作られ続けている。ヴォルスにとっては、世界はその内部にヴォルスを含んですでに作られている。前者は、活動的であり、«存在の計算者» であって、はるかな道を辿っておのれ自身に立ち戻る。彼は ‹他者› のうちにあってさえ彼自身だ。後者は、おのれを耐えている。つまり、彼は、おのれ自身の奥底においてさえ自己以外のものであって、ヴォルスの存在とは彼の他者存在なのだ。》

折あるごとに自身を他人として切り捨てたヘンリー・ミラー vs 他者性に苦しみ続けたヴォルス?
あるいは、ヴォルスもミラーと同じ境地に落ち着くことに?

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《彼が頭陀袋をあけると、なかからさまざまな言葉が立ち現れた。自分の頭で見つけたものもあったが、たいていは、さまざまな書物から写しとったものだ。どの引用文のしたにも、必ず作者の名前をていねいに書きつけていたが、それらの言葉のあいだになんの区別もつけてはいなかった。なにはともかく、そこには出会いと選択とがあった。人間による思想との出会いや選択があったのか? そうではないのだ。彼の考えでは、事情は逆であった。同じ頃だが、ポンジュが私にこんなことを言った。「考えるんじゃないんだな。考えられるんだよ」。ヴォルスもこの考えを認めたことだろう。》――サルトル、同前

考えたのではない。考えられたのだ。
私が選んだのではない。むこうが私を選んだのだ。
格言が私を選んでやってきた。
そういうことだろう。

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ハッシュタグ に変更。

両タグとも、悲喜、善悪などの価値を表すものではない。
記事を書き直すと参照関係が壊れてしまうので、旧記事の はそのままとする。

《彼には自分が、われわれ人類の一員たることが、いかにも不思議に思われた。「人の話では、おれは男と女から生まれた息子だそうだ。おどろき入ったことである」*。彼が仲間たちと接するときの礼儀正しさもなんだか怪しげなものだった。仲間たちより、自分の飼っている犬のほうが好きだった。もともとは、われわれだって、彼にとってなんの関心もない存在ではなかったのだろう。だが、途中で、何ものかが失われてしまったのだ。われわれはおのれの存在理由を忘れ去り、気ちがいじみた行動主義に身を投じてしまったのだ。もっとも彼は、例の礼儀正しさから、それをわれわれの «活動» と呼んでいた。》――サルトル「指と指ならざるもの」(粟津則雄訳)

*ヴォルスが自分のものとしたロートレアモンの句

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《私は一九四五年にヴォルスと相識った。頭は禿げ、持物といえば酒びんに頭陀袋だった。その頭陀袋には、世界すなわち彼の関心が入っており、びんのなかには彼の死が詰めこまれていた。彼は以前は美しかったのだが、もうその頃はかつての面影はなかった。当時三十三歳だったが、そのまなざしに輝く若々しい悲しみのかげがなければ五十歳と思われたことだろう。誰もが――誰よりもまず彼自身が――とうてい長生きはできぬと思っていた。》――サルトル「指と指ならざるもの」(粟津則雄訳)

ヴォルス(1913-1951)は、おもにフランスで活動、放浪のうちに生涯を終えたドイツ人画家。
google.com/search?q=ヴォルス+芸術作品

片岡愛之助の『流白浪燦星(ルパン三世)』につづいて、今度は藤原紀香が『メイジ・ザ・キャッツアイ』で主演。夫婦で泥棒物。
kabuki-bito.jp/news/8639
meijiza.co.jp/info/2023/2024_0

泥棒話を作ること。
泥棒話を楽しむこと。
泥棒を称揚することの愉快と健全。

役者は黒子に操られている。
劇の最終盤、役者が反撃して黒子を叩きのめす。
黒子の衣装をはぎ取ると、それもじつは天井桟敷の俳優。では、その俳優を操っているのは何者か。
それは言葉よ、と新高恵子。
では、その言葉を操っていたのは誰なのか。
その答を新高が続ける。

《それは、作者よ。そして、作者を操っていたのは、夕暮の憂鬱だの、遠い国の戦争だの、一服のたばこの煙よ。そして、その夕暮の憂鬱だの、遠い国の戦争だの、一服のたばこの煙だのを操っていたのは、時の流れ。時の流れを操っていたのは、糸まき、歴史。いいえ、操っていたものの一番後にあるものを見る事なんか誰にも出来ない。》――寺山修司『邪宗門』

『荘子』齊物論篇にある影と薄影の対話を思わせる。
fedibird.com/@mataji/111467887

[参照]

百科事典サイト「百度百科」から、幻術研究書『鵝幻彙編』の項の冒頭記事。
意図がわかりにくいが、要約のつもりだろう。

中國的變戲法(又稱幻術、魔術)到底起於何時,已難考證。《列子·周穆王篇》載:“周穆王時,西極之國有化人來,入水火,貫金石,反山川,移城邑;乘虛不墜,能實不礙。千變萬化,不可窮極。”唐代雜技和幻術空前繁榮,幻術節目中的“走火術”、“種瓜”、“植樹”,不但流行於本土,而且還傳入了日本。
baike.baidu.hk/item/鵝幻彙編/95606

『列子』周穆王篇を引用したのは、そのへんを最古の伝えと見たためか。
唐代に幻術が大流行した、そのうちでも代表的な走火術、種瓜、植樹は、日本にも伝わったとあり。幻術そのものが日本に伝わったのか、それとも幻術譚が伝わったのか。後者だろう。果心居士などもその例か。

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火・水・木・金・土の五行説で「西」が「金」に対応していること
同じく「皮毛」(=革?)が「金」に対応していること
ja.wikipedia.org/wiki/五行思想
――五行思想 - Wikipedia

これらのことから、幻術師が西からやってくる理由を説明しているのだとしたら、五行説が信じられていた時代ならともかく、今となっては面白いものではない。
古代中国における西とは異域のこと。具体的には、ペルシャ、インド。
そちら方面から怪しげなやつがやって来た、という事実めいたところだけ見ておきたい。

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西方主金,金為從革,故化人之來必自西極也。――

なぜ幻術師は西の果からやってくるのか。
その理由が「西方主金,金為從革」なのだろうが、漢和辞典をめくってるだけでは解けそうもない。

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