牧原秀樹「ネット上で『サヨク』と見えている人の多くは実際には日本の方ではなく、日本人を装った工作員の方である可能性もあります。日本の分断化工作には乗らず、本当の日本人同士は『和』の力で国を守らないといけないと思っています」 (2022年8月23日のツイート)
以下、当該ツイートについて、憲法的観点から論じていく。
憲法第19条は「思想及び良心の自由」を保障しているが、ここでの「思想/良心」は宗教的色彩を含むものに限られず(これは第20条で保障)、たとえば「人生観」や「政治観」といったものも含まれる。更に、当該自由は「内心に留まる限り」において「公共の福祉」による制約も受けない「絶対的自由」である。明治憲法下において、公権力が特定の思想(多くは反権力/反体制的なもの)に対して苛烈な弾圧を加えてきたという歴史的事実があり、その反省を踏まえて同条が規定されたわけである。
「内心を外部に発出」すればそれは「表現」となり、この段階では「公共の福祉」による制約を受ける事になる。尤も「公共の福祉」とは「各人の人権の衝突を調整する原理」であり、決して「政府の意向」や「全体の利益」といったものではない。したがって、公権力が「政府に批判的である」事を理由として、市民の言論に対して「敵視/弾圧」をする事は許されない。
思うに、公権力が市民に対して故意に「虚偽情報」等を垂れ流す事は、憲法第19条で保障される「思想及び良心の自由」を侵害していると言えよう。公権力による「事実を歪めた上で市民の内心/意思形成過程に働きかける」という行為は、言ってみれば「洗脳」であろう。「市民の自由意思を阻害し、公権力の意向に沿うように誘導」しているからである。
たとえば、自由民主党政権がワンズクエスト社に「Dappiによるデマ流布」を依頼していた事が問題となったが、これは市民の内心/意思形成過程に働きかけて「虚偽を真実と認識させる」ように仕向けたものであり「洗脳/自由意思の妨害」に該当するであろう。
「思想及び良心の自由」は、内心に留まる限りにおいて「公共の福祉」による制約も受けない(絶対無制約)。加えて、当該自由は「表現の自由」や「信教の自由」といった各種基本権の「基盤」となるものである。ために、自由民主党政権による「市民の意思形成阻害」は、憲法上の基本権における基盤を侵害したという意味で、極めて悪質な憲法違反行為であろう。
「国は個別の法律がなくても閣議決定によって地方自治体に指示できる」という内容の地方自治法改悪案は、ひとり「地方自治の本旨」のみならず、行政法学の大原則たる「法律による行政」に反する。
1:法律と行政活動の内容が抵触する場合、法律があらゆる行政活動に優位する。→「法律の優位」
2:市民の自由、財産等を制限する内容の行政活動は、法律の根拠に基づいて行われなければならない。→「法律の留保」
3:市民の権利/義務に関わる法規を作れるのは法律によってのみである(尤も、地方自治体における「条例」は「法律」に該当する)。→「法律の法規創造力」
国の地方自治体に対する関与も、窮極的には市民の権利/義務を左右するものであり、これらの原則は当然に該当する。地方自治法第245条の2にある「関与法定主義」において具体化されているが、上記地方自治法改悪案はこれを骨抜きにするものである🙄
「国の指示権」に関する地方自治法改悪然り、「離婚後共同親権」に関する民法改悪然り。これらは、立法過程に際して「審議/裁量について十分に考慮すべき事情を考慮しなかった」という重大な瑕疵があったと言えるので、ただちに違憲無効とすべきである。
日本では、具体的な法律上の争訟において「事件を解決する過程で付随的に法令の憲法判断がなされる」という「付随的違憲審査制」が採用されている。しかし、政府が「憲法敵対的性格」を有し、憲法及び法令に反する形で執政を行っている(加えて、憲法の理念に適合しない立法も多々行われている)という「異常事態」においては、付随的審査制のみでは憲法保障が十分に機能しない。かかる場合においては、憲法保障の観点から、裁判所には「事件性」がなくても法文それ自体の違憲性を判断できるという「抽象的違憲審査制」も許容されるべきであろう。尤も原告による「訴え」が必要なのは言うまでもない(「訴え」が主観訴訟か客観訴訟かについては別論であるが)。
行政法学には「透明性原則」というものがある。これは「行政運営/行政過程が市民にとって明らかになっていなければならない」というものである。かかる観点に立てば、行政運営/行政過程において「公金がどのように使われているか」について市民に公開/周知されなければならない(これは「民主的責任行政」の観点からも当然の事となる)。したがって「使途を公開しない事」が前提となっている内閣官房報償費(官房機密費)は、明確に透明性原則に反すると言える。
尤も、透明性原則は「市民に公開/周知されればそれで良い」というものではない。「公開/周知された上で真実が明らかになる」事によって初めて充足されるというものである(真実性原則)。たとえば「公開されたが虚偽の内容だった」とか「公開されたが重要な要素について不分明である」といった場合、双方共に透明性原則に反する。
中条きよしの「年利60%という法外な利息での金銭消費貸借契約」について「当事者間の事だから問題ない」等と擁護する者が散見されるが、これは全く的外れな言説である。利息制限法は「強行法規」であり、これに反する合意は全て無効となる。ここには「契約自由の原則」は及ばず、当事者間の合意によって同法の制限を免れる事はできない。
「契約自由の原則」を貫徹させ、利息も当事者間で自由にするとした場合、たとえば金銭消費貸借において、契約自由の名の下に借主に過大な利息を要求して暴利を貪る者が出てきたりする。これは「公序良俗」に反する行為であり、利息制限法や出資法によって規制をかける必要が出てくる(契約自由の原則を修正)。ちなみに古代ローマの「十二表法」には既に利息制限に関する規定があった(当初は年利1/12だったが、商取引の活性化によって後に月利1%/年利累積12%となった)。
鈴木俊一「政治活動に使わずに残った所得で、控除しきれない部分があると議員みずからが判断した場合、納税することはもちろん可能性としてはある。(裏金問題の)疑義を持たれた政治家が政治責任を果たすという観点から判断されるべきだ」
どうやら鈴木は「納税は各議員の判断による」と言いたいようである。これは憲法第30条に規定される「納税の義務」を、事もあろうに「自党の議員を庇護するために」骨抜きにするという事であり、到底看過できるものではない。明白な「憲法尊重擁護義務違反」である。
憲法第30条「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ」
「納税の義務」について、同条によって直ちに国民に「納税の義務」が発生するわけではない。「法律の定めるところにより」とあり、所得税法や消費税法、国税通則法等といった具体的な法律に基づいて国民への徴税が行われるので(租税法律主義)、その意味で「抽象的義務」であると言える。
財務大臣/国会議員でありながら、身内を擁護するために「納税の義務」を「プログラム規定」に変えた鈴木俊一は辞職あるのみ。
「緊急時において国は法令の根拠がなくても閣議決定を経れば地方自治体を指揮下に置ける」という内容の地方自治法改悪案を目論む自由民主党政権。これは地方自治法第245条の2に規定される「関与法定主義」を没却するものであり、延いては「地方自治の本旨/団体自治」に反する。憲法92条により「地方自治の本旨」に反する立法はできない。
「在宅投票制度廃止事件判決」において「国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国家賠償法1条1項の規定の適用上、違法の評価を受けないものといわなければならない」とされているが、当該改悪案についてはここで言う「例外的な場合」に属するであろう。
憲法第98条第1項で「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」とされている通り、個別法によって憲法の趣旨を滅却する事はできない。オットー・マイヤーの「憲法が滅んでも行政法は存続する」という言説は、通用しない。
食料危機時に政府が農家に対して増産計画の届出を指示でき、従わない場合には罰金を科すという内容の「食料供給困難事態対策法案」を検討している農林水産省。これは「自己の農地について使用/収益/処分を自由に行える所有権の否定」であり、憲法第29条で保障される「財産権」の不当な侵害である。そもそも「危機時になってから計画しても無意義」であるが。
憲法第29条各号では「財産権の不可侵性」や「公共の福祉による財産権の制約」等が規定されている。「公共の福祉」とは「各人の権利の衝突を調整する原理」であり、所謂「公益及び公の秩序」や「政府の意向」とは根本的に異なるものである。且つ、現行憲法においては「国家緊急権」を容認する規定である「緊急事態条項」がない以上、公権力が「非常事態」を理由として市民の基本権及び自由を制限する事はできない。したがって、当該法案の如き「市民の基本権を政府の意向に劣後させるような内容の法令」は憲法違反である。
伊藤詩織さんに対して「女として落ち度がありますよね」等と誹謗中傷をし、更に彼女を誹謗中傷するツイートに対して「いいね」を押した杉田水脈。これらの行為について、最高裁で違法性が確定(名誉毀損/不法行為)した。「いいね」のみでの判断ではなく、杉田のこれまでの行為を総合判断したものである。
国会議員は憲法第99条により「憲法尊重擁護義務」を負う。憲法とは「国家機関による恣意的な公権力行使を禁じて市民の基本権と自由を保護するための基本法」である。つまり「憲法尊重擁護義務」とは、とりもなおさず「市民の基本権と自由を守る義務」という事になる。にもかかわらず、杉田はいち市民の権利を「名誉毀損/不法行為」という形で「自己の支持者等を煽りながら」侵害したわけである。これはまぎれもなく「憲法敵対行為」であり、ただちに国会議員を辞職すべきであろう。
「子育て支援金」と称して、市民に「1ヶ月あたり約500円分」の公的医療保険料増額を目論んでいる岸田文雄。これについて岸田は「歳出改革と賃上げにより実質的な追加負担は生じない。子育て増税には当たらない」等と言っているが、このような屁理屈は通用しない。
判例では「国又は地方公共団体が、課税権に基づき、その経費に充てるための資金を調達する目的をもって、特別の給付に対する反対給付としてではなく、一定の要件に該当するすべての者に対して課する金銭給付は、その形式のいかんにかかわらず、憲法84条に規定する租税に当たるというべきである」とされている(旭川市国民健康保険条例事件判決)。「形式が問われない」以上、たとえば「税金ではなく保険料だ」という言い訳は通用しないし、况んや「歳出改革と賃上げ(そもそもこれは「仮定」である)によって租税としての性質が消滅する」事にもならない。
363万円の「裏金キックバック」が明らかになった義家弘介。これについて「事務所において厳正に管理・保管されており、私的流用等は一切ございません」と言っているが、これは則ち「不正な金だと認識しており、足が付かないように隠匿していた」という事であろう。言い訳にもならないし、そもそも裏金の使用云々は問題ではない。
ところで、義家弘介はかつて「不良から更生して母校(北星学園余市高校)の教員になった」として「ヤンキー先生」と呼ばれ一世を風靡していたが、不正について保身のために言い訳で逃れようとするあたり、全く更生していないようである。教員時代は「問題を起こした生徒には徹底してヤキを入れた」と言われているが(生徒を約4時間監禁し、ロッカーがボコボコになるまで「指導」したとも)、れっきとした暴力/体罰教師である。体罰は学校教育法第11条により明確に禁止されている(制定当初からある規定)。
「この写真は、以前に取材し、記事にした京都にある徴用工像。韓国国なのもの(ママ)より先に建てられました。私有地ということで、撤去できない状態です。建てた団体は日本の中核派等過激派労組と関係の深い韓国の労組。こちらも早く撤去できればいいのですが」(杉田水脈のツイート)
現行憲法及び法令上、私有地にあるものについて、いち国会議員の意向によって撤去する事はできない。憲法第29条において保障される財産権は、法律及び「公共の福祉(→個人間における人権の衝突を調整する原理)」によって制約を受ける。しかし、いち国会議員の意向は、法律は勿論の事「公共の福祉」とは全く関係ない。つまり杉田は、国会議員すなわち立法府に属する身でありながら「法を無視した自力救済」を主張しているわけである。明白な憲法違反である。
暇空茜が「アニメイトの誹謗中傷に対して法的措置を取る。法廷でお会いしましょう」等と言っているが、民事訴訟にしても刑事訴訟にしても、果たして訴訟に持ち込む事が可能なのだろうか。
以下、「アニメイトが誹謗中傷を受けたもの」として検討する。
誹謗中傷に対する民事上の法的措置は「不法行為に基づく損害賠償請求訴訟」であるが(民法第709条)、この場合「訴えの利益」「当事者適格」「訴訟物」等の訴訟要件が充たされる事が必要である。「他人」である暇空にはこれらが認められないのではないか(つまり訴訟当事者とはならない)。ちなみに、民事訴訟法第54条第1項により、訴訟代理人になるには弁護士か商法/会社法上の支配人等でなければならない。
刑事上の法的措置は「名誉毀損」であるが、これに関しては「親告罪」であり、刑事訴訟法第230条により「直接害を被った者」しか告訴できない事になっている(但し法定代理人や一定の家族関係に属する者は告訴できる。「告発」ではダメ)。
暇空が提訴/告訴できるとなれば、暇空本人が弁護士であるかアニメイトの被用者等(それも法務部等)であるか、という場合に限られる。
復興大臣を務める自由民主党の土屋品子が、政治資金でブロッコリーやひじき等を購入していた件。これについて土屋は「事務所の神棚にお供えするためのもの」と主張しているが、これは「政教分離」の観点から問題があるのではないか。
「神棚へのお供え」は「個人の(神道に基づいた)宗教的行為」と解するのが妥当であり、これを「政治的行為」と解するのは無理がある(もし「神棚へのお供え」が事務所内において「業務」となっていた場合、公的活動に宗教的要素が「浸透」している事になるため、ここでも問題が生じる)。ために、土屋は「個人の宗教的行為」に政治資金を費消している事になる。
公法オタクのつもりだよ(՞ةڼ◔)