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小川哲『ゲームの王国』(上)より
文章がギトギトに濃い。こういうのも好きよ。

>BT
“〈足跡を見れば実際の鳥を見なくともどの鳥か分かる〉という足跡(シニフィアン)と鳥(シニフィエ)の関係への気づき”って面白いな

大根 さんがブースト

漢字の起源として、蒼頡という人物が鳥の足跡を観察して作ったという伝説がある。この話を自分は〈鳥の足跡のかたちを真似して文字を作った〉という単にデザインの話だと思っていたが、〈足跡を見れば実際の鳥を見なくともどの鳥か分かる〉という足跡(シニフィアン)と鳥(シニフィエ)の関係への気づきが契機となったという話のようだ。

んで、読み終わって、終わり方や作品の核といったものは、いまいちかっちり掴めていません。
「で、つまり、これはいったいどういうこと?」となってる自分がいます。

『ゲームの王国』や『地図と拳』に比べると、だいぶ脂が抜けててさっぱりとしてるので、読みやすいよ!
『ゲームの王国』、共産主義者の青年が娼婦を買う場面の文体とか、でたんギトギトだったもんな。あれ、凄かった。

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小川哲『嘘と正典』読了。
時間SF物っぽい感じの短編集。6編収録。
うち3編は、息子(娘)が理不尽な父親を理解しようと努める(好きなテーマだ!)話で、妻とか母親とかは背景に追いやられていて、うみょーんとなる(短編だから仕方ないね!)。
何をどう書いてもネタバレになりそうで、うーん。だけど、他の人のネタバレ感想は知りたい感じ。

この作者は、もっともらしい嘘をつくのがとても上手いです。つらつらと嘘と本当を織り交ぜて、順を追って説得力のある語り口で騙るんですよ。読んでてとても気持ちいいです、嘘だけど、説得力があるから。さらさらと流れる論理展開が気持ちいい

収録作の「時の扉」。
まず、「未来を変えられる」というのは嘘だ、と定義付けします。未来は存在していないので、存在していないものは変えられない、と。でも、過去は存在しているので、過去は変えられる、と。では、過去とは何か、時の流れとは何か、といったことを滔々と騙っていくんですね。
過去とは何かといった語りはいわば仕込みなんですが、千一夜物語のパスティーシュ風の語りで流れていくので、楽しいです。

小学生が体育座りでスケボーに乗って坂道を滑り降りる遊びをしている

サンダル履いたら足の裏が痛くなって、「無理っ、これ以上歩くの無理!」ってなって、おうちに帰ってスニーカーに履き直して、今ここ。

蕁麻疹と腹痛でうだうだしてたら、映画の時間に間に合わなくなっちゃった

大根 さんがブースト

ミヤマキンポウゲ、庭では他の種に負けてしまい、常に花壇からはみ出したところで咲くので、守りたい……と思わせられます

大根 さんがブースト

親戚の家の片付けで、本読まない層の昭和中期的な本棚とひたすら対峙してる。いろんなことを考える。「国民の読書」だなとか。

パソコン使える使えない問題だけど、パソコン以前にわたしは電卓と算盤が使えんな。
小学校の授業で算盤触ったはずなんだけど、その記憶がない。
電卓は、CとCEの違い(あ、数字打ち間違えたって時、どっちか押すんでしたっけ)も分かってないし、消費前の計算の仕方も分からん。

『HHhH』、司馬遼太郎を読んでると、メタ構造な文体の画期的さがあんまりピンとこなかったり。
小説の読み始め(小4ぐらい)で接したから分からなかったけど、司馬遼太郎の小説の書き方ってだいぶ変だよね。
司馬遼太郎以前の歴史小説をほとんど読んでいないので、あまり比較対象ができていないのだけれども。

まず、記号接地問題(それを体感せず実感を持たないままにそれの意味を理解することは可能なのか)が提示され、そこから、オノマトペとは何か、オノマトペは言語なのか、といったことが紐解かれていきます。
そして、オノマトペを拡張し援用し、身体的感触から離れ論理的な言葉を覚えていくのは、ブートストラッピング・サイクルというシステムにあると、推論を立てていきます。
物事には名前がある、単語には意味がある。では、他の物事にも意味があり、他の単語にも意味があると、推測していくことかな。
この、推測していくという行為は「仮説形成(アブダクション)推論」と呼ばれ、帰納推論とともに、人間に特徴的な思考バイアスである、といったことが書かれています。
“「AならばX」を「XならばA」と過剰に一般化することは、人間には日常的に頻繁に見られることである”と書かれ、“対称性推論をごく自然にするバイアスがヒトにはあるが、動物にはそれがなく、このことが、生物的な種として言語を持つか持たないかを決定づけている”という仮説があると書かれていて、ほへーっとなりました。

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今井むつみ、秋田喜美『言語の本質』読了。
認知科学・発達心理学者と、言語学者の共著による、「ことばはどう生まれ、進化したか」(副題)に迫る本。

ええと、読んでも言語の“本質”は分からなかったというか、何をどう説明されれば“本質”と思えるのかが、わたしには分からなくなったというか。“本質”って、なに?

ざっくり2/3ほどがオノマトペの説明に費やされ、オノマトペについては分かったような気持ちになれました。オノマトペは体感に接地しており、音声によるアイコンであって、言語の入り口であり、でも抽象的・概念的なものは表せないだよ、ということでした。たぶん。

パソコンを使える。エクセルを使える。ワードを使える。
それぞれ、どの程度の作業ができたら「使える」と言えるのかが、分からない。

わたしなんかは、「生活してるだけで偉いじゃないか」(わたしは生活できていないので)と思い、「“仕事”をする前に“生活”をしろよ」と思って、サン=テグジュペリとかに「アリ塚のアリ(俗世間の構成員)でいるのも大変なんだぞ」と反論したくなるのですが、
ただ生活に甘んじていては世界を食い潰すだけで何にもならないじゃないか、と言われれば、「ハイ、オッシャルトオリデス」と返すしかないんですね。
まあでも、世界に対して何かをやれない人、やらない人をあんまり責めてくれるなよ、やれる人はやればいいよ、と思いますわね。

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黒澤明『生きる』を見た。
“生きる”というのは、“仕事をする”ということです。あなたは“ためになる”仕事をしていますか?働け。といった映画でしたね。

主人公は役所でお役所仕事をして無為に日々を費やしていましたが、末期の胃癌を患い、それまでの生き方を後悔し、小さな公園を作るために奮闘する、というお話。
奮闘すると書いたものの、作中奮闘する場面はあまり描かれず、主人公の葬儀の場で仕事仲間が断片的に回想するだけです。
ていうか、ご遺族の前で、渡辺君は頑張っただの頑張ってないだのスタンドプレーだっただの、よくまあ盛り上がれるな。ご遺族がほぼノーリアクションなのも、不思議な感じ。

映画の尺を割いて描かれているのは、余命幾許もないと知り、自分は何も成し遂げていないと気付いた主人公の煩悶です。
夜の街で酒を飲んだり、パチンコを打ったり、キャバレーで戯れたり、元部下の若い女の子と街遊びに興じたりと、彷徨い続けます。
濡れた犬みたいな主人公のアップがとにかく多い。

主人公の葬儀の場では、渡辺君を見習おうと仕事仲間たちは奮起するのですが、その翌日からはいつもと変わらぬお役所仕事で、といったところで映画は終わります。

“働く”“生きる”といったことは、分かっていても難易度の高いことよねーって感じでした。

趣味は読書、までは言えるのですが、好きな作家や好きな本、好きなジャンルはあんまり答えられない自分がいます。
ふわっとした傾向はあるんだけど、あくまでふわっとしていて、これっていうのを定めるのが難しいね。
あと、読書以外の趣味って何だろう?

咽喉じゃなくて軟口蓋が腫れて痛い。
風邪なのかな、これ。

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