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『ファントム』を劇場で1回、そして大千秋楽の配信でも観た。
2019年に雪組での上演を観ていて、それも大変良かったのだが、宝塚で観た海外ミュージカルを宝塚でない(いわゆる「外部」の)プロダクションで観ると話がものすごくよく理解できる現象をまた体験してしまった…

まずエリックが明確に「精神的に大人になりきれていない、身体だけが育ってしまった子ども」として演出されていて、とても腑に落ちた。
エリックに素顔を見せるよう懇願したのに驚いて逃走してしまうクリスティーヌを、仕方ないとはいえほんとうにひどいな…とずっと思っていたんだけど、でも、素顔を見たにも関わらず彼女は戻ってきてエリックを膝に抱くわけで、エリックは最期はクリスティーヌにすべてを受け入れられたのだ、ということが初めてわかりました。

ブレイクの詩を朗読するクリスティーヌが途中で声を詰まらせるところが好きだったなあ。あの場面は背景の布が落ちる演出も印象に残りました。ベラドーヴァの抱いていたおくるみが紙ふぶきになるのも。

キャリエールは何度観ても所行が最悪なんだけど、何度観てもYou Are My Ownが良すぎて憎めない…演じていた岡田浩暉さんもとても素敵でした。
umegei.com/phantom2023/

私は自分のことを「女」だと認識している(つもり)ですが、世の中の多くのシス女性の認識とは違っているのかも、とはよく思う。だいたい自信がない。すぐ「つもり」「たぶん」「はず」とか言い出す。
あと「女をやめたくてもやめられない」とかもピンと来ない。自分がそうであるか確信が持てないものはやめようがない…みたいな…

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私は「女である以上、力(体格差、筋肉量)ではどうやっても男には敵わない」という感覚がほんとうにわからないんだよな。
運が良くて男性から暴力を受けたことが比較的少ないからか?(とはいえ、小学校のころに物理的ないじめをしてきた相手は男子だった)

体が大きく筋肉量が多そうな男性が近くにいると反射的に緊張する場面もないではないけど、それは「体が大きく筋肉量が多そう」に反応しているのであって…まあたしかに、そもそも「体が大きく筋肉量が多そう」なのは圧倒的に男性が多いんだけれども…。
思えば体育や部活などスポーツで「頑張っても男子に勝てなくなった」みたいな悔しさを感じたこともない。そもそも運動神経が悪くて、男子にも女子にも誰にも勝てないのがデフォルトだった。しかも経験したことがある運動部は男女差が出にくいとされる馬術部…

だから一部の女性たちが男性にほとんど生理的にもっている(ように見える)危機感・恐怖感を、私はあんまり理解できていない。
このことには多少の後ろめたさと疎外感と苛立ちがあります。

ただ、私のこういう恐怖感はホモソーシャルへの親近感にすり替わりやすいし(実際、ただホモソーシャルな関係性を長いことAro/Aceっぽさだと誤認してありがたがっていた)「女性は貞淑であるべし」「肉体は管理されてあるべし」みたいな価値観と同一視されかねないのも嫌だなあ、とは常々思っている。

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このフローレンス・ピューのありかたはほんとうにかっこいいなと思いつつ、私はけっこう肉体がこわい。毛が生えていて、体温と体臭があって、いろいろ分泌したり排泄したりする生々しい肉体がこわい。「無機」への憧れは10代から消えたことがない。
どんな表現でも基本的には古典より新しいものに惹かれがちなんだけど、ダンスだけはクラシック・バレエがいちばん見やすい。強固な型が生々しさを抑えてくれるからだと思う。前衛の舞踏とか、こわくて観られない。ピナ・バウシュもめちゃくちゃこわい。

この恐怖感はおそらく性嫌悪と地続きだと思う。生々しい性愛や肉体がこわいのは私が幼く未成熟なせいだ、まとめて「克服」しなければ、と思っていたこともあったけれど、最近はとくに性嫌悪のほうは開き直ることにしている。セックスに嫌悪感があっていけないことある?
elle.com/jp/culture/celebgossi

あと、コレクション・イン・フォーカスというテーマに沿った小さなコーナー展示がいくつか組まれていて、修復についてとか、視覚障害者向けの触って鑑賞する試みとかの解説があって興味深かった。女性画家にスポットをあてたりとか。

そのコーナー展示のひとつでエルンストの「石化した森」に出会えたのはほんとうにびっくりした!子どものころに本で見て印象的で覚えていたんだけど、ここに所蔵されていたのか…すごくうれしかった。

あとまったく知らずに行ったんですが、川崎重工(オフィシャルパートナーらしい)の提供で常設展を無料で観られる日でした。

また今度じっくり観に来たいな〜。10月から始まるキュビスム展は観たいと思ってるので、そのときまた常設展もがっつり観たい。

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国立西洋美術館「美術館の悪ものたち」の最終日に滑り込んできた。常設展の一室を使った特集展示で、それほど規模は大きくなかったけどたいへん面白かった。デューラーがたくさんあって嬉しかった。
魔女であったり、誘惑者であったり、あるいは悪徳や愚かさや罪の象徴であったり、とにかく「女」が描かれているなあ、とあらためて感じた。「ポルノクラテスあるいは豚を連れた女」とか、絵画としては好きだけど、「女」をとらえる画家の目線はけっこうひどいと思った。

国立西洋美術館にはあまり行く機会がなく、大人になってからは初めてくらいかも…?という感じだったのだが、常設展の充実ぶりにびっくてしまった。すごい絵がいっぱいあった。写本も宗教画もモネの「睡蓮」もピカソもジョアン・ミロもロダンも観られて大満足だった。
nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2023

お疲れさまでした!そういえば、私は音の記憶はない(静かだったという記憶しかない…)ので、けっこう舞い上がっていたのかも、と思いあたりました。たくさんの人が横たわっている光景は生きているとわかっていてもインパクトがありましたね…。貴重な体験でした!

金曜日は月初だったので記帳のために大手町周辺をうろうろしていた。三井住友銀行の本店を目指していたのになぜか東館に迷いこんでしまい、でもそのおかげで「Portraits」展を観ることができた。こぢんまりした規模だが、テーマの広げかたはとても面白かった。
smfg.co.jp/company/art/0825.ht

転職して3か月めというタイミングもあるのか、仕事へのモチベーションが落ち込み気味なのだが、この日はお昼にめちゃおいしいお寿司屋の豪華海鮮丼を食べさせてもらったりもして、少し元気になった。

退勤後は  へ。ギリギリ間に合い、短い時間だったが人生初のダイ・インを体験した。アフスァルトに寝転がった背中がほかほかとあたたかくて、日中の熱がなかなか逃げないのだなあと思った。

早起きして出勤前にひととおり終わらせておいた作文仕事を帰宅してから見直し、少し整えて納品した。
ほぼ2年、プロット作成の期間から数えるなら3年くらい抱えていた作文をようやく手ばなせた。校正などはこれからだが、とにかくホッとした。

やたらと気が散って思考があちこちに飛びまくり、あれも書こうこれも書きたいそれも書かなきゃ…という衝動&焦りばかりが積み上がってMastodonの下書き的なメモが膨れあがっている。
これ、PMSで脳の調子が良くない状態なんだ、ということに最近気づきました。

ツイッター以前のインターネットにも「炎上」や「バズり」は存在していたと思うけど、個々の投稿に対してのリアクションが「いいね」「RT」で可視化されるようなことはあまりなかった気がするし、「いいね」「RT」をもらうことには中毒性があると思う。そういう意味ではBlueskyにもMastodonにもThreadsにもツイッターと同じ危険性はあるはず。
脳の調子が良くなくて思考がとっ散らかり、ちょっと書いておきたいことがワーッと溢れそうになったとき、こういうSNSは手軽でもあるし、うまくいけば「いいね」「RT」という「報酬」も手に入る。依存してしまう理由しかない。

この投稿の前半とひとつ前の投稿はBlueskyの投稿をほぼそのままコピー&ペーストしているんだけど、語尾とか改行とかこまごま直したくなった(そして直した)のが面白かった。SNSによって書き方を微調整しているんだな〜という発見がありました。

おしゃれってたぶん「何を着るか」だけでなく「どのように着るか」が重要なんだと思うんだけど、私は前者にしか意識がいっていない。「自分に似合うおしゃれな服」をなんとか手に入れることしか考えてなくて(それだけでもたいへん難しいのだが)手に入りさえしたら、あとはそれを何も考えずスポッと着るだけでいい、と思っている。
でもほんとうは手に入れてからのコーディネートが本番なんだろう。

髪もそうで、美容院でいかにいい感じにしてもらうか、というところまでで精一杯。その後の日々のアレンジなんてとてもとても、だ。
苦手なことは全般そんなふうで「自分でやる」という過程を想定できていない。見栄のために仕方なくやっているだけで実際は興味がなくて、べつにやりたくないからだろうな。得意な人にとってはその「自分でやる」パートこそが楽しみなのだろうと思うので。

苦手なことほど、じゅうぶんな時間と労力をかけ、ゆっくり、焦らずに、失敗してもあきらめず、粘り強く取り組むべきなんだろうけど、現実には難しい。なぜなら苦手だから。向き合っていることが楽しみではなく苦痛だから。

『さらば、わが愛/覇王別姫』を観てきた。劇場公開時からずっと観る機会がなく、このたびの4K版上映が初見だった。1920年代から第二次大戦を挟んで、ふたりの京劇役者の人生、出会いから別れまでの50年ぐらいの物語。
幼い小豆が多指症の指を母親に切り落とされる冒頭から激しい場面が続き、しかし話は淡々と進むので私も淡々と観ていたんだけど、文化大革命の場面は凄すぎて動揺した。お互いにあんな言葉をぶつけあって、それでも蝶衣も小樓も生き延びて、また対峙する。凄い。

京劇俳優の養成所では子どもたちに虐待にひとしい折檻をしていて、すっかり人気スターになって養成所を訪れた蝶衣と小樓も、老いたかつての師匠に容赦なく打たれ、抵抗せずに受け入れる。
そこで育った蝶衣が弟子として引き取った小四を同じように打ち、「稽古をしなければ二流にしかなれない」と怒鳴っていたのは当然といえば当然なのかもしれない。それは時代の流れの中で「指導」ではなく「暴力」として否定されていくんだけども。

蝶衣はびっくりするほど美しかった。

男二人の濃密な絆に翻弄されていた菊仙も忘れがたい。蝶衣を憎みながらも姉のように世話を焼き、寄り添っていたのに、最後あんなことになってしまったのはつらすぎると思う。


西武池袋本店には子どもの頃からさんざんお世話になってきた。学校帰りに(当時の)リブロやWAVEに毎日のように寄り道していたことも懐かしい。ひとり暮らしをしていた時期はあまり縁がなかったが、実家に戻ってきてからはまた最も身近で、生活に密着したデパートになった。
セブン&アイの傘下に入ったことでだいぶ変わってしまったなという認識だったが(リブロ本店を追い出したことはいつまでも根に持っている)それでもやはり、従業員の望むかたちで存続してほしいという気持ちがある。支持します。

ストライキ、必要ならどんどんやっていくべきと思いつつ、前職で労働組合に関わる機会もあった身としては、組合側だってやらなくて済むならスト決行までは行きたくないよな…とも思う。あたりまえだけど好きでやってるんじゃないんだよね。


私がシェイクスピアにほんとうに興味を持ちはじめたのは『ホロウ・クラウン』からなんだけど(それまでは文学および演劇の必修科目だし…という義務感で観ていた、英文学専攻だったし)まさか悲劇でも喜劇でもなく史劇にハマったのは自分でもほんとうに予想外だったな…。
ヘンリアド+薔薇戦争サイクル全般に前のめりになるけど、タイトルロールのキャラが立っている『リチャード三世』がいちばん観ていて楽しいかな〜と思います。

でもいちばん好きなのは『コリオレイナス』。NTLのトム・ヒドルストン主演の公演が凄すぎた…!
PARCO劇場で観たオールフィメールの上演がよかったので、『ジュリアス・シーザー』もじわじわ好きです。

ごちゃごちゃ書いてしまったけど、礼さんの歌はほんとうに好きで、だからこそ切実に10年後20年後も元気に歌っていてほしいんだよな…。
でもこの願望は「どうか男役として燃え尽きてしまわないで」の裏返しなので、礼さん的にはこんなこと願われてもぜんぜん嬉しくないのかも知れない…うう…。
宝塚歌劇団がもっとフラットな広い世界で、男役として所属したままでいろいろな経験を積める環境ならもう何年でもいてくれと思うけど、現状私のような浅いファンからはぜんぜんそうは見えないんですよ…

あと「組織は説明すべきことは責任をもってしっかり説明しろ」と言ってるのは、ジェンヌさんの体調などの個人情報を詳らかにしろという意味ではないし、ジェンヌ個人は余計なことを言うなということでもないです。
週刊誌報道を否定したいなら、歌劇団の名前で正当な手続きをもって抗議しろ、中途半端に匂わせみたいなことをするな、まして当の本人にステージ上で喋らせてふわっと解決したことにするな、とにかく組織としてきちんと責任を持って盾となれ、ということです。

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舞台上の演者の不調にハラハラしながらステージを見守る、という経験は四半世紀バンドのライヴに通っていたあいだにも何度かあったけど、観ている側も勝手にかなり疲れてしまうんですよね…

礼さんはそのあたりのことを痛いほどわかっていて、だからこそカーテンコールのあの挨拶だったのだろうと思う。ほんとうに真面目で責任感の強い人なのだなと感じた。

ただ、個人的には、とくに緞帳前でのコメントは聞いてもあまり安心はできなかった、というより逆にモヤモヤしてしまったな…
もちろん、事実無根のことを週刊誌に書きたてられれば腹に据えかねるし、ファンのためにも言わずにはいられなかったのだろうと想像するけれど、なんか…宙組のハラスメントが週刊誌で報道されたとき、書かれた当の本人がコンサートのMCで直接エモーショナルに「説明」してうやむやになったときのことを思い出してしまった。あのときと同じなんじゃないのか?

タカラジェンヌはいつだって潔白、悪いのはすべて歌劇団、と言うつもりもないけど…個人を矢面に立たせてごまかしているように見える。
所属している個人としての発信を制限している(ぜんぜん「自由」じゃないな?!)のなら、せめて組織は説明すべきことを責任をもってしっかり説明し、構成員を守ってほしいと切実に思う。

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星組『1789』大千秋楽LVを観てきた。まずは休演から戻ってきた礼さんを含め、無事に公演が終わってよかったなと思う。宝塚大劇場の千秋楽を観たときもあまりの迫力にびっくりしたけれど、ほんとうにレベルの高いパフォーマンスで、歌もダンスも凄かった。

でも、観客がこういうことを言うのは演者にとっては不本意だろうと思うし、公演中止や主演の休演に動揺して見ない方がいいインターネットを見まくってしまっていた私には先入観もあったと思うんだけど…非常に負荷のかかる、厳しい公演だったんだな、というのは感じてしまった。すごく歌がうまくて、大楽でも歌えていなかったわけではまったくないけど、私にも察知できるレベルで喉がしんどそうな演者さんもいたし…

二幕冒頭の「誰の為に踊らされているのか」がとても好きなんだけど、「誰のために踊らされているのかよく見極めろ」という歌詞がいつまでも頭の中を回っている。
そもそも「自由と平等のために戦う」という演目を、権威主義的で、トップスターを中心とした厳然たるヒエラルキーがある宝塚歌劇団という劇団で上演するということじたいが、壮大な皮肉なんじゃないか、などとも思ってしまった。イヤな観客だな…

パフォーマンスはほんとうにみんな素晴らしかっただけに、複雑な気持ち。

足利市立美術館で開催していた「顕神の夢」展、このあと久留米市美術館へも巡回するんだけど、キービジュアルとコピーが違うとずいぶん印象が違うんだなと思った。
コピーだけ見ても「幻視の表現者―村山槐多、関根正二から現代まで」(久留米市美術館)と「霊性の表現者―超越的なもののおとずれ」(足利市立美術館)ではかなり違うのでは?

この展示、川崎の岡本太郎美術館から巡回が始まっていて、川崎での展示も「幻視の表現者― 村山槐多、関根正二から現代まで」だったっぽい。
首都圏からのアクセスでいえば川崎のほうがはるかに便利なのに、なぜ話題になったのは足利からだったんだろう、と地味に気になっていたんだけど、キービジュアルとコピーも影響していたんだろうか。知名度のある作家を押し出しているとはいえ「村山槐多、関根正二から現代まで」のトーンは「超越的なもののおとずれ」よりだいぶ落ち着いていると感じる。
個人的には、やや危うい切り口の展示だからこそ、川崎・久留米ぐらい地に足のついたコピーが望ましいような気もした。
ishibashi-bunka.jp/kcam/exhibi

この展示ほんとうによかったです。「人形」が社会のなかでどういう存在なのか、どのように受容されてきたのかという視点がしっかりあって、多角的に光をあてているという感じでした。こんなにいろいろな「人形」があるんだ!と私も新鮮な驚きの連続でした。

化粧でもこういう方向性だとがぜんやる気になる(ふつうの身だしなみメイクもろくにできない不器用にこういう応用編というか上級編のメイクができるのかという問題は置いといて)
ゴシック・ロリータファッションに片足突っ込んでいたとき、今後も続けるなら「かわいい」「美しい」じゃなくて「アグリー」を目指せばいいのでは、と思ったこともあったな〜。続けられなかったけど…

ふと思ったのは、2000年前後に流行ったガングロ・ヤマンバメイクもこの「アグリー」メイクみたいな表現だったんじゃないか、ということ。そう思うと、ガングロメイクをしている女の子を連れてきてナチュラルメイクに変えさせ、こんなにかわいくなりました!とかビフォーアフターをやっていたTV番組はしみじみ醜悪だったんだなあ。
ellegirl.jp/beauty/makeup-skin

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