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「問題があることを薄々感じつつも欲望に負けて楽しんでいたコンテンツの問題が目を逸らせないレベルになってきて引き裂かれてつらい」という、もうほんと、この10年で何回目?何で性懲りもなく同じこと繰り返してるの?学習能力ないのか?という事態にまた陥っているんですが、これはやっぱり私に問題があるんだろうか?無意識だけど自分で引き裂かれに行ってるのかな?
…などと自分で自分を疑ってしまいつつ、この引き裂かれている状態が楽しいわけではまったくないのでシンプルにつらい。問題に目を瞑り続けていられるファンダムにも、とりあえず目に見える問題はない別のコンテンツを楽しみながら「あのコンテンツはやっぱりヤバい」とそれ自体は至極まっとうな批判を向けてくる人々にも苛立ってしまう。全方位へのやつあたりでしかない…

結局は自分もそのコンテンツと距離を置く以外の解決策はなく、今までもそうしてきたし、おそらくこれからもそうなるのだが、なんだろう、「持続可能で健全な推し活」とかは幻想なのかなあ…虚しいな…

渋谷駅の地下で、ずっと気になっていたカールヴァーンのスタンドを見つけたので入ってみた。
ファラフェル(ひよこ豆のコロッケ)のロールサンドと、デーツといちじくとナッツのスムージー、たいへんおいしかったです。ヴィーガンメニューが充実していてすごく迷った…バクラヴァやクナーファも食べたかったし(ロールサンドがかなりボリューミーだったので追加できず…)
立ち寄れるチャンスがあったら逃さず立ち寄って、いろいろ食べてみたいな〜。

松濤美術館「私たちは何者?ボーダレス・ドールズ」を観てきた。
平安時代の人形代から始まり、雛人形や武者人形、工芸品、マネキン、関節球体人形、フィギュア、ラブドールまで網羅されていてめちゃめちゃ面白かった。同じ作家が商業目的で製作したマネキンと美術品として扱われている彫刻作品を並べて、「彫刻」と人形製作の関係を意識させる展示のしかたもとても良かった。

呪殺したい相手の名が生々しく残る人形代をはじめ、「怖い」と感じる人形がけっこうあったと思う。生人形の緻密さ、精巧さも少し怖かった。お土産物っぽい素朴な佇まいの木片人形や諸国名玩集はとてもかわいかった。
平田郷陽、天野可淡、四谷シモンなど有名な作家の人形たちの存在感もさすがだった。四谷シモンは「ルネ・マグリットの男」みたいな人形も作っていたことを初めて知って新鮮。
中原淳一が自分のために作ったという男性と少年の人形も印象的だったな…
蝋人形のドストエフスキーや、『新世紀エヴァンゲリオン』のアスカもいました。
shoto-museum.jp/exhibitions/20

せっかく夏休みをとって足利まで来たので、足利学校と鑁阿寺にも寄った。足利学校にはアニメ絵の小野篁がいて、声優さんが論語を素読していた…。鑁阿寺は広々していてとてもよかった。

東武足利市駅を出てすぐ、渡良瀬川があって、ここが森高千里でおなじみの…と渡りながらしみじみしたりした(世代がバレるね)。

あと足利市立美術館に刀剣の気配があって、そういえば山姥切国広のゆかりの場所か…と思い出すなどしました。

それにしてもとにかく暑かった…
最高気温35度を超える猛暑日は、ちょっと外をうろうろしているとそれだけで熱中症になりかけるということが身にしみてわかった。

7月に家族でドライブをしたときの行き先も佐野だったので、この夏は栃木づいていますね。
佐野では家族がお店を調べてくれていてたいへんおいしいラーメンを食べたんだけど、私はそういう下調べをぜんぜんしていなくて、たまたま見かけた雰囲気のよいカフェでレモンタルトを食べました(おいしかった)。

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足利市立美術館「顕神の夢 ー霊性の表現者ー 超越的なもののおとずれ」を最終日に滑り込みで観てきた。
不思議なインパクトのある作品ばかりで、一見して「怖い」と感じるものも多かった。萬鐡五郎、佐藤溪、船越直木の絵画がとくに怖かった。子どものころに見たら夜中に思い出して泣いていたと思う。萬鐡五郎の「目のない自画像」をはじめ、思わずギョッとしてしまう自画像が幾つもあったのも忘れがたい。
好きだったのは古賀春江「孔雀」、花沢忍「宇宙について」、広島平和記念資料館に展示されている「人影の石」に衝撃を受けて描かれたという八島正明「給食当番」。

どの作品にも異様な迫力があるうえに、キャプションがちょっと陶酔的というか、作品と一定の距離がある書きぶりではなくて、かなり「あてられる」感じがあった。図録が売り切れていたからけっこう人が入っていたのだろうが、みんなは大丈夫だったんだろうか…
watv.ne.jp/ashi-bi/2023-Kenshi

ここ数年で身にしみてわかったことは、歌がうまい人の歌声は汲めども汲めども涸れぬ水みたいな、尽きることがないと感じさせてくれる豊かさで、この人はいくらでも歌えるんだ、と本気で思ってしまうけれど、そんなことはないということ。人間である以上、過剰な負荷をかければ持ちこたえられなくなる。

歌っている当の本人が、自らの強い希望で「どうなってもいいから、今、全力を出しきりたい」と自分の喉を酷使することは、観客には止められないのかもしれないけど…でも、観ている側はやはりつらい。「今」を乗り切れたとしても、持ちこたえられなくなる瞬間が数年後、数十年後に来る可能性だってある。

最近、長く聴いてきたバンドのライヴから足が遠のいている理由のひとつは「歌を聴くのがしんどくなった」なんだよな…
おまえもファンなら健やかなる時も病める時も
見守り抜けよ!!という感じですが…うう…ダメなファンですみません…

歌がうまい人はその恵まれた喉をどうか大切にしてほしいと、無責任な一観客としてはどうしても願ってしまう。
そしてもし、無理をさせるような外的要因があるのなら、即刻取り除かれてほしい。

誤「満点の桜が咲く日」
正「満天の桜が咲く日」

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国立新美術館「蔡國強 宇宙遊」を観てきた。
展示室はひとつの広い空間を仕切りなしで使い、壁に沿ってビデオやドローイングが配置されているほか、電飾がついた巨大なモビールがたくさん設置されていて、遊園地のような空間だった。

横浜トリエンナーレや直島の常設展示などで以前から好感をもって作品を観てきたものの、こういうまとまった展示を観るのは初めてで、プロジェクトの映像をたくさん観られたのがよかった。万里の長城を導火線を伝う火によって延ばそうとする「延長」や「スカイラダー」など、どれもよかったけれど、とくにいわきの海岸で打ち上げられた「満点の桜が咲く日」は美しかった。
北京五輪の開会式の花火もすごい。ていうかアイ・ウェイウェイがスタジアムを設計し、蔡國強が花火を担当してたのか…。この五輪に関わったことで「体制側の人間だと思われてしまった」みたいなコメントもあった。

あとは砂曼荼羅の下絵を爆発させた「闇へ帰る」をはじめ、ガラスと鏡のあいだで爆発を起こして制作された作品群が美しかった。
最初に展示されている、作家の父によるマッチ箱のドローイングも印象的だった。

nact.jp/exhibition_special/202

あとからあとから思うことが出てくるのだが、「ロパーヒンの言うとおりにすれば最悪の事態は免れた」というのも違うと思うんだよね。桜の木をすべて伐り倒し、別荘を建てて観光地にすれば収益化できる、という現実的かつ資本主義的な解決策がほんとうに良策なのか?どちらにしても「桜の園」はなくなってしまうのに。
ロパーヒンのような在り方が「賢さ」とされるのがまさに今の日本だな、と強く感じて、抵抗感があった。

ただロパーヒンの言葉に耳を貸そうともせず、「アーニャが頼めばいけ好かないが金持ちの親戚が援助してくれるかもしれない」「アーニャが裕福な男と結婚できるかもしれない」とすべてをいちばん若いアーニャに押しつけ、現実逃避しているラネーフスカヤとガーエフの姿は、もちろんそれはそれでつらいものがある。

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一夜あけて、あの石棺とポリ袋は「封印された古いもの」の象徴として舞台の上空に吊られていたのであって、具体的な直喩ではなかったのかもと思いはじめている。
幕切れ、すっかりお金がないはずの貴族たちは、大仰に嘆き悲しみながらもうまいこと逃げ出す。若者たちは新しい世界へ出発する。そうして皆に見捨てられた(と言っていいだろう)気位の高い老いた使用人だけが取り残されて、ゆっくりと下りてきた石棺の中に閉じ込められる。そのことを誰も知らない。

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PARCO劇場で『桜の園』を観てきた。
舞台上に設置された巨大なコンクリートの固まりのようなものが、開演と同時に吊り上げられ、作業員らしき人が舞台を横切ってゆき、透明なビニール?ポリ袋?を被せられたキャストと家具が現れる。ああこれは石棺で、ここは帰宅困難地区なのか、ととっさに連想したが、その後はあまりそういう要素はなかったので、私が勝手に飛躍しすぎたかもしれない。
没落してゆく貴族が手放さざるを得なくなる桜の園の、失われる古きよきもの、子ども時代の遠い思い出というイメージを強調して感傷を呼び起こすこともできる戯曲だと思うが、この舞台は観ていて「百姓の子であったロパーヒンの立場に立てばこの話は、自らを支配し抑圧してきたものを経済力で圧倒し、土地を奪うという下剋上のサクセス・ストーリーでもあるよな」という思いすら過ぎった。
男たちが(兄のガーエフも含めて)ラネーフスカヤに群がっているのも、薄ら寒い気持ち悪さがあった。ラネーフスカヤ役の原田美枝子さんはたいそうチャーミングで、説得力がありました。八嶋さん・成河さんをはじめみんなすごく上手だった。村井國夫さんは存在感がすごかった。
stage.parco.jp/program/sakuran

これはほんとうにそう。私も子どもの頃から「釣られた」という感覚がいちいち思い出せないほどにあり、「恋愛から遠そう」なキャラクターに出会うたびに、惹かれてもいいけど釣られないぞ、油断するもんか…と身構えることがほとんどあたりまえになっていた。「裏切られるぞ、期待するな」とどれほど言い聞かせていようと「このキャラクターは自分と同じ星の住人かもしれない」という期待は生まれてしまい、その期待が裏切られるたびに傷ついた。そんなことで傷つく私が繊細すぎるのだ、と自分を責めていたので、私を傷つけつづけた「そんなこと」にクィア・ベイティングという名前があると知ったときには救われたものです。

ちなみに私に『ロータス』を書かせたもののひとつはこの度重なる傷つきだったと思う。私を裏切らないキャラクターや物語がどこにもないなら、自分で書くしかないと思ったのでした。
twitter.com/kodomn_/status/168

ツイッターを始めた2010年代前半は私にとっては人間関係にいろいろ変化があった時期で、そのころに繋がったもののその後メンテナンスできなくなった関係も結構あり、そういう意味ではツイッターの「フォロー」が一度リセットされることを清々しく感じている部分がある。実は私は「フォロー」を単なる「購読」とドライに割り切ることができないほうなので(「購読」であっても打ち切られたら寂しいし…)。もちろん、フォローにもリムーブにも強制力なんて働きようがないから、「F/R/Bご自由に」みたいなことは明記するまでもない大前提、と思ってアカウントを運営していたけれども。

ツイッターを始めたほんとに最初のころは浅倉大介氏のことを毎日ツイートしていたんだよな。
LUNA SEAという一点だけで相互フォローだった人もいたし、そういう、とくにバンド関連がきっかけでフォローしてくれた人への申し訳なさはこの3年ぐらいずっとあった。アホみたいにうわごとをツイートしまくっていたのが、ほんとうにまったく話題にできなくなってしまったので。

あとは2010年代前半に夢中になっていたことのほとんどが、10年経って「過去」になってしまった、というのも大きい。
そんななか、現在進行形でつながり続けてくれている人たちにはほんとうに感謝しています。

リンク先のツイートをされたかたが実際どうかは(わからないので)ともかく、いわゆるアロロマンティック・アロセクシュアル(非A-spec)だが「恋愛に興味がなく、やりたくない」という人は相当数いると思われる。かつ、A-spec側もこの枠に放り込まれがちなので、そこを明確に分けたいというのはすごくよくわかる。
アロロマンティック・アロセクシュアルの「恋愛したくない」とA-specの「恋愛したくない」は別物なんだよね。テーブルが違う。なんならA-specのテーブルの上にも「恋愛したい」はある。
twitter.com/sto2i2pdfdqlwsy/st

しかしこの記事を読むと『エクソシスト』撮影時の監督の振る舞いは擁護できないハラスメントだな…エクソシズムもので悪魔に憑かれた役を演じる子役の負担の重さは想像に難くなく、じゅうぶんに心身をケアしながら撮影してほしいものだ…とは常々感じていたので、必要以上に怖がらせて「本物」のリアクションを引き出す、みたいなことは今後はほんとうになくなってほしい。だいたい「本物のリアクション」=「リアリティ」という認識がもうどうかと思う。
cinemore.jp/jp/erudition/1110/

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W・フリードキン監督死去、87歳 映画「エクソシスト」―米:時事ドットコム jiji.com/jc/article?k=20230808 『ヴァチカンのエクソシスト』のおかげで最近思い出すことが多く、10年前に観たきりで細部など忘れているのでもう一度観ようかなあ、などと思っていたところだった。観よう…

一晩中エアコンをかけて寝ているが、明け方の5時くらいに一瞬「寒いな」と感じる瞬間が訪れるようになった。8月に入ると、秋に向かっていくのだなあ、と思う。いや、まだまだぜんぜん暑いのだが。今日は天気が良くなさそうなので、そこまでは気温が上がらないかもしれない。

一週間ほど呻いていた作文がなんとか着地し、とりあえずいったん手放した。一度も読み返さず、下書きの状態で送っているので後で推敲しなければならないし、もう少し書き足さないといけないのでは…という予感もしている。ともあれ、お話としての最後にはひとまずたどり着いたので、ホッとしている。ほんとうによかった。書いているうちにいずれ結末が見えてくるだろう、という楽観的な態度で書き始めたものだから、いつまでたってもゴールの位置がわからなくてかなり不安だった。不安なまま、ともかく走り終えた、という感じ。

学生のころ、友人にリクエストされたお話をうまく書き終えることができず、落ち込むことがよくあった。そのことを久しぶりに思い出す作文だった。

まだ作文してるけどほんとうにつらい。義務感だけでやる作文、割に合わないにも程がある。こんなしんどいこと、好きこのんでやる以外の動機でやるもんじゃないな(個人の感想です)

書いている人間が「つらい、苦しい、つまらない」と思いながら書いている文が、読んで面白いなんてことあるのかな?少なくともエンタメであるなら作り手も楽しまなければ、そういう「気分」はごまかしが効かず、受け取る側にはほんとうによく伝わるから、と思っているんだけど…でも、つまらない作文を「面白い」と思いこむこともまた無理だしなあ。こういうところが甘いのかなあ。

いつまでたっても社会の一構成員としての「ちゃんとした大人」になれる気がしないな〜などとのんきに思っているうちに、いつのまにかひとまわり下の世代が社会を回しているようだ。前職は高齢化が進んでいて、同世代もいなかったが若い人もいなかったので気づかなかった。
ちょうどその世代にあたる友人が「会社に40代がいないせいで、マネージャー業務をする人間がおらす、自分におりてくる」と嘆いていた。私の直属の上司もひとまわり年下だ。取引先で出会う人にも確かに同世代は少ない。ほんとうにいない。
このまま下の世代が回す社会に「乗せてもらって」いく世代になるのか、と思うとぼんやりしてしまう。当事者になって責任を負うのもまあめんどくさいし、とヘラヘラしているうちに、当事者になる機会を失くしてしまった。

40代の人間がこの世にいないわけではない。むしろその下の世代よりも人数はいるはずだ。なのに「事業会社に無期雇用されている人間どうしの場」にびっくりするほど40代がいない。
私に見えていないだけか?そうならいいと思う。思うが、「フリーターという自由な生き方」みたいなことをリクルートに吹きこまれ、非正規として安く便利に買い叩かれたあげくがこれか、という悲しみは年々強くなる。

縁があって手元に来た短歌の本を捲っていたら、捲っているだけで耐えられなくなってしまって、まだ私は短歌に触れられる状態ではないんだなと再認識した。まあ「短歌」以外もだいぶ疎外感を煽られる切り口の本で、だから刊行されても手にとるつもりはなかったんだけど、やっぱりnot for meだったなあとしみじみ思う。激しくnot for meなんだけど、外からは「あなたはこういうの好きでしょう」と言われがちな領域があって、その領域に属するものこそが最も苦手なのだが、まさにそこの本棚にある本だった。

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