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というわけで、アクセント史が専門の私が見ても、よくできているなあと思う記事を。というか既存の教科書類でも、ここまでコンパクトにまとまっている、良質でしかもアクセント論的に中立の立場を守っている記事は見たことがない。

日本語の方言のアクセント - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/日本語の方言のア
*素晴らしい

類 (アクセント) - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/類_(アクセント
*安定感がある

中古日本語 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/中古日本語#アク
*もうちょっと参考文献を示してほしいなと思うけれど。

私が授業で話すようなレベルにかなり近いか、部分的にはこちらのほうが上回っている。もし自分がこの粒度で話すとしたら、大学院の演習だなと思う。

ただ学生がレポートでここを参照してきたら、やはり違うだろうと言う。それは百科事典を引いてきた学生についても同じで、他人のまとめに過ぎないからだ。自分で原典に当たってくるべきと言うでしょう。それは決してwikipediaの信頼性を問題視するのではなくて、学問的な姿勢の問題が言わせるのだと思う。(3/3)

無法者のいたずら書きは編集履歴で分かるだろうとも。その意味では印刷版の百科事典より信頼できる仕掛けも持っている、と言えなくもない。印刷版の百科事典は専門家が記名しているが、そのことと内容の確かさは厳密には同じではなく、はっきりしているのは責任の所在の有無だけだ。

査読によって保証されていないということを言い出すのであれば、世に溢れる大学紀要論文には価値がないと言い出されかねない。というか百科事典には私たちはそういう最新の知見やら、個別資料のデータなどを求めてはいない。やはり基礎的な概略なんであって、それがきちんと整理されており、その根拠が参考文献や注の形で示されていれば事足りる。(2/3)

年末だから、ふだん思うことをもう少しメモしておきます。

ある図書館情報学の先生から、今もWikipediaはレポートなどの参照文献に認めない先生がいるらしいけど本当?と聞かれたことがある。Wikipediaが出所不明な間違いを記載するという話は古くあったが、今はそんなレベルではないのだという。

ウィキペディアの信頼性(2023.12.25) - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/ウィキペディアの

引用されている文献は古い。

CA1676 – ウィキペディアにおける情報の質(IQ)向上の仕組み(2008.12.20) / 石澤文 | カレントアウェアネス・ポータル
current.ndl.go.jp/ca1676

2012年の論文もある。
ウィキペディア:その信頼性と社会的役割
jstage.jst.go.jp/article/johok

いずれも信頼性は程度問題であるとしか読めず、至極妥当だと思う。目を引いたのは、百科事典とは未知のことを概略的に知るためのものであって、専門書などとは訳が違うのだということ。整理された基礎的な事柄が記載されることが望ましいのだということ。(1/3)

日本の古典和歌を埋め込みベクトルで分析する|yhkondo
note.com/yhkondo/n/nd321604729

近藤先生による。LLMで古今集、万葉集、和漢朗詠集を言語的観点から量的にその性質を探ったもの。

こういう研究は、ともすると、定性的観点から研究されてきた文学の成果で答えは出ている、と一段価値を低く見積もられがちとも危惧するのですが、定性的・定量的の両面から妥当性が確かめられてこそ、文学研究の成果も保証されるので、win-winの関係にあると思います。さらにいえば、文学村の閉じた成果がきちんと外の世界から関心を持ってもらえること、そのことを通じて研究が外に開き、新たなブレイクスルーも生まれる可能性を持つことが重要だと思います。

私は統計についてはマスターすることはできていませんが、先輩筋にバリバリ使う人がいたので、自分の研究との接点をそれなりに考えることはあります。文献資料に現れる漢字音というのは、常に古代中国語音への規範的態度と、学習に対する弛緩(いい加減さ)という態度と、日本語の位相で実現させようという態度とが混ざり合って現れます。それを定量的に記述できたら、と思うのです。LLMにもそのヒントがあるような気がして、しかしもう一歩踏み込めずにいます。

今年のM-1で優勝した令和ロマンの、いかにも関東っぽさって何なんでしょうね。関西弁のしゃべくり漫才に感じる「イケてる大学生」みたいな感じがない、あれです。

有り体に言うと、関東はダサい。ゆえに安心してみていられる。いい意味でダサいとでも言いましょうか。文化部的な、それでいておしゃれでしょっていうほどのオフビート感もないというか。

で、昨晩はかたわれの高比良さんのコラムを読んで、関西と関東のことばの違いを論じているのが面白かった。

korekara.news/rensai/7077/

その中で、関西方言と関東方言のアクセントの違いに触れた箇所がある。
「アクセントが語尾にあるので、語頭を少し端折っても伝わりやすい。「なんでだよ」は「なん」にアクセントがあるのでそこと前のボケが被ると分かりづらいですが、「なんでやねん」は「やねん」が大事なのでぶつかっても大丈夫。」

メディアにふと現れるアクセント観察、いつも興味深いと思う。そう聞いているんだあ、という。アクセントは文字に残らないから、こういう記述が後から発見されて、当時のアクセントを再建するよすがになったりする。江戸時代の契沖、平安時代の悉曇蔵の記述もそうだった。1000年後の人がこの記述を見つけたときのことを考えると、ちょっと面白い。

万葉集とかに「十六」と書いて「しし」と読ませたり「八十一」と書いて「くく」とか読ませたりする例を紹介すると、そんな昔からかけ算九九があったんすね的なコメントをいただくが、いやそもそも中国由来だし…とお茶を濁していたところ、今後は紀元前の楚簡から存在していましてー、というエピソードが添えられることになる。

news.livedoor.com/article/deta

KATO Daikaku さんがブースト

すげー。本当に九九だ。

「2300年前の「かけ算九九表」を発見 中国湖北」
news.livedoor.com/lite/article
楚簡「九九術」の竹簡は変形し、文字も不鮮明だったが、解読により「二:五七卅又五、四七廿又八、三七廿又一」の文字が判明。専門家が「九九術」と暫定的に命名した。

自分史上最大の失敗パン。敗因は発酵が不十分、または二次発酵が不十分、または水が多すぎ、または焼き上げの温度不足、またはデカすぎ、またはそれ全部。

昨年、長時間発酵でハードパンをした時はここまで派手な失敗はなかった涙

カンパーニュっぽいのをいい加減にやろうとしてのこれです。やはり衝動的に始めてはならんな、と反省です。無理にバター塗って食べてますが、美味いものではない

私が持っている授業では、アクセント史の話をするとだいたい「難しかった」とか「奥が深かったです」的な身の入っていないコメントを学生からいただくのですが、今日はなんだか違った。かなり理解している。コメントもめっちゃ専門的と思えるものが溢れている。

これまでと変えたのは、レクチャーだけじゃなく、ワークショップ的にやったところです。ピアの聞き取りや、自分のアクセント体系の分析などを入れた後に歴史の話をしたのが良かったのかもしれない。

これまでの90分から100分になるということにあたって、アクティブラーニング的な手法を入れた方がいいと言われているが、確かにそうかも。カナダの話を聞くと、1コマ3時間だか4時間で、①テスト、②レクチャー、③ディスカッション、④追加レクチャー(TAが担当)などが普通に組み合わさっているという。日本だとTAに授業をさせてはいけないので、これはできないが、年の近い人が説明の一部を担うのは、変化があって学生もいいのではないか。

②のレクチャーパートはもうオンデマンド教材で事前閲覧をさせて、①③④を講義でもガンガンにやっていくのが未来的かもしれない。

ようやっと仕事納め。非常勤先の夕暮れを見ながら退勤です。

学生達から、今年もどんどん卒論の完成報告が届く。本日が〆切。〆切の直前っていろいろトラブルが付きものですが、ある学生からアパートが火事になったという報告、自分の部屋は大丈夫だが避難したと。それでもきちんと完成原稿を送ってきました。

こちらもそわそわしながらメールなどのオンラインツールをチェックしていました。真夜中の送信、早朝の確認の繰り返しです。

いまやコロナでオンライン指導が可能になってしまったので、いつでも添削しなければならない大変さもありますが、逆に隙間時間をうまく使えるのがありがたい。面談式の場合はアポ取ってというところからだったから、人数がどうしてもさばけなかった。

さああとは一人だけ報告がない学生がいますが、その学生の人となりからすると、〆切ギリギリで駆け抜けるんだろうなあと思います。みんな笑って卒業してほしい。

やば。超面白かった。というか超気持ちよかった。ブラックラグーン最新刊。

名古屋で見つけたこの看板だけはご報告しておきます。「し」と「ひ」の違いは江戸に限ったことではないです(日本言語地図の第11図〜14図も参照mmsrv.ninjal.ac.jp/laj_map/)。

でも、「ひちや」は語彙的な定着と見た方がよいかもですね。布団を「敷く」を「ひく」と言っちゃいがちな私も、「東」を「しがし」と言うわけではないですし。

週末に日本歴史言語学会でのシンポ登壇が終わり、授業や移動の合間に作り続けた本日正午〆切のまた別の発表予稿集を送信。明日に迫った学生の卒論〆切に向けて、夜な夜なのオンライン指導もどうにか駆け抜けて今!

待ちに待った広江礼威の新作がアマゾンから届く。これをご褒美と言わずして何と言おうか。

これ読んでから出勤!

大学図書館にてクリスマスツリー設置のお手伝い。原稿が忙しくてもこういうのは元気になるな!喜んでお手伝いしました。 [添付: 7 枚の画像]

類別的にも、東京方言的にも「皿(さら)」のアクセントは平板型(「庭が」と同じ)ということになっているけれど、昨日、多くの学生から尾高型(「石が」と同じ)が現れた。

「梨(なし)が」は本来尾高型だが、首都圏を中心に平板型に変わりつつあるとはよく目にするし、実際そういう印象。でも「皿」については知らなかった。

んー、でも言われてみると自分も「皿取って」みたいに助詞なしで言うと、尾高っぽい発音になってるかもしれない…

東京のラーメンでこだわりが多そうなお店に行くと、美味しいんだけど、もやっとしたものが胸に残る。一品一品、素材を選んで丁寧に作っているんだろうな…ということのありがたさと裏腹にある、ふつーに食わせてくれという気持ち。

山形に男山酒造というのがありまして、酒造見学に訪れた酒に一家言ありそうなお客が「いい水を使っているんでしょう。井戸ですか?」って聞いたら、ぶっきらぼうに杜氏が「あ?水道だよ」って言ったとか言わなかったとかいう説話を友人から聞いていて、そういうのだよ!と思わなくもない。

店主がこだわり抜いたどうの、って疲れません?それはそれで美味しいんですよ。小豆島の醤油、いいじゃないですか。だけどなんか情報を食わされている気がして、日々の食事としては勘弁してくれという。町中華の乱暴で粗雑な感じが癒やしてくれるという世界もありますよね。

あー、すみません、〆切を多重に抱えていて、黒い何かが喉元から。たぶん濃口醤油だと思います。

学び舎の図書館に向かって。今日のお遊びです。

わたくしがちょろいんだと思いますが、諫山創に対するNYTのインタビューが面白かったです(クーリエジャポンによる転載)。

諫山創が米紙に語る「ハッピーエンドを諦めるしかなかった」 | 『進撃の巨人』の結末の背景とは | クーリエ・ジャポン
courrier.jp/news/archives/3449

翻訳の問題もあるかもしれないが、物語の語り手が、物語が自律的に駆動していくかのような語り方をしている。さらに、もっとメタな目線で自分自身が、自分自身の意図とは別に、いわば「他律的に」物語を描いたと。

"でも実際のところ、私は若い頃に自分が思い描いたものに縛られていたのです。漫画は私にとって、非常に縛りの強い表現媒体になりました。自分が手にした巨大な力に、エレンが縛られることになったのと同じように。"

創作というのは書き手と相互に影響し合うものなのだ、とは論文を書いていて常々思うところです。あれは科学客観的な手法を形の上で取っているけれど、突き詰めれば私という主観の延長なのだ、とも。

…それにしても「自分が手にした巨大な力に、エレンが縛られることになったのと同じように。」かっこいいなーこのフレーズ!

たっぷり時間があっても結局集中できる時間は限られているな、と毎度論文を書いているときには思います。すごく進むときと、壁にぶち当たってなかなか進まないときとを繰り返しながら先へ進む。

学生の卒論〆切がまもなく。指導も佳境を迎えます。ほぼ同じ時期に自分も〆切を抱えているという状況は、少なくとも三年くらいは同じで、それは意図的にそうしてきたのだけど、ある種のグルーヴみたいなものがある。学生の忙しさと自分の忙しさが渾然一体となって行く不思議な感覚です。

さてさて。帰宅します。

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