というわけで、アクセント史が専門の私が見ても、よくできているなあと思う記事を。というか既存の教科書類でも、ここまでコンパクトにまとまっている、良質でしかもアクセント論的に中立の立場を守っている記事は見たことがない。
日本語の方言のアクセント - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本語の方言のアクセント
*素晴らしい
類 (アクセント) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/類_(アクセント)
*安定感がある
中古日本語 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/中古日本語#アクセント
*もうちょっと参考文献を示してほしいなと思うけれど。
私が授業で話すようなレベルにかなり近いか、部分的にはこちらのほうが上回っている。もし自分がこの粒度で話すとしたら、大学院の演習だなと思う。
ただ学生がレポートでここを参照してきたら、やはり違うだろうと言う。それは百科事典を引いてきた学生についても同じで、他人のまとめに過ぎないからだ。自分で原典に当たってくるべきと言うでしょう。それは決してwikipediaの信頼性を問題視するのではなくて、学問的な姿勢の問題が言わせるのだと思う。(3/3)
年末だから、ふだん思うことをもう少しメモしておきます。
ある図書館情報学の先生から、今もWikipediaはレポートなどの参照文献に認めない先生がいるらしいけど本当?と聞かれたことがある。Wikipediaが出所不明な間違いを記載するという話は古くあったが、今はそんなレベルではないのだという。
ウィキペディアの信頼性(2023.12.25) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/ウィキペディアの信頼性
引用されている文献は古い。
CA1676 – ウィキペディアにおける情報の質(IQ)向上の仕組み(2008.12.20) / 石澤文 | カレントアウェアネス・ポータル
https://current.ndl.go.jp/ca1676
2012年の論文もある。
ウィキペディア:その信頼性と社会的役割
https://www.jstage.jst.go.jp/article/johokanri/55/1/55_1_2/_html/-char/ja
いずれも信頼性は程度問題であるとしか読めず、至極妥当だと思う。目を引いたのは、百科事典とは未知のことを概略的に知るためのものであって、専門書などとは訳が違うのだということ。整理された基礎的な事柄が記載されることが望ましいのだということ。(1/3)
日本の古典和歌を埋め込みベクトルで分析する|yhkondo
https://note.com/yhkondo/n/nd321604729cd?sub_rt=share_pw&fbclid=IwAR3rL7188rs9yN96OQBl_xT-dqs4qoNrMHN7vbIRhJQpIPphblae1iPhKEs
近藤先生による。LLMで古今集、万葉集、和漢朗詠集を言語的観点から量的にその性質を探ったもの。
こういう研究は、ともすると、定性的観点から研究されてきた文学の成果で答えは出ている、と一段価値を低く見積もられがちとも危惧するのですが、定性的・定量的の両面から妥当性が確かめられてこそ、文学研究の成果も保証されるので、win-winの関係にあると思います。さらにいえば、文学村の閉じた成果がきちんと外の世界から関心を持ってもらえること、そのことを通じて研究が外に開き、新たなブレイクスルーも生まれる可能性を持つことが重要だと思います。
私は統計についてはマスターすることはできていませんが、先輩筋にバリバリ使う人がいたので、自分の研究との接点をそれなりに考えることはあります。文献資料に現れる漢字音というのは、常に古代中国語音への規範的態度と、学習に対する弛緩(いい加減さ)という態度と、日本語の位相で実現させようという態度とが混ざり合って現れます。それを定量的に記述できたら、と思うのです。LLMにもそのヒントがあるような気がして、しかしもう一歩踏み込めずにいます。
今年のM-1で優勝した令和ロマンの、いかにも関東っぽさって何なんでしょうね。関西弁のしゃべくり漫才に感じる「イケてる大学生」みたいな感じがない、あれです。
有り体に言うと、関東はダサい。ゆえに安心してみていられる。いい意味でダサいとでも言いましょうか。文化部的な、それでいておしゃれでしょっていうほどのオフビート感もないというか。
で、昨晩はかたわれの高比良さんのコラムを読んで、関西と関東のことばの違いを論じているのが面白かった。
https://korekara.news/rensai/7077/
その中で、関西方言と関東方言のアクセントの違いに触れた箇所がある。
「アクセントが語尾にあるので、語頭を少し端折っても伝わりやすい。「なんでだよ」は「なん」にアクセントがあるのでそこと前のボケが被ると分かりづらいですが、「なんでやねん」は「やねん」が大事なのでぶつかっても大丈夫。」
メディアにふと現れるアクセント観察、いつも興味深いと思う。そう聞いているんだあ、という。アクセントは文字に残らないから、こういう記述が後から発見されて、当時のアクセントを再建するよすがになったりする。江戸時代の契沖、平安時代の悉曇蔵の記述もそうだった。1000年後の人がこの記述を見つけたときのことを考えると、ちょっと面白い。
万葉集とかに「十六」と書いて「しし」と読ませたり「八十一」と書いて「くく」とか読ませたりする例を紹介すると、そんな昔からかけ算九九があったんすね的なコメントをいただくが、いやそもそも中国由来だし…とお茶を濁していたところ、今後は紀元前の楚簡から存在していましてー、というエピソードが添えられることになる。
すげー。本当に九九だ。
「2300年前の「かけ算九九表」を発見 中国湖北」
https://news.livedoor.com/lite/article_detail/25597135/
楚簡「九九術」の竹簡は変形し、文字も不鮮明だったが、解読により「二:五七卅又五、四七廿又八、三七廿又一」の文字が判明。専門家が「九九術」と暫定的に命名した。
私が持っている授業では、アクセント史の話をするとだいたい「難しかった」とか「奥が深かったです」的な身の入っていないコメントを学生からいただくのですが、今日はなんだか違った。かなり理解している。コメントもめっちゃ専門的と思えるものが溢れている。
これまでと変えたのは、レクチャーだけじゃなく、ワークショップ的にやったところです。ピアの聞き取りや、自分のアクセント体系の分析などを入れた後に歴史の話をしたのが良かったのかもしれない。
これまでの90分から100分になるということにあたって、アクティブラーニング的な手法を入れた方がいいと言われているが、確かにそうかも。カナダの話を聞くと、1コマ3時間だか4時間で、①テスト、②レクチャー、③ディスカッション、④追加レクチャー(TAが担当)などが普通に組み合わさっているという。日本だとTAに授業をさせてはいけないので、これはできないが、年の近い人が説明の一部を担うのは、変化があって学生もいいのではないか。
②のレクチャーパートはもうオンデマンド教材で事前閲覧をさせて、①③④を講義でもガンガンにやっていくのが未来的かもしれない。
学生達から、今年もどんどん卒論の完成報告が届く。本日が〆切。〆切の直前っていろいろトラブルが付きものですが、ある学生からアパートが火事になったという報告、自分の部屋は大丈夫だが避難したと。それでもきちんと完成原稿を送ってきました。
こちらもそわそわしながらメールなどのオンラインツールをチェックしていました。真夜中の送信、早朝の確認の繰り返しです。
いまやコロナでオンライン指導が可能になってしまったので、いつでも添削しなければならない大変さもありますが、逆に隙間時間をうまく使えるのがありがたい。面談式の場合はアポ取ってというところからだったから、人数がどうしてもさばけなかった。
さああとは一人だけ報告がない学生がいますが、その学生の人となりからすると、〆切ギリギリで駆け抜けるんだろうなあと思います。みんな笑って卒業してほしい。
名古屋で見つけたこの看板だけはご報告しておきます。「し」と「ひ」の違いは江戸に限ったことではないです(日本言語地図の第11図〜14図も参照https://mmsrv.ninjal.ac.jp/laj_map/)。
でも、「ひちや」は語彙的な定着と見た方がよいかもですね。布団を「敷く」を「ひく」と言っちゃいがちな私も、「東」を「しがし」と言うわけではないですし。
東京のラーメンでこだわりが多そうなお店に行くと、美味しいんだけど、もやっとしたものが胸に残る。一品一品、素材を選んで丁寧に作っているんだろうな…ということのありがたさと裏腹にある、ふつーに食わせてくれという気持ち。
山形に男山酒造というのがありまして、酒造見学に訪れた酒に一家言ありそうなお客が「いい水を使っているんでしょう。井戸ですか?」って聞いたら、ぶっきらぼうに杜氏が「あ?水道だよ」って言ったとか言わなかったとかいう説話を友人から聞いていて、そういうのだよ!と思わなくもない。
店主がこだわり抜いたどうの、って疲れません?それはそれで美味しいんですよ。小豆島の醤油、いいじゃないですか。だけどなんか情報を食わされている気がして、日々の食事としては勘弁してくれという。町中華の乱暴で粗雑な感じが癒やしてくれるという世界もありますよね。
あー、すみません、〆切を多重に抱えていて、黒い何かが喉元から。たぶん濃口醤油だと思います。
わたくしがちょろいんだと思いますが、諫山創に対するNYTのインタビューが面白かったです(クーリエジャポンによる転載)。
諫山創が米紙に語る「ハッピーエンドを諦めるしかなかった」 | 『進撃の巨人』の結末の背景とは | クーリエ・ジャポン
https://courrier.jp/news/archives/344995/
翻訳の問題もあるかもしれないが、物語の語り手が、物語が自律的に駆動していくかのような語り方をしている。さらに、もっとメタな目線で自分自身が、自分自身の意図とは別に、いわば「他律的に」物語を描いたと。
"でも実際のところ、私は若い頃に自分が思い描いたものに縛られていたのです。漫画は私にとって、非常に縛りの強い表現媒体になりました。自分が手にした巨大な力に、エレンが縛られることになったのと同じように。"
創作というのは書き手と相互に影響し合うものなのだ、とは論文を書いていて常々思うところです。あれは科学客観的な手法を形の上で取っているけれど、突き詰めれば私という主観の延長なのだ、とも。
…それにしても「自分が手にした巨大な力に、エレンが縛られることになったのと同じように。」かっこいいなーこのフレーズ!
日本語学の研究者です。漢字音史、漢語アクセント史を文献ベースで狭くやってます。自己紹介的な論文に、「アニメ『ドラゴンボール』における「気」のアクセント─漢語アクセント形成史の断線から─」(日本語学2022年6月号)あり。データベース作ったり、自転車に乗ったり、珈琲を飲んだり、ジャム作ったりしています。https://researchmap.jp/read0135868