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千野 さんがブースト

秋らしい雰囲気になってきたので、レガンスに稲穂をいれた。

The Ina-ho ink is fit for autumn light.

千野 さんがブースト

気温がそこそこ上がったものの、それなりに過ごしやすかった日。UVカットの薄手パーカーを仕舞って、厚めのパーカーを引っ張り出して、朝晩はそのパーカーを着込んで寒い時にはフードを被っている生き物は私です。

突然ですが、人生で鈴蘭の実を見た事ってありますか?垣根代わりのレンガブロック沿いにぽつぽつと並んでて、毎年初夏になると咲いてくる鈴蘭。それに実がついたことがありました。2019年だから、4年前の今頃の時期ですね。ある日、赤い実が生っているのを発見して「これは一体何だろうか」と驚いたんですよね。鈴蘭自体は毎年咲くけど、実がついたのはさすがに初めてで。で、調べてみたら存在してたんですね、鈴蘭の実。赤くて丸くて可愛らしい形の実でした。

「赤くて丸くて可愛い」と今しがた打ったのですが、サクマの「いちごみるく」飴ってありますよね。あの謳い文句というかフレーズで"丸くてちっちゃくって三角"というのがあって、"ちっちゃくて"はよく分かるけど"丸くて三角"の部分に長年の疑問を抱いている生き物も私です。"丸と三角は両立するのかどうか"みたいな……?あと、飴といえば「パインアメ」のX公式アカウント。中の人の語りに癒されるので地味に好きです。パイン株式会社は大阪府大阪市内にあるんだよね。


#雑談 #植物 #鈴蘭


カモ(オスのマガモ)のブローチの話

水辺から離れた山道で、大樹の根元にうずくまっていた瀕死のカモ。
酷い怪我のせいで命はすでに失われようとしていた。たくさんの血が流され、小さな黒い瞳が徐々に乾き、瞼は永劫に閉じられようとしていた。

このおはなしの中だと自分には少しだけ力があり、カモの傷を癒すことはできたけれど、どうやら延命を行うには遅すぎたようだった。さらに、死んでしまったものの蘇生を試みるのは禁じられている。
カモにいなくなってほしくないと思った。

そこで完全に臓器や精神の活動が停止する前に、粘土のブローチに変容させた。
鼓動の音は消え、呼吸も感じられなくなるけれど、カモの命と存在そのものは失われず固定された。
ブローチになってもその羽毛のツヤは、透明なニスのきらめきとして受け継がれ、粘土で象られた輪郭は怪我をしていた状態よりも幾分かふっくらとして、細い首はうなだれることなく、しゃんと芯をもって頭が前の方を向いている。
首の白い輪には忠実さが宿っていた。黄色いくちばしには、誇りが宿っていた。

これを身に着けて色々な場所へ赴くほど、カモは多くの旅をすることになる。

空想おわり

小川洋子「密やかな結晶」を読んだ。

作中で「消失」と称される現象は、一部の例外を除いた人々から、特定の物事に対する感慨を取り去る。そして「秘密警察」なる組織はそれを推し進める……。
例えば香水が消失を迎えれば皆、香水を前にして何の香りも思い出も喚起できなくなり、さらには香水そのものを持ち続けることも秘密警察によって阻まれる。

同著者「薬指の標本」も以前手に取っていたから、「密やかな結晶」の作中作(小説)は変奏のよう。最後に閉ざされる扉。
でも印象は大きく異なり、記録する者と保存される者との対比が胸に残る。
消失が訪れても何も失わない、忘れない、その記憶とともに生きる人……

昔、大切にしていたのに、今はどうでもよくなってしまった事柄や、人間。または自分の一部。
誰もがこうした忘却と共に生き、消失はいつでも訪れる。

描かれるのは集団的消失でも、これは個人の領域でだって頻繁に発生する現象で、それは救いでありながら悲しい出来事なのかもしれないなぁと思っていた。忘却は。
仮に、消失を迎えたのが自分の好きでないもので、それにまつわる記憶が嫌なものであっても。
いっそ秘密警察の手を借りたいほどつらい出来事も、永劫に忘れずにいられたら、その傷も血も痛みもまた結晶になるだろう。

そして今、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの回想(「ファンタジーを書く」徳間書店)を読んでいて、彼女も似たような感覚を抱いたことがあるのだと知って喜んでいた。

ダイアナはある年、古い知人に呼ばれてハロウィーンの時期の集会に参加したそうです。
そこで出された料理、シーフードカクテルの一種が、どうしても「カスタードをかけたミミズ」に見えてしまったとか。
何が入っていたのでしょう。細長くぬるっとしたピンク色のものたち……。

さらに学生時代に遡ると、食堂で出された複数の料理を前にして「枯れた水仙とすりつぶしたいも虫」や「にかわの中の魚の目玉」に思えてしまった体験も語られており、彼女もなんとかそれを口に出してしまわないよう苦労したらしく。
その学校ではしきたりで、校長先生の隣に座った生徒は必ず「お行儀のよい話」をしなければならず、うっかり目の前にある料理の見た目を話題にしないよう気を配らなければならなかったみたいで。

どうしてもあれがアレに見えてしまう……という「ひらめき」は、特に食べ物の場合、マナーとしてその場では口に出さない方が良いのだろうけれど、こうしてエッセイの形で振り返られているものを読むのは安全で好き。
面白いと思う。たとえお行儀のよいものではなくても(場所を選びさえすれば!)

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類似した(?)個人的な話なんですが、私は「もんじゃ」にまったく馴染みのない文化圏で育っており……

まだ子供だった頃、東京都出身の友人に「もんじゃって〇〇にすっごく似ていると思う」とうかつに発言(〇〇に入る言葉はまあよくないものです、ご想像ください)をしたところ、厳しいお叱りを受けたことを思い出しました >BT

も、もちろん反省しています。
全然オープンではない場所で交わされた友達同士の会話なので、普通に笑い話で済んでますが……

読書タグの投稿を見て、そういえばこちらのタイトル、確か自分の本棚にも(かなーり前から)放置してあったのでは……と積読していたのを出してきた。
表紙が真っ赤。

西加奈子「通天閣」

"もう十二年ここに住んでいるが、向かいのそいつの名前を俺は知らない。何の仕事をしているのかも知らないし、話したこともない。ただ知っているのは、俺より前から住んでいたということだけだ。"
(西加奈子「通天閣」(2009) ちくま文庫 p.13)

街、社会、というのは奇怪な場所。
一生関わる機会もなさそうな人間たちが、一人とは言わずわんさかと、恐ろしいほど近くで「私」の周囲に存在している。

通勤の際に電車で読んでいるといっそう、車内で座ったり立ったりしている乗客それぞれの生活を妄想せずにはいられない。
あの、個々の身にその時、どんなことが起こっていようと、いかなる背景を背負っていようと、世界に何の影響も及ぼさない「はっきりとした」感じ。
ここがそういう場所であると実感する瞬間、その感触。

生活の途方のなさのようなもの。
他人の人生は、自分にとってはどう足掻いてみてもフィクションになってしまう。
通天閣にのぼったことのない私にとって、小説に描かれたその塔が、まったく架空の存在であるように。

ドゥームニ茶園
アッサム FTGFOP1

ストレートが特においしかったホールリーフ
目安よりも気持ち茶葉多めにいれて、蒸らし時間はそのままにしたものが好き、かもしれない。
どことなく草花の「青み」のようなものを感じさせる香りと風味が無二。

インドのアッサムは降水量が多い地方で、別に関係ないのに家の外でも雨が降っていると頭に浮かぶ。
もう10月に入って現地の雨季はあけたかな。

気管支がおかしくなり妙な咳が出るのはこの時期いつものことで、気温や湿度の変化が影響しているんだけど、さっき目の周辺の粘膜にも違和感をおぼえて思った。もしかしなくても花粉みたいなの飛んでるのかな。
10月上旬……。

花粉カレンダー|花粉症ナビ 協和キリン
kyowakirin.co.jp/kahun/about/c

まあでも10月のことが大大大好きな10月生まれよ。
1年のうちでこの短い間だけ、ちょっぴり元気。

カレーやシチューに使われているにんじんが、星だとか月だとかの形に切り抜いてあることが、どれほど自分にとって素晴らしいのか。
説明するのはなんとも難しい。

絶対にそうでなければ駄目、というような気持ちも別にないので、尚更かもしれない。

どうしても星や月の形でなければ嫌だ、と主張できるほど強い思いなら、もう少し簡単。でも実際、ごはんはきちんと食べられるなら「十分」なはずだし、おいしければさらに「良い」。量が過不足なく、美味であり、盛り付けがきれいな方が「楽しい」。
なのに、にんじんが好きなものの形に切り抜かれていること、その状態に、前に挙げた価値と拮抗するほどの「何か」をときどき感じる場合がある。

ううん、野菜を任意の形に切り抜くのも盛り付けの一環ではないのか?
確かに普通に考えたら、そう。
でも、自分の中で、いつの間にか特別な意味が与えられている。
祝福されている感じがする。

丸でも四角でも三角でも構わないものを、わざわざ余計に包丁や型の金具を動かして作る。感情を込めてでも、事務的にであっても、得られる結果は同じ。

おほしさま、おつきさま、ひょっとしたら混じっていないかなーとココイチのポークカレーをスプーンで軽くかき混ぜた。
そもそも目に見える大きさの野菜が含まれていなかった。

JR北海道 釧網本線
B76 北浜駅(Kitahama)

藻琴駅のおとなり。

映画「網走番外地」の撮影が行われた場所のひとつで、この北浜駅自体の所在地も末尾が「無番地(番外地)」らしかった。たまにある地番のない土地。
もと国鉄の民営化以降、敷地がそのまま残り、使われている影響を感じる。

北浜駅待合室の内部、壁の4面にも、天井にもびっしりと訪問者の名詞が貼られている(ちょっと怖い)中に、乗車券や航空券を残していく人もあった。
とりわけ、もう運行を終了した鉄道の切符なんかが発見できると面白い。

海に面した陸地のふちをなぞるように走る釧網本線。
でもそのうち北浜駅を取り上げて「最もオホーツク海に近い」と称する理由は、ホームに居ながらにして流氷を視界に収めることができる点にあるらしい。茂みや建造物に遮られず海を拝める。
駅舎の横には小さな展望台も。上るとオホーツク海だけでなく、天気が良ければ知床連山の一部も見えた。

ここで偶然出会ったのは快速「しれとこ摩周号」。
1日に1往復しかしておらず、何も考えずにホームにいたところ、網走方面から来てくれたのが幸運だった。目を凝らすと遠くから走行してくるのが、ライトでわかる。

非電化区間を走行する1両編成の車両はひたむきな感じがする。

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JR北海道 釧網本線
B77 藻琴駅(Mokoto)

駅名が「もこと」で、電報を打つ際に使われる略号が「モコ」なの、なんか……かわいい感じの響きだな……と思っていた。
モコ。
じゃあ、これをコピー&ペーストして横に並べてみたら、モコモコになるんだろうか。でも、基本的に鉄道の駅はコピペできない。あっという間に土地も線路も足りなくなる(そういう問題ではない)。

ここは大正13年に開業した。
近年、1日の平均乗車人数は15人に満たなくなっている。
網走方面へ向かう車両は、1日に約7本。
知床斜里・釧路方面へ向かう車両も、1日に約7本停車する。

手を入れながら存続している古い駅舎の中には現在喫茶店があって、一応、営業時間に行ってみたのだけれど開いてはいなかった。
都合により休業していたり、開店の時間が変わったりするのはよくあることだから、しばらく待ってみるも特に何も起きなかったので「覗きに来たよ~」という思念だけを扉の向こうに送っておく。

誰かがお店を開けにきたら、私の残した声だけがボソッと喋ってくれるはず。
怖いかもしれない。

待合室に設置されている椅子の、ひとつひとつ色が異なる部分が好きで、気になった。
別に全部同じ色でも良さそうなのに、わざわざそうなっているところが。

創元推理文庫『オドの魔法学校』
P・A・マキリップ 原島文世訳

引っ越し前のアカウントで、作中に登場するいくつかの食べ物だけ紹介していた小説。
原文(Od Magic)から日本語版の方に切り替えて再読した。

両親を病で失い、弟や恋人にも去られてしまって、孤独を背負う青年ブレンダン。

故郷であるヌミス王国北方の辺境で、植物や動物などの声を聴き暮らしていた彼は、ある日〈オド〉と名乗る女巨人に魔法の才を見出され都のケリオールへと赴く。
庭師の仕事がある、と言われて。
なかなか都の暮らしに慣れない彼は、ある日、学校の庭で不思議なものを見つけた……。

そこから、かつて大志を抱いていたが擦り切れてしまっている教師、望まぬ婚約に揺れる姫君、旅の魔術師の娘、そして書類仕事よりも街を歩くのが好きな地区官吏監……と次々に視点が移りかわり、最後に未来を示唆して物語が収束する。

群像劇というのだろうか、こういう形式。好きな人にはとてもおすすめ。
未知の魔法や知識を恐れて徹底した王の管理下に置き、権力側が決めたことしかできないような教育を学校で生徒に施している、ヌミス王国の現状。それがもたらした歪みや学校設立理念とのずれ、また皆の思惑が、深刻になりすぎない筆致で軽やかに描かれている。

[参照]

『ジュビリー ~ボリウッドの光と影~』
▷ シーズン1 全10話 Prime Video

人々がスクリーン上で歌い、踊る、インド映画産業(ボリウッド)発の作品は現在広く知られている。
録音技術・映像機材の発展に伴い生まれたその形式を踏襲して、20世紀半ば、インド・パキスタン分離独立を背景に「名声」をめぐる物語が展開する。

映画界の名声。
俳優、時には監督が得る誉れである。一方で『ジュビリー』におけるそれは、本物だった誰かが闇に葬られてしまった「たったひとつの名前」そのものでもあった。
マダン・クマール、という。

これは〈もういない人〉にまつわる登場人物たちの物語。
ロイ、スミトラ、ビノード、ジャイ、ニロファルほか。
もう二度と会えないジャムシェド・カーンに過去、少しでも関わった者たちが皆、それぞれの立場から彼の記憶を己の銀幕に映し出す。

彼らが憶えている限りジャムシェドはそこにいる。
映画関係者が権力・財・政治に縛られ生殺与奪を握られる中、何の後ろ盾もなく路上に放り出されたとしても、自由に演じることが至高だと信じていたジャムシェド。

この寂寥感、むしろシーズン2は無くても十分じゃないかな、と思う。
最終話にナレンの描写があったことで色々なものが回収された。

にゃ~
上の投稿文中の「フィゴット」であるべき部分が1か所だけ「ファゴット」になっちゃってて。
本当にすみません(´•ω•`)

ファゴットは楽器ですね!
ひつじ数え歌の20は、フィゴットです……。

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サリー・クルサード「羊の人類史」
森夏樹訳 青土社

3分の1位まででとても面白かった部分……それが古来より伝わり、ブリテン島周辺で多くのバリエーションが記録されている〈羊飼いのスコア〉!
ヤン・タン・テセラという数え歌。

文字通りに羊の数を数えるためのもので、1から20がひとつの区切りとなっているのだけれど、その音がなんとも流麗というか呪文みたいで記憶に残る。

1がヤン、2がタン、3がテセラ、
4がペセラ、5がピンプ、6がレセラ……

そして10のディク、まで到達すると、次の11は「ヤン・ア・ディク」即ち10+1ということになるのだが、15のバンフィットになるとまた別の区切りを迎える。
16が「ヤン・ア・バンフィット」……なのでつまりは15+1という考え方。
これ面白くないですか?
その次の区切りが20、ファゴット、でおしまい。

5 ピンプ
10 ディク
15 バンフィット
20 フィゴット

……と、5の倍数のときに他とは末尾の音が異なる語を持ってくることで、これはロープにつけた結び目の印みたいな使い方ができるのだ。
歌うような声が羊たちの合間を縫って、踊るように群れを数える。

ちなみに「ヤン」は英国ヨークシャーで、1を数える方言として今でも残っている。

@3211tadano
寝台列車好きですが、やっぱり通常の宿泊と比べるとど~しても身体が疲れてしまうの分かります🛏
桂浜も牧野植物園も素敵なところですよね、道中ご無事で&楽しめますように……!

数日前からストームグラスの内部が吹雪みたいな様相で、できる結晶が大きく、中心の山が白く閉ざされている。
ガラスの山といえば、脳裏に浮かぶのは昔話。それもヨーロッパ各地に残る類の。

有名なのはノルウェーの童話に登場するものや、グリム兄弟が収集した話の数々だが、私にとってはかつて買い与えられた偕成社の本(学年別新おはなし文庫の一冊)に掲載されていたポーランドの童話、「ガラスの山 (Szklanna Góra)」が最も印象に残っているのだった。

これはアールネ・トンプソンのタイプ分類(昔話の類型)では530番、「ガラスの山のお姫様」に振り分けられている。
つまり世界中に似たような物語があるということ。

ポーランド童話に登場するガラスの山には、頂上に黄金の林檎のなる樹が生えている。
ヤマネコの爪と、ワシの翼の力を借り、騎士が斜面を登る。
周囲には過去、登頂に失敗した他の騎士たちの骨が積み上がり、死屍累々としたありさま。

グリム童話「七羽のカラス」に出てくるガラスの山も、死や死後の世界を象徴しているように思える。
でもそれは物語の中で、生者の住まう領域と地続きの部分にあって、隔絶されてはいない。それが「一次元的な昔話」の興味深いところでもある。

私は球体の中の綺麗な山をじっと見ている。

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