小川洋子「密やかな結晶」を読んだ。
作中で「消失」と称される現象は、一部の例外を除いた人々から、特定の物事に対する感慨を取り去る。そして「秘密警察」なる組織はそれを推し進める……。
例えば香水が消失を迎えれば皆、香水を前にして何の香りも思い出も喚起できなくなり、さらには香水そのものを持ち続けることも秘密警察によって阻まれる。
同著者「薬指の標本」も以前手に取っていたから、「密やかな結晶」の作中作(小説)は変奏のよう。最後に閉ざされる扉。
でも印象は大きく異なり、記録する者と保存される者との対比が胸に残る。
消失が訪れても何も失わない、忘れない、その記憶とともに生きる人……
昔、大切にしていたのに、今はどうでもよくなってしまった事柄や、人間。または自分の一部。
誰もがこうした忘却と共に生き、消失はいつでも訪れる。
描かれるのは集団的消失でも、これは個人の領域でだって頻繁に発生する現象で、それは救いでありながら悲しい出来事なのかもしれないなぁと思っていた。忘却は。
仮に、消失を迎えたのが自分の好きでないもので、それにまつわる記憶が嫌なものであっても。
いっそ秘密警察の手を借りたいほどつらい出来事も、永劫に忘れずにいられたら、その傷も血も痛みもまた結晶になるだろう。