現象学の創始者E.フッサールに『デカルト的省察』という著作がある。
フッサールは元来、微積分学を数学的・厳密に定義したワイエルシュトラスの弟子、助手だった。
従って、フッサールの関心は数学・論理学を代表とした精密科学の「基礎づけ」。
現象学という方法は、数学・論理学の「厳密な基礎づけ」のためにフッサールによって提唱された方法である。
無矛盾的命題群の基礎づけは、ヒルベルトの公理主義的立場からも試みられたが、これはゲーデルの不完全性定理によって挫折。
フッサールは数学的には直観主義的立場に近いが、「厳密さ」を徹底して追及する中で、数学的には排除される「内的時間」に突き当たることになる。
精密科学の基礎づけは当時のH.コーヘン、E.カッシーラーなどカント派哲学者の関心でもあったが、フッサールは最終的にデカルト的「コギト」に回帰する。
面白いのは、この「コギト」への回帰が「科学」批判へと繋がり得ること。
その典型は「生物の目的は自己のDNAの複製を残すこと」という分子生物学に基づいた疑似科学的主張への「民主的」批判。
つまり、誰でも己の「コギト」=意識に問いかけることで、科学教を批判することができる。現代思想は「意識」を問わないことで「科学教」に対して逆に無力となった。
昨年6月に「ニコニコ動画」の配信では、ZEN大学の総長予定だった鈴木寛氏は、どういうわけか東大の公共性政策大学院(三浦瑠麗氏が所属した所)の教授でもある。
私は全く知らなかったのだが、2020年位には駒場の1,2年生向けの「演習」らしきものを担当していたらしい。
そのシラバスを偶然見て、ちょっと驚いた。なんと「この演習は19世紀末のフランスにおけるサロン、就中マラルメの『火曜会』を範し、文科副大臣務めた鈴木寛が主宰する」とあるではないか?
これはフランス文化史に少し通じた人にとっては「驚天動地」の文言である。
マラルメと言えば、ある意味19世紀後半の最大の詩人・思想家であり、その流れはヴァレリー、ジッドでやや穏健化するが、WWII後、サルトル、ブランショ、ジュネへと至る、いわば20世紀前衛の「先駆け」となった人物である。
また政治的にはアナーキズムに近く、実際アナーキストのために法廷で証言に立ったりもした。であるから、間違っても通産官僚や文部副大臣とは何の関わりもない、と断言できる。
またシラバスには「ノマドロジーと残響」などポストモダニズム的ジャーゴンが氾濫している。鈴木氏は1964年生なので、80年代にどこかで聞きかじっただろう。
それにしても吃驚した。
「日経」によるとドワンゴと笹川(日本)財団が運営するZEN大学が、8月に「認可保留」とされたにも関わらず、記者会見を開き、リコー、パソナなど20社以上との「インターンシップ」を発表したそうな。
まだ「認可されていない」のに公にメディアで「既成事実」化しようとする手法、昨年6月のZEN大学構想発表の際と同じ。もっと言えば「維新」と「コンサル」・「広告屋」達の退屈極まるマンネリの反復である。(ただ大学行政的には前代未聞だが)
ただ退屈なだけであれば、見なければいいのだが、未だに斎藤兵庫県知事を擁護している上山信一が副学長という大学、という第一級の「公共」問題となれば、一市民として関心を持たざるを得ない。
現在、インターンシップとは名ばかりで学生が「ただ働き」させられる案件も多い。ZEN大学は何と言っても1年学年5千人の超マンモズ校である。
協力企業に大リストラを発表したリコーや竹中平蔵のパソナが入っているとなれば、なおさら「疑惑」は募るばかり。
竹中のパソナはすでに悪名高いが、リコーも「引き出し屋」のノースガイアと派遣労働契約をしていた。
その上、ドワンゴはこのノースガイアと契約していた時期がある。かなり「きな臭い」話である。
最後は文科省の説明責任が問われるこになるだろう。
近年「維新」の広報紙と化している「朝日」、なにはともあれ、立憲民主が「有利になる可能性」は、しゃにむに潰しにかかってきているようだ。
実際、推薦人を融通し合って候補者を乱立させ、小池百合子的「多様性」を演出している程度は自民の方が激しい。しかも、女性は高市と上川陽子のみ、野田聖子でさえ、推薦人を「集めさせなかった」。
立憲に関しては、維新との共闘を表明している野田、それを支援する小沢以外、つまり枝野が勝つ可能性を「ゼロ」にしておきたい、ということだろう。
というのも、兵庫県知事斎藤氏の「狂気」とも思える「頑張り」によって維新の支持率は全国でだださがり。これでは維新との「野党共闘」の「はりぼて」で自分が当選できるのかどうか不安に感じる議員も出てきかねない。
冷静に考えれば、今立憲に投票する人はー連合以外ー反維新・反自民であることは明確である。
ところがヒトの知覚というのはおもしろいもので、選挙期間中以外の国会議員のリアリティは永田町の「内輪」で構成される。これは認知科学的にもヒトにとって「信用」がおける「内輪」は120-150人までとされている。
しかし事は国政規模での支持を競うわけだから、維新と組んだ立憲は解党的大敗を喫するだろう。実際、この状況では一度解党するしかない。 [参照]
「9・11」と言うと、2001年のアルカイダによるWTCへの自爆テロ攻撃を多くの人が想起するのではないでしょうか?
しかし、9・11は同時に選挙で合法的に選出されたチリのアジェンデ人民戦線政権を米国がまず経済封鎖で不安定化させた後、CIA、米多国籍企業のATTと直接連携したピノテェト将軍が軍事クーデターを起こした日でもあります(1973年」)。アジェンデは亡命を拒否、大統領官邸の自室でカストロから送られた銃で自決。また亡命したアジェンデ政権の閣僚達も次々と暗殺された。
国内では軍事独裁政権のお決まりの令状なしの逮捕、拷問、殺人などが行われ、当時のチリ人口の10%にあたる100万人が亡命。
社会主義関係の書物、カフカ、ネルーダ、ゴーリキー、フロイトなどの書物は焚書に処され、人口の1%にあたる10万人が強制収容所に送られた。
「死のキャラバン」と呼ばれる残虐な処刑では上空のヘリコプターの上から突き落とす手法が採用された。
ピノチェトは同時にミルトン・フルードマンの弟子達の「シカゴ・ボーイズ」を登用、当時はまだ北側では実行困難だった原理主義的新自由主義を実行。
まさにナオミ・クラインの言う「ショック・ドクトリン」であり、ここから現在にまで至る国際的新自由主義の局面に入った。 [参照]
21世紀に入ってから、企業がリストラ計画を発表すると、株価が上昇するようになった。つまり「人切りで利益を挙げて株主へ配分しますよ」というメッセージを「市場」とやらに出して、株価が上がる、という仕組み。
これを世間では「株主資本主義」と呼んで肯定する側も否定する側もいるが、現実はこの30年は、企業は利益を労働者に配分せずに、株主にまず配るようになった。
これでは金融資産(株を中心)とする超富裕層と貧困化するホワイトカラーも含めた一般労働者の不平等を拡大するのは理の当然である。
統計的にも企業は史上最高益を挙げているのに、実質賃金は下がり続ける結果となっている。
勿論、日産のゴーンも経営を立て直したと言われたりしたが、要するに「人切り」をしただけ。
尚、現在の日本では労働法に解雇規制はないが、一部上場企業は判例と慣習によって「解雇」は一応規制されてきた。
「リストラ」発表の場合は新規採用カットを意味したが、最近は課長クラスに「希望退職」のノルマを課す場合も多い。
ところで、このリコー、「引き出し屋」のノースゲイトから派遣を引き出していた。この上希望退職2千人であるから相当あくどい。
ただ小泉進次郎が主張するように解雇規制そのものを撤廃すれば、米国のように基本解雇自由となる。 [参照]
私は、今度の米大統領選までで「テイラー・スフィフト」という人を知らなかったのだが、英米ではえらい人気があるようだ。
トランプが偽造画像で、スフィフト氏が自分を支持しているかのような発信をしたかと思えば、今度はスフィフト自身がハリス支持を表明というニュースが米のみならず、BBCやガーディアンで一面トップ扱いで報道されていた。
しかし、何故BBCやガーディアンのニュースでスフィフト氏が水着を装着しているのか、と思ったけれども、これはコンサートの画像らしい。
しかし、大統領選のハリス支持表明の際に、このコンサートの画像が使われるというのは、英米人にとっては、スフィフト氏は今よっぽど「セックス・アピール」がある人、ということなのだろう。
大陸欧州ではそれほどではない気がするのだがー勿論私の「ポップス」認知力は当てにならないー日本ではどうなのだろうか?
それにしても、昨日のTV討論も含めてトランプ陣営、副大統領候補バンスも含めて、これはもう「ナチスばり」の確信犯デマキャンペーンという他ない。
ハリスにもそう大きな期待は持てないが、しかし政治においては「偽善ははるかに偽悪に勝る」ことは言うまでもない。
あとは、パレスティナ問題の収束に向けてどういう展望を示せるかに掛かっている。
ヘーゲルの影響力はマルクス、ブルーノ・バウアーなど次の世代に大きな影響を及ぼし、青年ヘーゲル派が形成されます。
しかし、マルクスをはじめヘーゲル左派が1848年革命に積極的に参加したために、革命の敗北後青年ヘーゲル派は大学から追われることになる。
これが20世紀のWWI後ヘーゲル復興が起こるまで、ヘーゲルがドイツ思想界でも圧倒的に周辺化された第一の理由(ヘーゲル右派は残存したものの、これは思想的にはとるに足らない)。
もう一つヘーゲル哲学が退潮した理由としては、19世紀半ばからの数学、科学の発展にヘーゲル派が対応できなかったことにある。
代わってカント派が、数学、熱力学、電磁気学、相対性理論、最後に量子論に対応する科学哲学を引き受けた。H.コーエンやE.カッシーラーがその代表。彼らの多くがユダヤ人であったこともあり、政治哲学としては、カント的な普遍主義を選択。「民族Volk」の哲学を唱えるハイデガーとカッシラーの対決は有名である。
日本のマルクス主義は主にヘーゲルに依拠したが、哲学は低調。従って科学の妥当性の「根拠と範囲」を批判的に吟味する作業は等閑にされた感がある。
例外は京都学派左派の三木清と戸坂潤である。戸坂はリーマン幾何学とミンコフスキー空間を踏まえた相対論を展開した。
UN AUTRE 11 SEPTEMBRE : 1973, LE COUP D'ÉTAT AU CHILI
Aujourd'hui, alors que le monde est focalisé sur le sinistre anniversaire des attentats du 11 septembre 2001, souvenons-nous d’un autre 11 septembre : celui du coup d’État militaire d’extrême droite au Chili, et ce qu'il dit de la férocité capitaliste.
Notre article à lire ici : https://contre-attaque.net/2024/09/11/un-autre-11-septembre-1973-le-coup-detat-au-chili-3/
ヘーゲルの有名な言葉に「主人は下僕の下僕である」というものがあります。
つまり主人は「労働」をしない、下僕、召使、小作人が「労働」をすることで、「主人」足り得ている。
また承認論に焦点を合わせれば、主人は「下僕」が「下僕」としての役割を果たすことで、はじめて「主人」という「アイデンティティ」を得ることができる。
つまり、労働への依存と承認の双方で「主人」は「主人」であるために「下僕」に依存している、ということになる。
『精神現象学』では、「労働」に関する記述と「承認」に関する記述が重ね合わせられており、このあたり一読してわかりやすいとは言えない。
1930年代仏でのA.コジェーブによる『精神現象学講義』は圧倒的に承認論に焦点を絞るものだった。出席者はメルロー=ポンティ、ラカン、バタイユ、イポリット(ENSのサルトルの同級生)など。J.バトラーの学術的研究の対象である。バトラーにとって「アンティゴネー論」に見られるよう、ヘーゲルは重要な参照枠であり続ける。
またヘーゲルの承認論はP.ギルロイの『ブラックアトランティック』にも応用されている。
ところで、私は日本のヘーゲル研究者の入門書、権左さん以外読んだことないのだが、ここで書いたことくらいは紹介してあるのかな? [参照]
今月の「文芸春秋」、でかでかと「驕るな、自民党!」という東浩紀と御厨貴の対談を出している。
御厨貴は東大名誉教授、サントリー文化財団理事、サントリー(株)取締役でもある。
専門は日本政治史だが、伊藤隆、佐藤誠三郎の薫陶を受けただけあって、「オーラル・ヒストリー」と称して、権力者の自慢話を聞き、それを業績と称する古典的な御用学者である。
学者でありながら同時に各種メディアに登場、小沢一郎の「日本改造計画」の政治部門を担当したと言われている。御厨は読売のナベツネと親しく、2000年頃のインタビューの記録に責任者的に関わった。学者というよりも政治部記者、という感じの男である。
さて、同じくサントリー学芸賞を貰い乍ら、今や維新のイデオローグになり下がった東浩紀、これは他言を要しないだろう。
文芸春秋の対談は、決して「驕る」自民党政権を打倒しろ、という趣旨ではなく、政権政党は自民党と決めつけた上で、選挙の時だけ「聞く力を示せ」という東の生まれる前から反復されているパフォーマンスである。
今、維新が兵庫県知事の醜態で支持率を急激に下げているので、自公政権は、あるいは現状を維持できるのでは、と期待が高まっているのだろう。
しかしあの「驕慢」の塊の東が「驕るな」と説教とはちょっと笑った。
しかしヘーゲルも又、1802-1802年までは、未だ古典的な「政治=社会論」の枠内にいました。
ところが、1803-4年、1804-5年のイエナ講義において、「相互的承認」を求める闘争、つまり主人(Herr)と下僕(Knecht)を共に「自己意識」という点では対等な両者の闘争が、倫理性一般すなわち「法」を生み出す、とするに至ります。
この急激な変化は、勿論フランス革命とその後の展開を背景にしたものです。
そして1806年アウステルリッツ、1807年イエナ・アウエルシュタットでナポレオンが、オーストリア、ロシアそしてプロイセンを連破する状況で、この相互的承認を巡る闘争において「労働」が決定的な契機を占めると考えられるようになり、これが『精神現象学』(1807年)の「自己意識の自立性と非自立性 主人Herrと下僕Knecht」へと結実していく。
この「労働」への着目からヘーゲルはA.スミスの政治経済学をも視野に入れた体系の構築に突き進むことになる。
ちなみにヘーゲルは生年はナポレオン(1769)と一年違いの1770年であり、生涯フランス革命とナポレオン賞賛者であり続けた。
この文脈において、ウィーン体制においてもヘーゲルはドイツに均等相続を規定した仏民法典の導入を主張したのである。
哲学・思想史・批判理論/国際関係史
著書
『世界史の中の戦後思想ー自由主義・民主主義・社会主義』(地平社)2024年
『ファシズムと冷戦のはざまで 戦後思想の胎動と形成 1930-1960』(東京大学出版会)2019年
『知識人と社会 J=P.サルトルの政治と実存』岩波書店(2000年)
編著『近代世界システムと新自由主義グローバリズム 資本主義は持続可能か?』(作品社)2014年
編著『移動と革命 ディアスポラたちの世界史』(論創社)2012年
論文「戦争と奴隷制のサピエンス史」(2022年)『世界』10月号
「戦後思想の胎動と誕生1930-1948」(2022年)『世界』11月号
翻訳F.ジェイムソン『サルトルー回帰する唯物論』(論創社)1999年