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筆者の言う「意味」や「知」について正しく理解できているかはわからないけど、一度ここで自分なりの考察をしておく。
かつては「全人類に共通する神」がいたと思われていた。当時の人々が思う人類とは、せいぜい似た文化をもつ隣国の人たちまでだったのだろう。
いまは根本的に違う。我々は隣人でさえ、あまりに自分と異なった存在であることを、おそらく多かれ少なかれ目の当たりにしている。それはひとえにインターネットによって可視化されたため。自分と反対側の地球にいる人達の生き方も、隣にいるがそれまで見えることのなかった彼らの内面も、もちろんすべてではないが見えるようになった。
ある事物が「人々の間であまねく共有しているコンセプト」、つまり筆者が言っていると予想される「意味」を持っていなければ、その存在すらも危うい、という論調なのだとしたら、それはもう現代においては構築しえない論理だと思う。
#読書メモ
QuizKnockのチャンネルに出ていた三輪眞弘さんも、「新しくても意味を持たなくてはならない」と言っていて、むしろ依然として現代音楽は意味に依存しているんだと思った。
「存在意義」としての「意味」はもう本当に失われていて、だからこそ外付けの意味にがんじがらめであり、それが現代音楽の生存戦略なのかもしれない。
https://youtu.be/gqY6Jv5h4I4?si=GPrFE0fGPoFvJ9Gi&t=662
北沢 方邦著『メタファーとしての音』結論『野生の思考の復権に向けて』。
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この章ではまず、西欧音楽の現代までの流れを追っている。
第二次世界大戦後に西欧音楽は、トータルセリー音楽や電子計算機による音楽といった「作曲家のロゴスをはなれて自律的な小宇宙を構成」するものになり、そうなった音楽は「一次的コード」、つまり一人ひとりが元々持っている (と信じられていた) 感性によって音楽の意味を紐解くための共通言語が無い、それはつまり「意味」を失っている、と指摘されていた。
最初は数字で決まった音にもその理論によって意味づけられて決定されているのでは?と思ったけど、そうか、数学的意味みたいなものはここで言われている「意味」とは違うのか。
このあたりの論調から、著者は意味を喪失した音楽に対して批判的・懐疑的っぽいけど、私はまだ「無意味な作品」にこそ生々しい現実・現象として、それこそ意味があるって信じているのだけど。
#読書メモ
健診で再検査項目があったので、病院に採血しに来ている。病気に対して年々臆病がひどくなってるから緊張でうっすらお腹痛いけど、病院の方たちが皆優しくてありがたい…
ゾンビの定番は、理性を喪失して人間を食べ物と認識して襲うというものだと思うけど、それなら共食いが起こらないのはなぜなんだろうという疑問がふと。
匂いが明らかに違うだろうから、そこで判断されているのかな。それか、ゾンビ同士は仲間だと認識できるだけのホルモン機能があったりするのかな。
(単純にゲームやストーリーに共食いシステムは邪魔だからっていうのは、なんというか、野暮じゃないですか )
#fedibird
ブラームスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲を分析中。
この第1楽章、ソロが二人もいるのになんだか物足りないなぁと思っていたのだけど、その理由がわかった。
対位法的な絡み方をしていない。対位法的というのはざっくり言うと、互いに独立したメロディが重なることで豊かな和音やリズムを作っている状態のことなのだけど、これがない。
つまり、この二人のソロ楽器は「互いに独立していない」、ほとんど常に一人のソロであるかのように書かれている。
一説では、仲違いをしてしまった二人 (ブラームスと友人ヨアヒム、またはヨアヒムとその妻という説がある) の和解を象徴しようという意図があったと言われているのだけど…
互いに境界が無くなるほどに一つになっている表し方をされていると考えると、奇妙な危うさが見えてきてしまうな。
#クラシック
社会人大学院生: サウンドプログラマ/フロントエンドエンジニア/大学非常勤講師として働く傍ら、インタラクティブアートやサウンドアートについて研究中。作品制作も細々と。