美学を提唱したバウムガルテンによれば、まず「美」というのは芸術作品などような自分の外にある対象を指すのではなく、自分が対象を見たり聞いたりして認知した瞬間の感覚的認識そのものを指すものである (ゲルノート・ベーメ著『感覚学としての美学』(2005) より)。
そして、感覚的認識はほとんどの場合、認識されたものの解釈や分析によって瞬時に合理的認識に変性される。そうでなければ、おそらく危険察知などに支障を来すのだろう。
ここからは私の仮説なのだけど、芸術は感覚的認識を引き伸ばすために瞬間的な解釈を拒む曖昧さや開かれを持っているし、だからこそ芸術鑑賞は安全でなければならないのではないか。
#読書メモ #研究日誌
展示が終わったので、一ヶ月以上止めてしまっていた研究に戻る。
芸術とは概念だということを確認したところで止まっていたけど、これは自分の研究の出発点や領域を確認するための、前提の前提みたいな段階。半年でこの進捗は
ということでちょっとずらして、「参加」や「関与」という経験や感覚について調べるところから再開。それも芸術分野からは一回離れて、医学・リハビリテーション科学の領域を切り込んでみた。
Häggström らによる『The complexity of participation in daily life (2008)』によると、後天性脳損傷患者のリハビリテーションという文脈では、日常生活における参加とは次の五つのカテゴリーの特徴を持った一連の経験であることが示唆されている: 「タスクを遂行すること」、「意思決定し、影響力を行使すること」、「有意義な活動に従事すること」、「他者のために何かをすること」、そして「所属すること」。
もちろんこれをそのまま芸術鑑賞の文脈に転用することはできないけど、少なからず共通点はありそう…という方向性で進めていってみようと思う。
https://medicaljournalssweden.se/jrm/article/view/18113
#読書メモ
自分の和声法の知識がほとんど芸大和声に支配されてるので、そのおおもとをもう少し深堀りしてみようということでフーゴー著『Handbuch der harmonielehre [和声法の手引書] (1887)』を読んでみている。
手引書なので色々前提とか説明をあえてすっ飛ばしているとは思うけど、初手「和音には Oberklänge (倍音) と Unterklänge (倍音を反対にしたもの) の二種類しかない」から始まってて
正誤は置いといて、この時代に和声がどういう認識をされていたかを知りたいので、全体的に論理がゆるゆるなのはあまり気にしないで読むことにする。
この頃から「長三和音は明るさや力強さ、短三和音は重苦しさや悲嘆を表す」という認識は前提としてあったようだ。その言及元はハウプトマン著『Die Natur der Harmonik und der Metrik (1853)』にあるらしいので、そのうちこれも読みたい。
#読書メモ
インタラクティブアーティスト David Rokeby のエッセイ『The Construction of Experience : Interface as Content (1998)』を読んでいる。
主旨は、インタラクティブアートの「内容 (体験を作り出すもの)」とはインタラクションによって現れるものと捉えられることが多いが、それよりも「インターフェイス」こそが内容である、というもの。
この頃からインタラクティブメディアを通して得られる自由感や支配感のような魅力的な体験の多くは、商業的な文脈によって (欺瞞的に) 演出されているものであって、そのようなコミュニケーションは社会構造そのものや我々の世界の認識そのものを作り変えている可能性を示唆し、それに対して批判的な視点を持とうと呼びかけている。
これは今まさに、また今後もずっと必要な視点だと思う。自分がどういうメディアやインターフェイスの上でコミュニケーションしているかによって、自分自身の意志や行動や世界の枠組みはほとんど必然的にすり替えられている。
もちろんその影響から完全に逃れる方法もあまりないだろうけど、意識しているかしていないかには大きな差はあると思う。
#読書メモ
(6/n)
しかしそれはそれとして、先の引用は「我々には『知』と表される全人類に共通のコンセプトが存在する」ということを揺るぎない前提としているように思える。
そういうある種のトリップはあるけど、論理の前提とできる事実だとは私は思えないのだよな…
もはや既に解体した幻想だとどうしても思ってしまう。
西欧近代音楽のコード体系や象徴が、他の文化圏の音楽には全く関係無いものであり、適用されるべきではないというこの本の立ち位置を延長させるなら、筆者の言う「本来の野生」を持つかつての人々と、「本来の野生」は失ってしまったいま現在の人々も、互いに異なる文化圏を持つ者同士であり、(西欧文化を他に適用できないのと同じように) かつての文化を現代に適用できないと言えるのではないだろうか。
(5/n) とりあえず結論を最後まで読んだ。
「われわれはふたたび本来の道をあゆむべきである。その道に復帰するとき、パプアのひとびとやオーストラリア・アボリジニー、あるいはアメリア・インディアンたちのトーテム的音楽が、なんと新鮮にきこえることであろう。それはまた、近代的自我やその主観性の体系の拘束から、われわれの心身が完全に解き放たれるときであり、そのときはじめてわれわれは、地球上のすべての存在がわれわれの《親類縁者》であることを実感するにちがいない。」(p.302)
最終的な結論はそこなの…?というのが正直な印象。
西欧近代音楽が他の音楽に対する規範だとか至高の到達点として語られすぎている現状 (少なくともこの本が出版された1980年代) を打破するというのが、この本のモチベーションだというのはあとがきで語られていたし、西欧近代音楽に紐づいている理性中心主義や合理主義を批判するのはわかる。(続く)
(4/n) 今日読んだ分のまとめ。
ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』は、透明なニヒリズムや西欧音楽の袋小路からの脱却を目指す変革の一歩だった。
この変革の本質は、主題を《展開》ではなく《変換》していくことにある。
展開は、主題が表している主観的意味、つまり「意味されるもの」を広げたり状況を変えてドラマをつくっていくこと。
変換は、主題を純粋なオブジェ、「意味するもの」として操作し、何かを告白したり物語ったりさせず、象徴として存在させ続けながらその色合いだけを変えていくこと。
《変換》の音楽は、ドビュッシーに影響を与えたバリのガムラン音楽や、ニューギニアの歌、インド古典音楽など、神話的世界や象徴的世界に紐づけられた音楽に見られる。そのため、西欧音楽でも古代的世界観や神話などの助けを借りて《変換》の音楽を推し進める動きはあった (ワーグナー、ドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキーなど) が、結局西欧音楽にはそのようなディスクールの構造が無いため、それを続けていくことはできなかった。
#読書メモ
(3/n)
筆者の言う「意味」や「知」について正しく理解できているかはわからないけど、一度ここで自分なりの考察をしておく。
かつては「全人類に共通する神」がいたと思われていた。当時の人々が思う人類とは、せいぜい似た文化をもつ隣国の人たちまでだったのだろう。
いまは根本的に違う。我々は隣人でさえ、あまりに自分と異なった存在であることを、おそらく多かれ少なかれ目の当たりにしている。それはひとえにインターネットによって可視化されたため。自分と反対側の地球にいる人達の生き方も、隣にいるがそれまで見えることのなかった彼らの内面も、もちろんすべてではないが見えるようになった。
ある事物が「人々の間であまねく共有しているコンセプト」、つまり筆者が言っていると予想される「意味」を持っていなければ、その存在すらも危うい、という論調なのだとしたら、それはもう現代においては構築しえない論理だと思う。
#読書メモ
北沢 方邦著『メタファーとしての音』結論『野生の思考の復権に向けて』。
(1/n)
この章ではまず、西欧音楽の現代までの流れを追っている。
第二次世界大戦後に西欧音楽は、トータルセリー音楽や電子計算機による音楽といった「作曲家のロゴスをはなれて自律的な小宇宙を構成」するものになり、そうなった音楽は「一次的コード」、つまり一人ひとりが元々持っている (と信じられていた) 感性によって音楽の意味を紐解くための共通言語が無い、それはつまり「意味」を失っている、と指摘されていた。
最初は数字で決まった音にもその理論によって意味づけられて決定されているのでは?と思ったけど、そうか、数学的意味みたいなものはここで言われている「意味」とは違うのか。
このあたりの論調から、著者は意味を喪失した音楽に対して批判的・懐疑的っぽいけど、私はまだ「無意味な作品」にこそ生々しい現実・現象として、それこそ意味があるって信じているのだけど。
#読書メモ
北沢 方邦著『メタファーとしての音』第一章第一節、『マライタ島レーピの「雨だれ」とショパンの「雨だれ」』。
西洋音楽・言語学・近代哲学・民族音楽のどれかの前提知識がないと早速迷子になりそうな勢い。幸い自分には西洋音楽の知識はあるので、トーン・クラスターやポリフォニー、ラヴェルの「夜のガスパール」を挙げられてもすぐわかるしイメージできるけれど、逆におそらく言語学用語である論述(ディスクール)の意味論や形式的機能という言葉で躓く。ある程度は用語の解説をしている注釈があるとはいえ、ちょっと難しい。
注目すべきと思ったのは、異なる文化圏で同じ「雨だれ」というテーマを持つ音楽があって、当たり前ではあるがその作曲者と鑑賞者の立ち位置がそれぞれ異なるということ。
ショパンのほうは作曲者の個人的情念が込められており、鑑賞者はその情念に縛り付けられる。
レーピのほうはおそらく作曲者も鑑賞者も共通して、自然の音は他界からの使信であるという視点で受け取っている。
#読書メモ
北沢 方邦著『メタファーとしての音』序論読了。このペースだと一ヶ月で読み切れるか怪しいな…
本のサブタイトルにある「音楽的知」は、「音楽が持つテクストの全体性」のこと。
音楽のテクストを構成するのは、鳴らされる音そのものだけでなく、音と音との間の無音の時間、儀礼における音楽の機能、楽器の材質やそれが象徴するもののすべてを含む。
これがテクストの全体性である。
むしろ五線記譜法のような、テクストの全体性をむしろ排除し、音の形式的な (計算可能な) 部分のみを分離・固定化している西欧音楽が特異なのだ。
このことをまず理解することから出発しよう、というのがこの序論の向かっているところだと思った。
#読書メモ
社会人大学院生: サウンドプログラマ/フロントエンドエンジニア/大学非常勤講師として働く傍ら、インタラクティブアートやサウンドアートについて研究中。作品制作も細々と。